「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「鞍馬寺」(くらまでら)

2006年02月18日 10時37分14秒 | 古都逍遥「京都篇」
 2005年、NHKの大河ドラマ「義経」が放映されるや、「義経を巡る・観光ツアー」がどっと押し寄せるようになった鞍馬寺。これまでも三千院、清水寺、南禅寺、金閣寺、銀閣寺などと並んで人気スポットとなっていたが、新緑のこの時季、ことさら多くの人が訪れている。私もせっかくの義経ブームでもあり、読者の皆さんに義経にとどまらない当寺の歴史を紹介しようと再び訪ねてみた。

 「何となく君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」(与謝野晶子)。

 霊山として知られる鞍馬山の風雅な一面を表した歌にあるように、深々とした樹林に包まれ、遥か彼方に洛中を偲ぶことができる。心地よい初夏の風の葉音、鶯の音にまじり無数の小鳥達がさえずるこの鞍馬にはもう幾度となく訪ねてはいるが取材目的で来たのは初めてであった。
 当寺は、唐招提寺の鑑真(がんじん)和上の高弟・鑑禎(がんてい)上人が宝亀元年(770)正月の4日の寅の夜、不思議な夢を見た。鞍を付けた白馬の導きで鞍馬山に来たところ鬼女に襲われれたのだ。そこに現れた毘沙門天に助けられ難を逃れた。仏法を守護する仏が降臨したと悟った上人はここに草庵を結び、毘沙門天を祀ったのが始まりと伝わっている。
 それから四半世紀のちの延暦15年(796)に、造東寺長官の藤原伊勢人は日頃信仰する観世音を奉安する一宇の建立を念願していたが、夢のお告げと白馬の助けを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があり毘沙門天が安置されていた。自分は観世音を祀りたいのにといかぶる伊勢人に「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」と再び夢のお告げがあった。そこで伊勢人は草庵を三間四面の堂舎に造り替え毘沙門天を奉安、のちに千手観音を造像して併せ祀り宿願を果たした。そして鞍を負った馬が鞍馬山を示したことにちなみ、「鞍馬寺」と呼ぶようになったという。

 寛平年間(889~898)に東寺十禅師のひとり峯延が入寺して真言宗に転じ、天永年間(1110~13)に天台座主忠尋が入寺して天台宗に復した。寛弘6(1009)年以来しばしば罹災したが、朝野の信仰も厚く、また糺ノ森で鞍馬寺塔婆勧進猿楽を催すなどして復興した。応仁の乱では当山の僧徒が入洛して威を振るった。江戸時代には10院9坊を数えたが、明治維新の廃仏毀釈で院坊が廃された。
 右手の転法輪堂は、1階が茶店である。鎌倉時代に熱心な念仏行者重怡上人が、晩年13年間この堂の阿弥陀像の前で12万遍の念仏を唱え、6万通の宝号を書いて納めた法輪を安置する。左方の宸殿は大正13(1924)年貞明皇后の便殿で、寝穀造と書院造からなる大正時代の代表的建築である。なお本堂地下は霊窟で、洗い清めた一条の髪に霊性を移す「清浄髪納髪10万人運動」により納めた髪が並んでいる。

 鉄筋コンクリート造の本堂には本尊の木造毘沙門天立像、両脇侍の木造吉祥天・善膩師童子立像(いずれも国宝・平安)を安置する。本尊は等身大、左手をかざして俯瞰する、天部像中の異色作である。大治2(1127)年の造立と考えられる。吉祥天像は、明治の修理の際に像内から般若心経・吉祥天12名号経の1巻が発見され話題となった。
 本堂前には銅灯籠(国重文・鎌倉)があり、右手の閼伽井護法善神社は、中興の峯延上人が修行中に2匹の大蛇に襲われたが、呪文の力で、雄蛇は切って捨て、雌蛇は魔王尊に供える水を絶やさぬことを誓わせて助けた、という伝説にもとづいて、2匹の蛇を祀る。

 閼伽井は仏前に供える閼伽の水を汲む井戸である。左の光明心殿は魔王尊を祀る護摩供の道場。その先に霊宝殿(鞍馬博物舘)がある。1階は自然科学博物苑で、資料・標本・模型が、鳥獣・岩石・陸貝・昆虫・植物・きのこの各コーナーになっている。2階は寺宝展示室。3階は国指定文化財の彫刻を安置する。
 また1976(昭和51)年晶子の書斎冬柏亭を東京から移築し、夫妻の遺品が霊宝殿に展示されている。

 ここから奥約1kmに奥の院があり、途中に義経息つきの水、義経堂、義経背くらべ石(「遮那王が背くらべ石を山に見て わが心なお明日を待つかな(与謝野寛)」)、大杉神社、僧正谷や不動堂がある。奥の院は魔王堂に魔王尊を祀る。不動堂には木造毘沙門天立像(国重文・平安)が安置されている。
 奥の院から下ると貴船神社に出る。このあたりは木の根が露出し、いわゆる木の根路で、修験者の道らしく険しい。
 寺にはこのほか、定慶作木造観音菩薩立像(国重文・鎌倉)、工芸品として黒漆剣(奈良~平安)と剣(無銘・平安)があり、書蹟に紙本墨書鞍馬寺文書(鎌倉~南北朝)がある(いずれも国重文)。
 
