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下鴨神社(しもがもじんじゃ・賀茂御祖神社)

2006年02月24日 21時07分17秒 | 古都逍遥「京都篇」
下鴨神社の正式名は賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と言い、上賀茂神社ともども世界文化遺産にも指定されている。

 賀茂別雷神は、高天原(たかまがはら)から日向国(現・宮崎県)に降り、後に山背(山城)国(やましろのくに)へ遷ってきた豪族・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の孫といわれている。命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)は、瀬見の小川(賀茂川)に流れてきた丹塗りの矢に感応して身ごもり、男児を出産したが、後にその子は、父である天神のもとへ昇天、それが賀茂別雷神だという。
 平安遷都後、上賀茂神社とともに王城鎮護の社として歴代皇室の崇敬があつく、国家の重大時には必ず奉幣、祈願がなされた。                   
 創祀の年代を特定することは出来ないが、「日本書紀」に神武天皇2年(紀元前658)2月の条に、当社祭神、賀茂建角身命を奉斎していた一系流「葛野主殿県主部」との氏族の名があり、この氏族は、賀茂建角身命の先の代、天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族であったことで知られている。
 また、「賀茂神宮賀茂氏系図」には、賀茂建角身命の子、鴨建玉依彦命より11代後の大伊乃伎命の孫、大二目命が鴨建角身命社を奉斎していたことが記されている。その社が、今日の賀茂御祖神社の始源の社の一社であろうとされている。

 崇神天皇7年(紀元前90)には、社の瑞垣が造営(「鴨社造営記」)され、垂仁天皇27年(同2)8月には、御神宝が奉まつられている。また、緩靖天皇(同580)の世代より御生神事が行われたとの伝承があり、欽明天皇5年(544)4月から賀茂祭(葵祭)が行われていることからみて、創祀は西暦紀元をはるかに遡るものとみられている。
 当社が祀られたられたのは、崇神天皇の2年(同2)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代から祀られたれていたとおもわれる。先年糺の森周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘されたことから、それを裏付けているという。

 平安時代には、国家と都の守り神として、また皇室の氏神として、特別の信仰を受け、式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことが知られている。
 平安京遷都以降は皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称せられるようになり、大同2年(807年)には正一位となり伊勢神宮に次ぐ地位が与えられ、伊勢神宮と同様、齊王(さいおう:神社に奉仕する未婚の皇女)がおかれたという。
 賀茂川と高野川が合流する三角州にある、3万6千坪の広さをもつ「糺の森(ただすのもり)」は、「石川や瀬見の小川の清ければ つきも流れをたづねてぞすむ」と万葉集にも詠まれ、泉川と瀬見の小川、奈良のせせらぎが流れる。樹齢200~600年とも言われるムクノキ、ケヤキ、エノキなどが繁り、春には青葉、秋には紅葉を水面に映し悠久の時の流れをとどめ、国史跡に指定されている。
 森の中、参道に平行して西側に馬場が設けられており、ここで毎年5月3日には「流鏑馬(やぶさめ)神事・平騎射」が行われる。

 当社の例祭として名高い「葵祭」について紹介すると、今から約1400年前の567年、凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延した時に、欽明天皇が勅使を遣わされ、「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。上賀茂、下鴨両神社の例祭であり、「祇園祭」「時代祭」と並んで「京都3大祭」の1つに数えられている。祭は平安王朝時代の古式のままに「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の3つに分けて行われ、内裏神殿の御簾をはじめ、御所車、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、全てを葵の葉で飾ったことから
「葵祭」と呼ばれるようになった。「路頭の儀」と「社頭の儀」がよく知られており、路頭の儀が葵祭のハイライト、都大路の行列である。
 行列は、勅使をはじめ検非遺使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など平安貴族そのままの姿で列をつくり、午前10時30分、京都御所を出発する。そして、王朝風の優雅な列が市中を練り、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう。

 文化財について触れておこう。
 「社殿」は平安時代の様式を忠実に伝え、本殿2棟は国宝、53棟が重要文化財に指定されている。長元9年(1036)に、社殿り修理を義務づける式年遷宮制(しきねんせんぐうせい)が定められ、21年周期で造替されることになった。
 「本殿」は3間社流造(さんげんしゃながれづくり)で国宝に指定され、東本殿には玉依媛命、西本殿に賀茂建角身命が祀られている。現在、第33回式年遷宮が平成6年に東西両本殿の遷宮が行われ、続いて各社殿や社の修理が行われた。
 「御手洗社」(みたらししゃ)は井戸の上に建てられていることから「井上社」ともよばれており、本殿の東側に位置している。社の前の池は「みたらしの池」とよばれ、毎年7月の土用丑の日には多くの人がこの池に足を入れ厄除け、病除けを祈るという「足つけ行事」が行われる。また、この池に湧く水の泡を人の形に象ったのが「みたらし団子」で、ここがそれの発祥の地という。
 「中門」(重文)は檜皮葺の四脚門で、門の左右に設けられた楽屋(重文)は、かつて行事の際に雅楽を演奏した。「言社」(ことしゃ・重文)は干支の守護神を祀る社で、7棟の建物で構成されすべて3間社流造。「幣殿」(へいでん・重文)は、正面に軒唐破風を設け、二柱の祭神に供物を奉げる場所。奥に座する2つの本殿と渡り廊下で結ばれている。軒下には双葉葵の飾り金具があしらわれている。「舞殿」(重文)は寛永5年(1628)に、橋殿、細殿、楼門などとともに造替された。葵祭では、ここで勅使が祭文(さいもん)を奉上し、その後、日本最古の歌舞といわれる「東遊」(あずまあそび)の舞が奉納される。 御手洗川に架かる朱塗りの橋のたもとに「光琳の梅」と呼ばれる紅梅がある。尾形光琳がこの紅梅を見て「紅白梅図屏風」(国宝)を描いたといわれている。
 
 所在地:京都市左京区下鴨泉川町59番地 
 交通:京阪出町柳駅・叡電出町柳駅より徒歩8分JR京都駅より市バス4・205系統、下鴨神社前(または糺の森)下車。

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