東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

内堀基光,「マダガスカルとボルネオのあいだ」,2000

2006-05-27 23:12:34 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
家島彦一 ほか編,『モンスーン文化圏 海のアジア 2』,岩波書店,2000,所収。
マダガスカル島とインドネシア西部(スマトラ、ジャワ、ボルネオ島など)は約6000キロ離れている。現在のマダガスカルの住民は、先史時代、現在のインドネシアあたりから移動してきた、ということは、ほとんど疑いがない。あらゆる分野(言語学、形質人類学、農業など文化要素)から、このことは了承されている。
では、いつごろ、どこから、どうやって人々は移動したのか?
これが本論のテーマであるが、以下、ひじょうに錯綜していて、仮説の段階をでない論議もある。気をつけて読んでください。著者も仮説や感想を述べているが、断定的意見を書いているわけではない。

まず、インドネシア方面からのオーストロネシア語を話す人間が移住する以前に、マダガスカル島に人類がいたという形跡はない。つまり、それ以前は無人の島だった。ということは、ニュー・ジーランドとともに、人類が移住した最後の土地である。ハワイよりも後である。
(16世紀にポルトガル人が到来したとき、「アラブ人」の拠点がいくつかあったが、それらはポルトガル人によって駆逐さらる。イスラームの影響が過去にあったとしても、今日のマダガスカルの住民にはその痕跡はない。)

それではどうやって、オーストロネシア語を話す人々は航海をしたか。
これは、仮説でしかないが、アウトリガーのカヌーかダブル・カヌーだと思われる。
太平洋方面へのオーストロネシア語を話す人々の移動は、アウトリガー・カヌーやダブル・カヌーの航海によるものだから、それと同じ方法でインド洋を航海できたのは、ふしぎではない。

それでは、広いマレー世界・インドネシア西部のうち、どのへんから人々は出発したのか?
言語学者の想定では、ボルネオ島と主張されてきた。
マダガスカルに滞在したノルウェーの言語学者オットー・ダールによれば、マダガスカル語にいちばん近いのが、ボルネオ島・南カリマンタンの内陸に住むマアニャン人である。
この説は言語学者のあいだでは、ほぼ定説となっている。

オットー・ダールの説は以下のとおり。

原マダガスカル人であるマアニャン人がボルネオを離れたのは紀元700年ころ、バンジャール人の圧力により、マアニャン人の一部は内陸へおしこめられ、一部は外へむかった。外へむかったマアニャン人はバンカ島でマレー語の語彙を受け入れつつ、さらにこの地を離れ、マダガスカルに向かう。渡海移住を助けたのは、バンカ周辺の海洋民バジャウである。彼らは、アフリカ東岸への航海をとおして、すでにマダガスカルの存在を知っていた。バジャウの一部はマダガスカルにとどまり、西南海岸の漁撈民ヴェズの祖となった。マダガスカルへの移住は一波とは限らないが、短期間の移住の後、つまり7世紀の移住の後、マダガスカルとインドネシア地域の交通は途絶えた。

以上だけでも、異論、批判がやまほどでそうだが、いちおう、言語学的にはつじつまがあっているそうだ。
それにしても、興奮する内容だ。

さて、次の仮説は、オランダ出身の言語学者アデラールである。
アデラールはみずからマダガスカルとボルネオの両方で調査をした。
アデラールは、マアニャン人がボルネオを離れたあともマレー語を話す人々と接触を続けたとし、そのマレー語を話す人々とは、南スラウェシのブギス人だと考えた。
インドネシア地域とマダガスカルの関係は14世紀ごろまで続き、マアニャン人つまり原マダガスカル人はジャワ語に由来する語彙も取り入れた。

著者内堀基光さんは、ここで異議をはさむ。

現在、南東バリト諸語として分類される言語がどこで話されていたか不明であり、さらに、マアニャン人という、現在南カリマンタンに住む人々が、現在とおなじまとまりをもっていたとは限らない。
つまりだ、マアニャン人の源郷がボルネオ島とは限らない。
また、マダガスカルの原住民といわれるヴァジンバを、実在する実体のある民族集団としてとらえるのも、勇み足ではないか。