 鞍馬寺の祭礼のひとつ竹伐会式は、毎年6月20日に行われる。起源は鞍馬寺中興の峯延上人の大蛇退治伝説にちなんだもので、蓮華会ともいい、大蛇に見立てた青竹4本を僧兵姿の法師各四人が東の近江座、西の丹波座に分かれて、合図によって山刀で切り競う。早く切り終わったほうの土地が豊作とする。18日に竹釣、19日に蛇捨ての儀式がある。鞍馬の火祭も有名な祭礼であるが、これは鞍馬寺の鎮守社由岐神社の祭礼であり鞍馬寺のものではない。

「ほととぎす 深き峯より出でにけり 外山(とやま)の裾に 声の落ちくる」
(西行法師/新古今和歌集)

 昼間でもなお薄暗い 神秘さを漂わせる鞍馬を訪ねてみてはいかがだろう。
 (一部、「京都府の歴史散歩」山本四郎著を参照。)
 所在地:京都府京都市左京区鞍馬本町1074
 交通:JR京都駅からバス、または京阪電鉄出町柳駅で下車、叡山電鉄鞍馬線で鞍馬駅下車3分。
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「住蓮山安楽寺」(じゅうれんざんあんらくじ)

2006年02月17日 00時40分34秒 | 古都逍遥「京都篇」
安楽寺は鎌倉時代初め、浄土宗を開いた法然の弟子である、住蓮房・安楽房の2人の僧が念仏道場として「鹿ヶ谷草庵」を結んだのが、その始まりと伝えられている。通称は松虫鈴虫寺と呼ばれ、延宝九年(1681)に建立された。
 後鳥羽上皇の寵愛を受けた、松虫姫・鈴虫姫は自害したという「建永の法難」の悲劇の舞台となった草庵である。その後久しく荒廃しますが、二僧の供養の為に創建された。境内には住蓮・安楽の供養塔と松虫姫・鈴虫姫の墓が残り、悲劇を現在に伝えている。
 「建永の法難」によって流罪となった法然上人、その後、許されて帰京、住蓮房・安楽房の菩提を弔うため、かつての鹿ヶ谷草庵の地に創建したのが安楽寺である。

 では、松虫姫・鈴虫姫にまつわる当寺伝説を紹介しよう。
 
 当時の仏教は、貴族仏教とも言われたように権力者や貴族たちだけのものであった。ところが法然上人は、末法の時代にあって、すべての人は平等であり、すべての人は「南無阿弥陀仏」に救われると説いたので、新興階級の武士や農民、あるいは救いの対象から漏れていた女性たちに広く受け入れられ、念仏仏教が大変な勢いで盛んになった。法然上人の説く専修(せんじゅ)念仏が広まるにつれ、古くからある南都北嶺(なんとほくれい)の仏教教団は、新興の法然上人の教えを、国家の秩序を破り道徳を乱すものと決めつけ、教団を黙認するわけにいかず、元久元年(1204)10月、北嶺の僧侶が比叡山の大講堂に集まり、天台座主真性(しんしょう)に念仏を申してはならないとする「専修念仏停止」を訴えた。これに対し、法然上人は「七箇条制誡(せいかい)」を門徒たちに示し、念仏の自粛戒慎を守る190名もの門徒の連署を座主に提出した。これが「元久の法難」である。

 翌年9月になると、今度は南都興福寺の僧侶が北嶺の処置は手ぬるいとして「興福寺奏状(そうじょう)」を捧げ、専修念仏の全面停止を時の権力者である後鳥羽上皇に訴え出た。そのような事態の中でも、住蓮房・安楽房は念仏会を開き、両上人を修する浄土礼讃声明に魅了され、出家して仏門に入る者さえあった。その中に後鳥羽上皇の女官、松虫姫(まつむしひめ)・鈴虫姫(すずむしひめ)がいた。
 両姫は今出川左大臣の娘で、容姿端麗、教養も豊かであったことから、ことさら上皇の寵愛を受けたがために、他の官女の嫉妬も相当なものであった。
 おりもおり、建永元年(1206)7月、上皇が紀州熊野へ行幸の際に、1日暇をもらった両姫は、清水寺に参拝し、その帰りすがら「鹿ケ谷草庵」において法然上人の説法を聞き、真の人間解放の道は、阿弥陀仏の絶対他力に求めるほかないと自覚した。御所に戻ってからも、法然上人の説法が忘れられず、両姫は密かに申し合わせて夜更けに御所を忍び出て、「鹿ケ谷草庵」を訪れ、住蓮房・安楽房に出家受戒の願いを申し出た。両上人は、出家するのであれば、上皇の許しが必要とその思いを止まらせた。しかし、両姫は「哀れ憂きこの世の中のすたり身と 知りつつ捨つる人ぞつれなき」と詠い、決死の出家の願いに両上人も心を動かされ、ついに住蓮房は松虫姫を、安楽房は鈴虫姫を剃髪した。時に松虫姫は19歳、鈴虫姫は17歳であった。
 このことを知った上皇は激怒し、この出来事をひとつの口実として、専修念仏教団の弾圧を企てた。翌建永2年(1207)2月9日、住蓮房を近江国馬渕(現在の滋賀県近江八幡市)において、安楽房を京都六条河原(現在の東本願寺近く)において打ち首の刑に処した。この迫害は、これに止まらず、専修念仏の指揮者である法然上人を75歳の高齢にも拘らず讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪にし、弟子の親鸞(しんらん)聖人を越後国(現在の新潟県直江津市)に流罪の刑に処した。これを「建永の法難」という。

