◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(35)未見の番組『渋川善助』◎

2023年03月29日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1986(昭和61)年。/末松太平=80歳~81歳。私=44歳~44歳。》
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◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1986年1月29日付。
「ジイは、これから自分のことをGということにした。ジイのGであり、英語のグランドファーザーの頭文字Gでもある。」
●1986年2月27日付。
「雪の日や 孫は子犬を拾い来る」
・・・孫(尾島匡則)が子犬を拾ってきたのは、2月8日の出来事である。この犬を連れての散歩が、晩年の日課になっていく。



●1986年3月24日付。
「電話でも話したが、博多からのお土産に卑弥呼饅頭(?)を買ってきて欲しいという、お母さんへのお願いである。欲しいのは箱であり、箱に描かれている卑弥呼である。
●1986年9月30日付。
「匡則は京都奈良旅行を、写真入りのメモにして夏休みの宿題のようにして学校に提出した。その前にGに見せたが目が悪いので見えなかった。それが見えたら君たちの旅行のあらましがわかったであろうに、残念であった。」
・・・慶応病院での手術から、約2年が経過。再び、目のことを気にし始めている。

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《「年表・末松太平」1987(昭和62)年。/末松太平=81歳~82歳/私=45歳~46歳。》
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◎1987年。テレビU福島「ふくしま人物ものがたり/激動の中の青春・渋川善助」に出演。
・・・千葉市登戸の自宅に制作スタッフが訪れ録画取材。末松太平は「渋川善助の人間像」を語っている。

◎「末松一輝への手紙」を続ける。
●1987年2月28日付。
「Gは『テレビU福島』から渋川善助に関するビデオを貰ったが、機械がないから映写できない。一輝のところに機械があるから、そのうち映写してみたいと思っている。だから、そのうち、そちらへいくよ」
・・・末松太平の家にはビデオデッキがなかった。/それなら、ビデオデッキを車に積んで、末松邸に行けば良い。/しかし、末松邸のテレビは(旧型で)ビデオ端子がなかった。そういう時代の話である。/結局、末松太平は、このビデオを見ないままで、逝った。
・・・長男(私)が、このビデオを観たのは、1991年になってからである。/現在、このビデオテープは私の手元にある。テレビU福島の撮影には「気配り」が感じられない。乱雑な部屋(目が不自由で整理できない)が撮影されている。末松太平の「衰弱した姿」は、ショッキングである。
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◎1987年の春。孫(末松一輝)は、中高一貫教育の「私立・開成学園」に進学した。
・・・受験番号は「226」であった。

◎1987年4月12日。末松太平は甥(久保真人)の結婚式に参列している。
  ※会場=飯田橋のホテルエドモンド。

◎1987年8月。東北自動車道「白河~矢板」付近の事故現場。
   
◎長男一家+長女母子=計5人の夏休み。
・・・大河ドラマ」独眼竜政宗」の影響で、仙台を目指す途中、長男(私)の妻が運転する車が突然バースト、新車は一瞬にして「廃車」になった。画像の助手席には(自力では出られない)私が、苦笑している。
・・・私は、左手首骨折などで、矢板の病院に緊急入院。早朝なので「宿直医」が(麻酔なしで)四十数針を縫合、数日後に(骨折のまま)列車に乗って板橋中央総合病院に転院。再手術を受けた。
・・・末松太平は「この件」を最後まで知らずに終わった。長男(私)の指示(知らせても心配するだけ。見えないから黙っていれば判らない)に全員が従った。
・・・私は、この時の後遺症で「左手首」が些か不自由。例えば、キャッチボールが出来ない。

★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。直筆ノート「日記のような雑記のような記録」より。》
●1987年9月2日付。
「山本常雄、海老沢行秀が来訪したときの記念写真」が貼られて「半盲なので二人の見分けがつかないので、匡則に判別してもらう」と書かれている。
●日付のない、別のページ。
「日本版ライフ50年史」の広告が貼られて「欲しいが、どうせ読めないから買うのをやめた」と書いてある。

◎「末松一輝宛の手紙」を続ける。
●1987年10月29日付。
・・・「新版『中今』考・末松太平」というコピーを¥が同封されている。何に掲載されたものかは不明。
・・・このコピーは、翌年1月29日付の手紙にも同封されていた。
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◎1987年。「慰霊像護持の会」は「協賛金の呼びかけ」を行っている。
・・・末松太平は、既に「賢崇寺の法要」には足を運んでいなかった。
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