東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

羽田正,『イスラーム世界の創造』, 東京大学出版会,2005

2008-05-03 22:23:18 | 移動するモノ・ヒト・アイディア
続いて、これも。
抽象的なことを書いた難解な本かと思っていたが、すっきりわかる。
題名がなんのことかわからないが、「イスラーム世界」という捉え方を再考し、結局、この言葉は「理念的な意味でのムスリム共同体」という以外の意味で使うのはやめよう、という主張。つまり、地域的な概念や住民の多数がムスリムである地域、イスラーム法の統治下にある世界、という意味で使うのはやめよう、という結論だ。

著者は、しっかりわかったうえで、議論し、本を書いている。
正確にいえば、なにがわかっていないかわかっている。

著書自身がわかっていない、納得できないこと。
学界で不問にされて見過ごされてきたこと。
一般読者やジャーナリズムが勘違いして混乱していることがら。

以上の事実を腑分けして、ヨーロッパで成立した「イスラーム世界」あるいは「オリエント」「アジア」という概念の発生と広がり、誤解と誤謬を解き明かす。

とにかく、先人の業績を評価しつつ、それらをばっさり捨て去る決意がみごと。
とくに、日本の歴史学界における先進的なイスラーム理解を評価し、それが一般人(学校教科書など)に反映されているのが、世界的に稀有であるという経過が示される。
そうした日本での特殊事情を評価しつつ、やはり、歴史的用語として、「イスラーム世界」という言葉は捨てよう、過去に著者自身が使っていた「イスラーム世界」という言葉は誤りである、とズバッと言い切る。

うーむ。
東南アジア史研究は、1960年代から80年代まで、斬新な手法を開発し、他の地域の歴史研究に挑戦してきたが、ここにきて、その先端的な手法や問題提起が他に地域の研究者に受け継がれ乗り越えられる状況が生じている(らしい。)。

その挑戦者の代表が、この羽田正の著作か!?
多くの宗教が混在し、地域としての一体感に欠け、宗教的統治と世俗化の両方のモーメントが拮抗している東南アジア、その東南アジア史と同じような視点で、イスラーム世界を捉える、いや、「イスラーム世界」という捉え方をやめよう、という視点だ。
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前項でレビューした『東インド会社とアジアの海』もそうだが、著者は、積極的に訳書を参考にしている。
目をとおしていない本は見ていないと書いている。
この方針は一般読者として歓迎する。
原典を読まなきゃ本を書いちゃいかんという態度だと、いつまでたっても、インド洋やユーラシア全体に及ぶ世界を論じられないと思う。
最低アラビア語・ペルシャ語・トルコ語が必要で、漢語やスワヒリ語やマレー語も、というのはムリである。

他の研究者も、もっと自由に自分の専門を越えた本を書いてほしいものだ。

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あと、瑣末な問題だが、本書でもこの「イスラーム」という表記を問題にしている。
アラビア語に忠実ならば「イスラム」よりも「イスラーム」がよいと思われるが、さて、では、アラビア語を第一に尊重する意味はあるのか?

一応便宜的に、各種事典や教科書、それに研究者の大部分がこの「イスラーム」という表記を使っているため、本書でも「イスラーム」と表記しているのだが。

うーん。わたしのブログではどうしようか?
インドネシア語でもマレーシア語でもイスラムだしなあ……


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