 安楽上人、辞世の句
「今はただ云ふ言の葉もなかりけり
   南無阿弥陀仏のみ名のほかには」

 住蓮上人、辞世の句
「極楽に生まれむことのうれしさに
     身をば仏にまかすなり希里」

 所在地:京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町21番地。
 交通:市バス5・203・204系統「真如堂前」、または17系統「錦林車庫前」下 車、徒歩10分。
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愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)

2006年02月16日 00時47分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 嵯峨清涼寺の角を清滝・高尾パークウェー方面へ車を走らせ、化野念仏寺、平野屋を左手に見下ろしながら峠道を進むと、清滝口のトンネルが見えてくる。その手前に愛宕念仏寺が隠れ寺のように佇んでいる。

 当寺は稱徳天皇(764~770)の開基により山背(山城・やましろ)国愛宕(おだぎ)郡に愛宕寺(おだぎでら)として建立された。平安朝の初めには、真言宗教王護国寺(東寺)に属したが、鴨川の洪水により堂宇が流失したため、延喜11年(911)再興を発願した醍醐天皇が、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大法師・千観内供(あじゃりでんとうだいほうし・せんかんないぐう、通称:念仏上人)に命じ七堂伽藍(がらん)の大寺を再興、等覚山愛宕院(とうかくざんおたぎいん)と号し、比叡山の末寺となる。
 もとは東山の地松原通弓矢町地にあったが、大正11年、堂宇の保存と愛宕(あたご)山との信仰的な関係から、3ヵ年をかけて奥嵯峨・仏野に移築された。

 本堂は、方五間(ほうごけん)、単層入母屋造り、本瓦葺の簡素な和様建築で鎌倉中期の建立(重要文化財)。堂内の天井は繊細な小組格天井で、蓮華蔵世界が描かれている、さらに本尊の位置を二重折上げ格天井にするなど、他には見られない構造であり、また須弥壇(しゅみだん)の格狭間(こうざま・重文)にも鎌倉様式の美しい曲線を今にとどめている。本尊は「厄除け千手観音」。地蔵堂には、平安初期に造られた愛宕本地仏「火除地蔵菩薩坐像」が祀られている。

 境内には永正9年(1512)と刻まれた石塔婆をはじめ、参拝者の手によって彫られた、1200躰の石造の羅漢が表情豊かに並んでいる。
 仁王門は江戸中期の建物で、昭和56年に解体復元修理がされた。仁王像は鎌倉初期のもので、この期のものとしては京都市では最も古く、京都市指定文化財となっている。三宝の鐘には「仏・法・僧」の文字が刻まれており、仏の心が愛宕山一帯に響く。
 「ふれ愛観音堂」には目の不自由な人でも心の目と手で仏の心に触れることができる観音像が安置され、堂内は絵馬堂にもなっている。銀閣寺にも似た堂宇で、新緑の楓に包まれるように建っている。さぞかし紅葉の季節は燃えるがごとくの楓葉に包まれることだろう。

 空は楓のうす緑、地はシャガの花に包まれた念仏寺、苔むした1200体余りの羅漢の表情豊なこと。祈りあり、愛あり、願いあり、笑いあり、静寂な空間の中に人々の様々な思いが漂っている。中学生の一行、15名ほどが訪れ、「おまえの顔に似てるぜ」「ほら先生が怒った顔だ」「可愛い」と、羅漢の一つひとつを指さしては大騒ぎしていた。
 ここの羅漢、化野念仏寺と違って比較的新しく、昭和50年代ごろから檀家や信仰篤き人たちによって彫られ始め、まだ20余年ほどの物だという。

 仏像彫刻家として著名な西村公朝師は、昭和30年に当寺の住職となり、荒れ寺だった当寺を復興させ、平成15年12月2日遷化、享年89歳。 そして、ここの若き僧侶さんは現代的な方でシンセサイザーの名手だそうだ。NHKや毎日放送の番組に彼の作った曲が使われているというから驚きだ。毎年四月の第1日曜日の花祭りの行事では、彼の演奏も披露されるとか。

所在地:京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5
交通:JR京都駅から京都バス72番清滝行、京阪電鉄三条駅から京都バス62番清滝行、おたぎでら前下車、嵐山からだと京都バス62、72、清滝行き約10分。
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【常照皇寺】(じょうしょうおうじ)  