以上の言語学的研究から、なぜ、6000キロも移動したのかという疑問に答えることはむずかしい。
考えてみてくれ。7世紀にしろ、14世紀にしろ、インドネシア周辺は人口密度が低い、無人の土地がたくさんあるところだったのだ。
(この問いは、オセアニア方面への人類の移動についても、発せられる。)
著者は、インドネシア地域から移動した原因も不明だが、「目的地」としてマダガスカルが最初からあった、という仮説には承服しない。

7世紀をシュリヴィジャヤの勃興、南インドのチョーラ朝の拡大といった背景を考え合わせると、この当時インド洋東部には、かなりの交易のネットワークができていたはずであり、そのことは、インドネシア地域からインド洋へ向かう人の動きを促進したはずである。
ともかく、インド洋方面へ向かう人の流れは、交易・移民として、あたりまえのこととして、知られていたわけだ。

著者はさらに、アフリカの人の移動も考慮する。
アフリカ東海岸とアラブ人の交流もあり、インドネシア方面からの移動集団が東アフリカに滞在したことも当然予想される。
さらに、アフリカ東岸からマダガスカルまでの航海は容易である。
アフリカ東岸で、インドネシア方面からの集団とアフリカのバントゥー諸語の集団がまじりあい、さらにスワヒリ世界との接触もあり、これらの文化要素がまじりあったうえで、マダガスカルへの移住・移動が行われたと考えてもよい。

著者が注目するのは、マダガスカルの文化的な均一性、それに対する形質的な多様性である。ようするに、言語はほぼ同じなのに、顔つきや肌の色はアフリカ的な人からマレー的な人まで多様である。

それに対し、ボルネオは、言語的には多様であるのに、顔つきはほとんど同じ人々が住んでいる。(著者はもともとボルネオでフィールド・ワークをやった人である。)

あるいは、農業。
ボルネオは陸稲の焼畑農耕の世界である、と一言でいえるが、土地の回復力が強く、森が再生し、人々は森にかこまれて暮らしていた(すくなくとも20世紀半ばまで)

ところが、インドネシア的、あるいはマレー的な稲作農業とされるマダガスカルの稲作をみると、とてもボルネオを起源にするとは思えない。
中央高地一隊は草原になり、牧畜が行われている。
著者は、マダガスカル中央高地の草原をとても東南アジア的な景色とは思えない、という感想をもつ。
棚田も一見東南アジアのような風景だが、実は、この水田も1950年代にはじめられたもので、スイスの宣教師団が土地にふさわしい品種を実験したものだそうだ。

こうしたことから考えても、マダガスカルの農耕が、ボルネオを源郷とする技術とは思えない、というのが、著者の感想である。
もっとも、著者も自分の感覚だけでものを言っているわけではない。
ひょっとして、環境が違うから、ボルネオ伝来の焼畑も土地が疲弊し、草原になって、そして、牧畜として利用できることから、こんな草原の中で暮らしている、とみることもできる。
また、焼畑の儀礼が簡略化される、失われるというのも、儀礼というものは、急速に変化するもので、年月の経過による変化は当然のことである。

というわけで、壮大なロマンを喚起させる話である。
問題点を整理すると、
いつからいつまで移動が続いたか?
どこから出発したか?
出発した集団は均一か?残った集団は均一か?
航海を先導したのはどんな集団で、どんな文化をもっていたか?
途中でどこに寄ったか、滞在したか?どうして、途中で定着しなかったか?
途中の滞在地で、他の集団と混じりあったか?文化の交換があったか?
マダガスカルに定着した後、いかなる文化の変容があったか?
どうして、マダガスカルの人々は、移住してきたことを忘れたのか?

そして、なぜ、そんなに遠くまで、航海したか?
この問いには、答える必要なし、という意見もある。
なぜなら、遠くに行きたいというのがあたりまえで、もし、疑問を発するなら、なぜ一か所に定着している人々がいるのか、という疑問こそ発せられるべきである、という考えもあるのだ。


1 コメント

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マダガスカル (野村美貴)
2007-09-02 21:43:23
私は、マダガスカル島の事を学校の、宿題で、調べています>_<
分からん事ばっかやねん。
教えてちょ>_<
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