東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

西尾哲夫,『アラビアン・ナイト』,岩波新書,2007

2008-12-11 22:03:09 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
頭がクラクラするような「アラジンの魔法のランプ」の挿絵(ウォルター・クライン画)、アラビアン・ナイトをめぐる驚奇のトピックをもりこむ。アラビアン・ナイト物語そのものよりも奇妙な、アラビアン・ナイトの変遷をまとめた一冊。

著者は国立民族学博物館教授で、アラビアン・ナイトを民俗学的・民族学的に研究している学者。オリエンタリズムがどうのこうのというテーマの本は読みにくいものが多い中、本書は抜群にわかりやすく、視野が広く、おもしろい。
とにかく事例がもりだくさんで、アラブ圏各地、アラブ圏以外のイスラーム地域、イスラーム以前の中東、ヨーロッパによるアラビアン・ナイトの発見、ヨーロッパ各地での変遷、そして日本への伝播と受容を要説する。
18・19世紀のヨーロッパ重大事項、重要人物総登場で、アラビアン・ナイトをめぐる状況がいかに複雑で多層的なものかわかる。
それは日本での受容に関しても同様で、西川如見・新井白石からモンキー・パンチまで紹介。

文学・思想関係の本は苦手だが、本書は文化人類学的な視点と民衆文化を含めた視野で語るので読みやすい。

サイードの〈オリエンタリズム〉を日本の側から異議を唱える意見は多い。
つまり、サイードの主張する、一方的に他者として扱われ、ヨーロッパによって解釈される・規定されてきた中東側からの批判は正しい、とは思う。
しかし、ヨーロッパ側からの誤解と中傷と捏造を除けば、真実の中東が現れるかというと、そんなことはない。
ヨーロッパ側も中東側も、お互いに誤解と幻想を含めて相互に影響しあう関係であったのだから、その誤解や幻想の課程をバッサリ切ってしまうと、後に残るものは貧しい事実だけではないだろうか。
(終章:「「オリエンタリズム」を超えて」は要約が難しいので各自読んでみてください。)

さて、当然ながら、日本にとって、勝手に解釈して歪んだ像を押しつける相手は、少なくとも20世紀前半までは、中国であった。ヨーロッパにとってのオリエントは、日本にとっての中国である。
サイードの『オリエンタリズム』も、そういった日本対東アジアの関係を捉えるテキストとして読まれる場合が多いと思う。(そうですよね)

中国に比べほとんど未知の世界だった中東は幕末から明治に日本人の意識にのぼり、アラビアン・ナイトの翻訳も始まった。
唐・天竺・本朝という三国世界観の上にヨーロッパの世界観が重なり、中東地域は天竺の果でヨーロッパの辺境というむちゃくちゃな地位に定まってしまった。ただし、このムチャクチャは、地政学的背景を持つものではないから(つまり政治的に悪用されることが少なかったから)、幻想文学やポップ・カルチャーの分野での豊かな土壌になったと思う。
そして20世紀後半、石油危機、パレスチナ問題の中で、アメリカ合衆国の中東感を接木して、さらに混迷した中東感が生まれようとしている。今度は資源をめぐる実質的な利害が生じているので、差別や偏見もひどくなっているように思う。

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という具合に、日本人の世界観をみなおす上でヒントになる一冊であるが、東南アジアという、これまた幻想と誤解と偏見の地域を考える際の鍵を提供する本でもある。
前項、前々項で3本の映画について書いたが、フランス的・UK&USA的・日本的、代表的な東南アジア観を見せる映画を紹介したつもりだ。アラビアン・ナイトの変遷と似てますね。
この種の誤解や偏見は批判すべきであるが、そうした誤解と幻想も含めた東南アジアを見る視点がおもしろいのである。


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