2006年02月15日 00時40分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 『何事も うれふとなしに のどかなる 春の雨夜は 物ぞ侘しき』(光厳院)
和漢儒仏の学問にも通暁し、和歌の優れた詠み人としても知られた光厳院(南北朝期、足利尊氏によって北朝初代上皇〈後伏見天皇の皇子〉となった)の哀れにも侘しい晩年を過ごした山里を訪ねたくなった。 春の終りにしては暑い日ざしの休日、京都洛北、高尾山麓から福井県へと通じる周山街道を、緑の風を切って車を走らせた。途中、川端康成の「古都」を山口百恵の2役で映画化した、そのロケ舞台となった北山杉の山間を通り、七曲の峠を越して京北町へと向かう。京北町はまだ田園地帯、菜の花、蓮華草の絨毯を望みながら北へと進んだ。

 常照皇寺は、正しくは「大雄名山万寿常照皇禅寺」といい、光厳院が、1362年頃に開創した臨済宗嵯峨天竜寺派に属する禅寺。後花園天皇が小塩田260石を香華料として献納し、皇家と深い関わりを持つ。 桜の咲く頃は、ひっそりとした山里の寺は芋の子を洗うような賑わいを見せる。というのも、推定樹齢600年といわれ、天然記念物に指定されている「九重桜」が咲き、境内庭園を覆い尽くす。そして左近の桜と、当寺を訪ねた後水尾天皇(江戸期)が、その美しさに魅かれ何度も車を返したと伝えられる「御車返しの桜」があり、桜の名刹として名高い。取材で訪ねた時は牡丹が欄干に寄り添うように咲
いていた。
交通:JR京都駅からJRバス周山行き終点下車、町営バス乗り換え小塩行き山国御陵前下車。全約2時間。
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仙洞御所(せんどうごしょ)

2006年02月14日 00時23分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電鉄丸太町駅をおりて加茂川にかかる橋を西に渡ってしばらく歩くと、仙洞御所の築地塀と見越しの松の緑に出合う。寺院の山門のような寺町御門より御苑に入ると広々とした玉じゃりの道がはるかに続く。そこは都心とは思えないほど静かな空間が広がっており、老人がのんびりと散歩を楽しんでいた。
 私もじゃりを踏む心地好い感触を味わいながら雅人気分でそぞろ歩くと、大宮御所の正門が見えてきた。京都御所のはす向かい当る大宮御所には宮内庁の警備員2人が門を固めており、ここを入ると左手が大宮御所、右手が仙洞御所となる。
 当御所は、宮内庁が管理する桂離宮、修学院離宮と並ぶ宮廷文化の遺構で、両御所を含めて総面積9万1000㎡余りある。

 仙洞とは、上皇の御所のことで、寛永7年(1630)、明正天皇に譲位した後水尾上皇のため徳川幕府が御所として造営されたもので、それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后・徳川2代将軍秀忠の娘・和子)の女院御所も建てられた。
 大宮御所は、皇太后の御所のことで、現在の大宮御所は、慶応3年(1867)に英照(えいしょう)皇太后(孝明天皇の女御)のために女院御所の跡に造営された。
 仙洞御所は、後水尾上皇の時代に3度焼失し、都度再建されてきたが、以後、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の五代の上皇の御所として使用された。嘉永7年(1854)の大火で京都御所とともに焼失したのを最後に再建がなされなかった。そのため、現在の仙洞御所には、醒花亭(せいかてい)、又新亭(ゆうしんてい)の2つの茶室以外に御殿などの建物はなく、南北に広がる優美で気品のある庭園が王朝の面影を残しているだけである。

 御所庭内には大宮御所御車寄(おくるまよせ)の右手の小門から入り、小橋を渡ると六枚橋という石橋に行き着く。この周辺を阿古瀬淵といい、かつて紀貫之の邸宅があったと伝えられ、淵の名前も紀貫之の幼名「阿古久曽」(あこくそ)に由来しているそうだ。北池を右に回遊して行くと白鷺が舞うという鷺の森に、それを抜けると紅葉橋に出合う。この橋を区切りにして右が女院御所の庭だった北池、左手が仙洞御所の南池となる。高雄紅葉が繁り秋にはさぞ美しかろうと想像を働かせる。南池に沿って歩くと天の橋立を連想させる八ッ橋がある。

