「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「一条戻橋」(いちじょうもどりばし)

2006年02月20日 11時59分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 映画やテレビドラマの舞台に多く登場する橋が京都には4つほどある。その1つが京都府下木津川にかかる流れ橋、そして嵐山の渡月橋、祇園新橋白川の巽橋、そして二条城に沿う堀川通り一条にある「一条戻橋」である。この一条戻橋は通りがかりでは気がつかないほど、何のへんてつもない小橋であるが、その近く(100㍍)にある清明神社に祀られる天才陰陽師・安倍清明ともかかわりのある橋である。

 「源平盛衰記」に、中宮(建礼門院)がお産の時に二位殿(平清盛の妻)が一条戻橋で橋占を問う話があり、「この橋は昔、安倍晴明が天文を極め12神将を使役していたけど、彼の妻は識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は12神将をこの橋の下に呪し置いて、必要な時には召喚して吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神は人の口に移って善悪を示した」と記されている。
 一条戻橋は平安京(当時)の最北端にあたり、都の内と外との境目・堀川に架かっている。この橋は彼岸と娑婆の境目、つまりこの世とあの世との間に架けられているという意味をも持っていた。そのことは、能の世界でみると、怨霊が舞台へと登場する通路を「橋がかり」といい、つまり橋の向こうはあの世。そしてこの一条戻橋の先には葬送の池があったようで、葬儀の列は、向こう岸にあるあの世に向けてこの橋を渡ったと伝えられている。また、大徳寺の三門にあった千利休の木像が、太閤秀吉の逆鱗に触れ、太閤より処刑の命が下り、木像の首がここで斬り落とされた。その後切腹した利休の首が晒(さら)された地でもある。

 この橋の名前の由来については「撰集抄」巻7に、延喜18年(918)熊野の僧「浄蔵」の父・文章博士三善清行(みよしきよつら)が死去したという知らせを受けた浄蔵が、この橋で葬列にあい、柩にすがって神仏に祈ったところ、父が蘇生した。それで戻橋という名前が付いたと記されている。そこから、今でも京都の女性は嫁入り前には、この橋に近づかないという。黄泉(よみ)の国から戻ってくるという言い伝えがある橋だから、実家に戻ってくる、つまり離婚するとの凶縁を恐れてのことである。

 戻橋に伝わる源頼光の四天王の1人、渡辺綱の伝説を紹介しておこう。
 一条天皇(986-1011)のころのことである。豪勇の侍として知られた渡辺綱が、主命を帯びて一条大宮へ出かけたが、帰りは夜更けになった。そのころの堀川は瀬音が高く、川幅も広かった。戻橋のあたりは、鬼女が出没するという噂さえあり、夜ともなれば人通りがたえた。綱が戻橋にさしかかったとき、対岸にたたずむ一人の美しき女と出会った。
「私はさるお方のお使いでこのあたりまでやってまいりましたが、暗闇で帰る方角を見失い、途方にくれておりました。どうぞ都まで私をお連れ下さいませ」と女はしおらしげに言った。綱は哀れに思い女を馬に乗せ、轡(くつわ)を取って歩きだした。すると、正規町(しんきまち)小路にさしかかったとき、突然、女が馬上に立ち、鬼女の正体をあらわした。綱の髻(もとどり)をむんずとつかみ、「われが行くところは愛宕山なり、いざ連れゆかん」と血眼を光らせにらみつけた。綱は、「おのれ妖怪、わが太刀を受けてみよ」というが早いか、腰の名刀髭(ひげ)切丸を抜きはらい、一刀のもとに鬼女の片腕を切り落とした。血を吹き上げて腕は飛び跳ね、たまりかねた鬼女、悲鳴を残し、髪振り乱して天に浮き風の如く逃げ去った。(「平家物語・剣巻」を脚色)

 戻橋は、昭和初期に鉄製のものに架け直されたが、戦争中に兵器の製造原料にするため、国に回収されたという。終戦後、石橋が架けられ、1995年に改装され、現在の戻橋となった。橋名のついた欄干の遺石は清明神社に祀られている。

 所在地:京都府京都市上京区堀川下之町。
 交通:京都駅より市バス9系統、一條戻り橋下車徒歩2分。
 三条京阪駅より市バス12・51・59系、堀川今出川下車徒歩2分 。
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