 では庭園について説明しておこう。南北庭園は、仙洞御所の作事奉行であった小堀遠州が寛永7年(1630)の御所の完成に引き続いて作庭したもので、案内をしてくれた宮内庁職員の説明によれば、仙洞御所・女院御所ともに石積みの直線的な岸辺を有する斬新な感覚の広大な池泉回遊式庭園であったが、後水尾上皇がその直線的な感覚を好まず、完成して程なく作り直させたとかで、遠州当時の遺構は南池東岸の30mほの一部に留めているに過ぎないとか。そういえば後水尾上皇が作らせた修学院離宮も優美な曲線とふくらみが印象的だった浴龍池があった。
 この庭は南庭と北庭からなっているが、元はそれぞれ独立したもので囲いで区切られてそうで、北庭が女院御所(現大宮御所)の敷地、南庭が仙洞御所の敷地内であったという。1747年に囲いをとり南北を結合させたという。南庭池にはこぶし大のふくよかな形の良い石が敷き詰められており、その様は白浜をも連想させる。このこぶし大の石は一升石と呼ばれ、アヒルの玉子のような形をしたものや、長方形の平らな小石もあり、その数は約11万個以上もあるという。この州浜の石は、小田原藩主大久保侯が献上したものと伝えられるもので、小田原の領地にある海岸にて、石1つにつき米1升を与えて集めさ
せたところから、俗に小田原の1升石とも言われている。たびたびの造営により庭園は拡張され、2つの池は堀割によって池水が通じ、緊密な一体感を持つようになる。そして、その長い年月を維持管理していくなかで、御所様といわれる様式を確立し、仏閣などの寺様とは異なる優雅でかつ繊細な趣きをつくり出していった。 御所は広大な京都御苑の一部にあり常に湿潤な環境にあるせいか、樹木が作る影は霞みがかかったように見え、ことに時雨れている時などは山紫水明を感じさせてくれるであろう。
 中島にかかる八ッ橋には藤棚をかけ渡してあり、西半分が下がり藤、東半分が上がり藤と称され、藤の花とツツジとが調和して花開くように配置されていた。そして池畔には杜若が彩りをそえている。この水源は元は加茂川の水を引いていたが、東山蹴上疎水が完成するとその疎水の水を地下を通して引いたという。しかし現在は井戸を掘り地下水を利用しているそうだ。

 池越しに望む醒花亭(せいかてい)は、文化5年(1808)に再建された柿葺(こけらぶき)の茶室で、命名は「夜来月下に臥し醒むれば花影雲飛して」という李白の漢詩文から引用したという。付書院を備えた書院と入側の向こうに、蹲踞(つくばい)や、加藤清正が朝鮮より持ち帰り献上したという燈籠などが配された閑静な庭が広がっている。
 大宮御所はかつて英国エリザベス女王やチャールズ皇太子とダイアナ妃が来日した折、京都での宿泊所にあてられたそうだから、この庭園をどのように感じられたのだろうか。御所には外国要人が宿泊されてもいいようにベッドも置かれた洋風の間に改造しているという。
 所在地:京都府京都市上京区京都御苑3。
 交通:JR京都駅より市営地下鉄烏丸線京都駅から徒歩1分、京阪丸太町駅より徒歩10分。


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「西芳寺(苔寺)」(さいほうじ・こけでら)

2006年02月13日 01時02分07秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都には名勝と称される庭園が数多く、そのほとんどが古刹寺院に存在する。
京都御所から西に位置する西山から嵐山方面を洛西と呼称するが、その洛西で桂離宮と並び賞される名庭が西芳寺、人呼んで「苔寺」がある。
 向日市から物集街道をたどり嵐山へと向かう途中の奥まった所に、一面苔に覆われた浄土の庭。足利将軍・義満、義政が当寺の瑠璃殿を模して、それぞれ金閣寺、銀閣寺を建てたことは余りにも知られている。

 当寺は、天平年間(729~49)法相宗の寺として、聖徳太子の別荘跡と伝わる地に聖武天皇が行基に命じて建立され、暦応2年(1339)に夢窓疎石を迎えて禅の道場(臨済宗)として再興した。平成6年(1994)12月、世界文化遺産に登録されている。 当寺を訪れると、最初に目につくのは総門であるが、ここは通常開けられることはない。総門の西側に衆妙門があり、ここが入り口になる。門を入り左手に見える屋根の建物が、本堂の西来堂で、昭和44年(1969年)に、500年ぶりに再建された。
 足利義満の頃は現在のような苔は生えていなかったといわれているが、庭園の美しさは広く知られていたようで、義政は東山山荘の作庭に際し、当寺の庭園を模したとされている。その後、応仁の乱でほとんど全ての建物は焼失し、荒れ果てたが、後に、蓮如上人が庭園の復興につとめたといわれている。
 庭園は国史跡・国特別名勝に指定されており、下段の心の字を象る「心字池」を中心とし、4つの島で形成されている池泉廻遊式の庭園と、上段の枯山水の庭園の2つに分かれている。下段の庭園には苔で覆われており、緑の絨毯を敷き詰めたようである。苔の種類は120種余りあるといわれており、池、木立と一体となって、池の周囲を巡ると趣が刻々と変化し、木々の間から差し込む射光に映える一面の苔は、まるで黒澤明監督の映画「夢」の如く、幻想の世界に引き込まれる。時折、間をおいて、シシおどしの「コーン」という音が静寂の中に響き、幽玄の世界を醸し出している。下段の池泉廻遊式庭園に比べ、上段の枯山水庭園は比較的狭いが、日本最古の枯山水。枯山水石組、須弥岩組、座禅石など石と木立による庭園である。

 庭園の南側、総門近くに国指定重要文化財の「湘南亭茶室」が建っている。
 創建時代の建物で残っているのはこの湘南亭だけであるといわれており、千利久の次男である千少庵が再建し、茶室としたとされている。湘南亭は当寺で最も古い建物であろう。幕末に岩倉具視がここに潜伏していたという。

 庭園の拝観は本堂において「写経」すませなければ入庭できず、拝観は、志納料として3、000円を納める(事前予約)。通りがかりでは入れず、また修学旅行などでも拝観する人もいないことからほとんど人影を見ることが無く、ゆっくりと「浄土」の世界を散策することができる寺でもある。そんなことから、ホスピタリティーな癒し系の名庭かも知れない。 
 交通:交通:JR京都駅から京都バス73番で約50分、苔寺バス停下車、
徒歩5分。  
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「修学院離宮」(しゅうがくいんりきゅう)

2006年02月12日 00時48分39秒 | 古都逍遥「京都篇」

 けやき並木に覆われた白川通りを北上し、北山通りとの交差点を過ぎると、比叡山中から流れいずる、かつて歌枕として知られた音羽の滝があった音羽川に差し掛かる、それを右折すると市中の様相から一変したのびやかな田園風景が広がり、その先にうっそうとした杜が見えてくる、それが修学院離宮である。

 修学院の名は10世紀後半、僧勝算の営んだ寺・修学院寺が建立されたのが始まりで、南北朝時代以降この寺は廃絶したが、地名は修学院村として残った。
 初期の江戸幕府は日本の支配固めに「禁中並公家諸法度」を発令し、朝廷、天皇の権力と権威を縛りつけたことに端を発し「紫衣事件」が起こった。「紫衣」とは、高い徳を持った僧のみが身につけることのできる法衣・袈裟で、従来は朝廷がそれにふさわしい人に与えていた。ところが徳川幕府は、僧侶がその勅許を得る前に、幕府の承認が必要だという「禁中並公家諸法度」を作った。これに対して後水尾天皇は激怒し、寛永6年(1629)幕府に対し抗議するというかたちで退位してしまった。
 退位した後、後水尾天皇は「後水尾院」となり、隠居地として選んだ地が修学院寺の跡地で、比叡山、音羽山の山麓54万平㍍の広大な敷地内に「御茶屋」と呼ばれる庭園を3つも配した巨大な山荘を造営、1659年に完成、修学院離宮とした。造営費は朝廷懐柔の目的で将軍徳川家光が援助したが、離宮内の庭園は枯山水庭園や回遊式庭園の名園・名勝が広がる。

 隠居地離宮(別荘)の候補地の選定を始めたのが1641年、候補地を決定する迄、実に14年の歳月を要し、完成に4年あまりの歳月がかかっている。
 離宮は、上御茶屋・中御茶屋・下御茶屋と、3つのゾーンによって構成され、中でも目が奪われ絶景は上御茶屋である。隣雲亭(りんうんてい)と名付けられた離宮最上部から見る景色は、そのスケールの大きさと美しさは、しばし我を忘れるかのごときである。まさしく日本の宝、国の名庭というにふさわしい。
 そして手前に大きく横たわる、11、500平方㍍の浴龍池は、龍が水浴びをするというほどに広い池だ。ほとりには、松や楓が植えられ宮廷庭園の特長をなす優しい造形が施されている。池の水は、比叡山からの伏流水と音羽川のを引いてある。その奥は借景。京都の北、岩倉からさらに北山の山並を借景とし、借景庭園の代表格と言うべき見事さで、深延に続く奥行きを表現し、その優美さに心が洗われる。また離宮の趣向の素晴らしさは、田園風景をそのまま離宮の景色として取り込んでいるところであろう。おそらく後水尾院は、田圃の四季折々を感じながら、心穏やかに上御茶屋までそぞろ歩いたのではなかろうか。離宮内には棚田様式の水田風景もあり、現在でも地元の農家の人たちによって作物が作られ、収穫物は農家の人たちが得て、その小作料を宮内庁に納めている。
 中御茶屋は、歴史の途中から林丘寺(りんきゅうじ)の境内に組み入れられた。
其処には楽只軒(らくしけん)と客殿が立つ。楽只軒と客殿は宮内庁に、明治19年返されたという。楽只軒は素朴な茶屋である。客殿の床の間の壁が、現代的デザインで妙に溶け込んでいて面白い。
 床の間は本床で畳が敷かれてある。40㎝どの高さ迄、紺色をした和紙が千鳥に貼られ、1本、横に帯を流し、上部は斑な壁になり、中段上部には、金箔が互い違いに貼ってある。 客殿床の間に進んで、一間半の横幅で霞(かすみ)棚がある。棚が連続的に右上がりにつけられ、下部は地袋となっている。桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚と共に天下の三棚と称されている霞棚である。
 上御茶屋への入口にも板戸があり、上御茶屋隣雲亭に至る細い石段の両脇は円く刈り込まれた灌木が葺き、下りた先に、浴龍池の水面(みなも)が煌いていみえる。浴龍池へと降ると、池に浮かぶ2つの島に架かる中国風の千歳橋が、木立ちの間にま見える。千歳橋の基部は切石で積み上げられいて、西側の島に四阿風(あずまや)の方形の屋根がのせられている。池の西浜に進むと、さきほど見た隣雲亭が遠く丘陵に浮んで見える。

 宮内庁職員の案内役に導かれ、ところどころに監視官が見つめる中、1時間40分ほどの取材拝観であったが、疲れもなく歴史の重さと優美さを味わうことができた。
 所在地:京都市左京区修学院藪添
 交通:市バス5・31・35系。叡山電鉄「修学院離宮道」下車、徒歩約20分。
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桂離宮(かつらりきゅう)

2006年02月11日 01時08分38秒 | 古都逍遥「京都篇」
 渓流下りで知られる保津川下りの終着点「嵐山」付近を大堰川と称し、渡月橋から桂川と呼び名が変わって南に向かってゆったりと流れていく。桂川に架かる桂大橋を西に向かって渡ると、うっそうと茂る森が見える。そこは、源氏物語の「松風」の巻に登場する光源氏の別荘「桂殿」で、藤原道長の山荘「桂家」をモデルにしたものであった。
 後水尾天皇を迎えるため智忠親王が造ったというふ2本の太い皮付丸太(・あべまき)を柱にした茅葺屋根の御幸門(家仁親王が再建)をくぐると、そこから王朝絵巻の世界に誘われる。
 桂離宮はドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880~1938年)が絶賛し、グロピウスに「限りなき簡素とつりあいの故に最も近代的」と言わせたほど、建築と庭園の調和が優れている。桂川のほとりに、八条宮智仁、智忠親王父子によって元和元年(1615)年より寛文2年(1662)年にかけて数回の増築の末、現在の姿に完成され「桂山荘」と称していたが、明治16年(1883)以降、「桂離宮」と改称された。
 桂離宮の創建者・八条宮智仁親王の妃はキリシタン大名の娘であったことからか、西洋建築様式が取り入れられたのではないかと言われている。その特徴的なものとして御輿寄前庭がある。この空間は石庭で名高い「竜安寺」にみるように縦横の比率が黄金分割比となっており、安定感と奥行きを感じる最も美しい構造である。そして御幸門の眺め、土橋を視点とした御幸道、松の枝を引き立たせた亀甲岬、中秋の観月に作られた月見台、計数的に刈り込まれた生垣など、幾何学的な印象を強くうけるのも、西洋知識があったものと考えられている。また、桂離宮が建設された17世紀のヨーローッパでは、遠近法や眺望
を重んじた庭園が流行していたこともその要因と言われている。

 敷石を踏みながら苑内に入ると、直角に折れた小道が開けたとき、映画のスクリーンに映し出されるかのように、次々と異なった景観が目に飛込んでくる。利休好みとは異なった市松模様の襖を配する茶室「松琴亭」から日本三景の1つ、天橋立を模した石橋と島が優美に眺望できる。さらに足を進め築山を登ると「賞花亭」(しょうかてい)にたどり着く。山里にぽつりと佇むかのような茶室は、ホットさせてくれる癒しの休み処である。もう一つの茶室「笑意軒」(しょういけん)は、船着場をそなえており、ふと、優雅な舟遊びの光景が脳裏に浮かんだ。
 笑意軒から離宮の御殿が居並ぶメインへと歩を運ぶ。「古書院」「中書院」「楽器の間」「新御殿」などが建ち並び、それが雁の群れが飛翔する形に似ているところから雁行形式と称されている。
 待合処を出て小橋を渡り御幸道を紅葉山を左手に眺めながら最初に案内されのが「外腰掛」(そとこしかけ)の休処である。茅葺寄棟造りの深々とした感じの屋根を自然の皮付丸太で支える吹き放しの小屋。片隅に雪隠(=せっちんべんじょ)が備え付けられており、ここで一息ついて茶室松琴亭へと向かう腰掛小屋である。腰掛の前には自然石と切り石を巧みに配し延段が長く延び、両端には二重桝形の手水鉢と丈の低い灯籠で引き締めている。俗に「行の飛石」と称されている。こんな腰掛小屋でも一部の隙もなく気が配されている。

 しばし休息の後、飛び石を踏みながら進むといきなり視界が開け、海をも思わせる「州浜」(すはま)に出る。黒く扁平な石が敷き詰められ、それが池に突き出ており、その先端に灯籠が据えられている。岬の灯台に見立てた見事な演出である。その先の中島と石橋のつながりは、日本三景の一つ「天の橋立」を表現したものと言われている。その州浜に一羽の小鳥、セキレイであろうが、なぜか浜千鳥に見えたのは私の幻覚であろうか。
 潮騒にも似た風の音に心地好さを覚えながら歩を進めると「松琴亭」(しょうきんてい)に着く。桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの茶室で、後陽成天皇の宸筆「松琴」の額が掛けられている。銘は拾遺集巻八雑上の「琴の音に峯の松風通ふらし…」の句から採られている。にじり口の内側は三畳台目(だいめ=茶室用の畳)の本格的な茶室で、北側廊下の竈(くど=釜戸)構えと一つの間の床や襖の青と白の一松模様はまことに斬新かつ粋な構造である。
 池畔の飛石の回廊をゆるりと歩くと小高い峠の茶屋「賞花亭」(しょうかてい)に着く。苑内で最も高い位置にあり、池からの標高は約7㍍だという。北に向かって建てられた避暑用の小亭で、茅葺切妻屋根に皮付の柱を用いている。南側の竹の連子窓(れんじまど)を通して見る景色は深山幽邃(しんざんゆうすい)の趣をかもし出している。
 一息落ち着くと、神輿造の持仏堂「園林堂」(おんりんどう)を横手に見ながら小橋を渡ると紅梅の香りが漂っている。2月も初旬だが、暖冬のためか梅の花も早々と咲き水面にその色香を映していた。その先の左に折れると、切り石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した田舎屋風の茶室「笑意軒」(しょういけん)がある。先ず目に飛込んだのが腰高障子の上に横並びに6つ配置されている竹作りの丸窓、良く見るとその1つひとつの作りが異なっており、説明を聞くと、四季折々の月の変化を表しているという。なんとも優雅で心憎い趣向である。「笑意軒」の篇額は曼殊院良恕法親王(まんじゅいんりょうじょしんのう)の筆だという。内部は襖で仕切られているのだが、天井は1つのつながりを持っていた。池のほとりには船着場があり三光灯籠が置かれてある。

 次に古書院、中書院、楽器の間、新御殿の建物を見ながら最後の見物先、「月波楼」(げっぱろう)に向かう。書院四建造物は拝観できず、古書院には池に面して月見台が設けられている。四棟とも高床式で造られており、これは近くに流れる桂川の洪水から護るためだという。新御殿には、棚板、地袋、袋棚を巧みに組み合わせた違い棚があり、修学院離宮の「霞棚」、三宝院の「醍醐棚」とともに天下の三棚と称されいる。
 「月波楼」は、正面中央を広い土間にした開放的な空間とし、月を眺めるに格好の茶室である。右手の窓が広く開かれ、池を前景にして「松琴亭」、天の橋立が深遠に見え、黄金分割を取り入れた見事な遠近構造美である。そして面白いのが化粧屋根裏の竹の垂木が舟底のような形に組んである。舟から月見という趣向なのであろうか。

 早春の梅の香りが漂う回遊式庭園をゆっくりと1時間ほど見聞し、門を出ると不思議な余韻が身体中を包みこんでいた。それはまるでモーツァルトの名曲の調べに酔いしれた感情に似て、気品と優雅なハーモニーの魔術にかけられたかのようでもあった・・・。
 所在地:京都市西京区桂御園町
交通:JR京都駅より市バス33系統で40分、桂離宮前より徒歩7分、又は
阪急京都線桂駅より徒歩20分。


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大豊神社

2006年02月10日 00時12分03秒 | 古都逍遥「京都篇」
「大豊神社」(おおとよじんじゃ)
禅林寺永観堂から入る哲学の道の起点より、少し北に上がったところに位置する小さな神社で、平安時代初期仁和3年(887)に宇多天皇の病気平癒のために創建された。
 うっかりすると通りすぎてしまいそうな路地を東に入っていく。神社の背後には東山の森に囲まれ、一帯を椿ケ峰と称し、 元々は鹿ヶ谷村・南禅寺一帯の椿ケ峰を御神体とする地主神「椿ケ峰天神」と称し、鎮疫神として信仰されていた山神で、寛仁年間(1017~1021)にこの地へ移り、神号を「大豊大明神」と称するようになったと伝わっている。
 度々の火災で今は本殿、拝殿、末社を残すのみだが、境内には椿社としても知られているほどその数も多く、初春から初夏にかけてその色を競っている。千年の古都の歴史を誇る、境内には椿のほか、牡丹桜、枝垂れ梅の古木、紫陽花、そして秋の紅葉、冬枯れのススキと四季折々の山野草が楽しめる社でもある。そしてここは自然の中に溶け込んだ牧歌的雰囲気に包まれており、村の鎮守様のような和める場所でもある。
 また、本宮の狛犬の他に、京洛の人たちから親しまれている狛犬ならぬ大国社の狛鼠、三番叟(おきな)を踊る日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶(こまとび)、稲荷社の狛狐が当社の末社にそれぞれ祀られている。狛鎮の動物園のようでやけに楽しくなる。
 その末社の大国社には大国主命(おおくにのぬしのみこと)を祀っているが、大国主命と鼠の関係は「古事記」の神話でよく知られている。
 旅の途上で大国主命は須勢理比売命(すせりひめのみこと)に見初められる。ところが須勢理比売命の父である素戔嗚尊(すさのおのみこと)は娘を心配して、大国主命に対して無理難題をふっかける。かぐや姫にも見られるような話しではある。その難題とは、広い野原に鏑矢(かぶらや)を射込んで、「今、撃ち放った鏑矢を拾ってこい」というものだった。 大国主命が野原に分け入ると、さらに素戔嗚尊は野原に火を放つ。逃げ場を失った大国主命は絶体絶命かと思ったとき、一匹の鼠がほら穴の在処を知らせ、また鏑矢をくわえた鼠も現れ、難を逃れる・・・という話し。ちなみに向かって左の鼠は長寿を表す水玉(酒)を抱き、右側は学問を表す巻物を持っていた。
 境内入り口の鳥居の傍に椿ヶ峰の御神水がとくとくと湧き出でており、ひと汗かいて一服すると、五臓六腑に沁み渡り神が宿ったような爽快な気分となる。
所在地:京都市左京区鹿ケ谷宮ノ前町。
交通:市バス特5、32系統「宮ノ前町」より徒歩6分、特5、快速5、32、93、203、204系統「東天王町」より徒歩10分。
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