がじゅまるの樹の下で。

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もうひとつの、尚徳王の墓

2019年04月05日 | ・琉球史散策/第一尚氏

第一尚氏最後の王、尚徳。

21歳で王位につき、
29歳の若さで急死。

その直後(または直前)に起こったクーデターとの関係で
毒殺されたとも、
自殺したとも言われています。

第一尚氏各王の遺骨は
元の天山陵から離散したとはいえ、
それぞれの場所で各王の墓として今に伝わっています。

→ 第一尚氏墓リスト

 

 

現在、識名に
「尚徳王陵墓跡」というものがあります↑

これは尚徳の養育役であった安謝名が
識名・上間地区の支配者であったため…
という由来だそうです。
(参/那覇市観光資源データベース

 

安謝名が尚徳の遺骨を持って逃げて、この地に安置した…
とか、そう説明は無いんだけど、どうなんだろう。
なぜここが尚徳王陵墓跡になっているのか
いまいち腑に落ちない気もします。

 

別説では
尚徳王の王子の守役の安座名大主が
クンダグスクから王妃や王子(世子)など
7体の遺体を運んできて葬った場所…
なのだとか。
参/『琉球王国の真実』(伊敷賢著)


どっちにせよ、
尚徳本人ではないよね…?

 

そもそも尚徳は病死・毒殺・自殺ではなく
実は生きていて逃亡したとの説もあり、
遺骨があったのかも謎なので、
この王陵もあくまで伝承の範囲。

まぁ、それはいいんですが、

この識名の陵墓跡については、石碑が折(ら?)れていて
いまだにそのまま…という因縁じみたものを感じて
これがまた奇妙なんですよねぇ…。

なんなんでしょうねぇ…。

 

 

さて、その死が謎なら、

その墓についても一筋縄ではいかず、

尚徳王の墓とされているものは
ここ以外にもあるのです。

 

そう、
舜天王統最後の王、
義本の墓が複数か所  に伝わっているように、

第一尚氏王統最後の王、
尚徳の墓が数か所に伝わっている。

そのこと自体、
穏やかではなかった王の最期や、
時代の空気を感じさせます。

 

+

 

今回は、色々ある中の一説をご紹介。 

 

クーデターが起きたとき、
北に逃げた尚徳は、そこで病死し、葬られます。

 

その場所は、奄美群島、

 

喜界島。

 

 

 

…に、行ってきました。

訪問に際して
喜界島に伝わる尚徳の墓の場所を調べましたが、
事前に分かったのが志戸桶という地域であることと、
実際のお墓の写真のみ。

 

……とりあえず、志戸桶に行ってみよう。

で、あとは地域の人に聞けばなんとかなるだろう…。

 

 

しかし、全然人と出くわさない。
これは難航するか、
はたまたたどり着けないことも覚悟しつつ、

島の外周である喜界島循環線を走らせていると、
墓地が。

 

現代の墓地なので、私はなんとも思わなかったのですが、
(私は尚徳の墓は他の王墓と同じように単独であるイメージがあった)
オツレサマがビビビッと来たらしく、Uターン。

 

墓地に入ってみると……

 

 

ん、ん、ん……!??

 

あの花ブロックは……!!

 

なんと迷うことなく、一発でビンゴ!

 

 

階段を登って、1番奥、1番高い所に
それはありました。

 

 

手前には由来の石碑。

 

要約すると、

 

尚徳は喜界島征伐をして帰る時、
当家(※孝野家)の娘・カミーを妻を連れて帰り、妻にした。
3名の子を授かったが、クーデターが起き、
妻(カミー)と長男は喜界島に逃げる途中、
船が転覆して、長男は死亡。
(カミーは一命をとりとめたが、辺士名ノロとなる)

前後して、次男と三男が、
そしてその後、尚徳も喜界島に到着した。

しかし、尚徳は疲労と病に倒れ、数か月後に亡くなった。

尚徳の遺言により、墓は首里を向いて建てられた

 

と。

 

 

 

カミーの実家(孝野家)には後継ぎがいなかったため、
尚徳王次男が養子になって、
子々孫々現在まで続き、

この石碑を建てた孝野武志氏は
その27代目にあたるのだとか。

 

尚徳の墓の手前には孝野家の墓があり、
27代目孝野武志氏も
数年前にお亡くなりになっていました。

 

 

合掌。

 

 

+ + +

 

 

う~む、妻(側室)の故郷とは言え、
自分が張り切って攻め落とした島に、
そして島人に相当恨まれているであろう、そんな場所に、
都を追われて、満身創痍で逃げてこれるもんかなぁ…?
(しかも肝心の、妻・カミ―は帰郷してないし…)

普通に考えたらちょっと厳しい気もするけど……

 

とはいえ、尚徳に限らず
古琉球のお墓は伝承によるもの、
物的確証がないモノがほとんど。

長い間、そう伝わり続けて
今、それとして存在していることには
なにかしらの意味があるのだと、
私は思います。

 

 

+

 

≪追記≫


ちなみに、
『月代の神々』(當真荘平著/1985)に
筆者が喜界島を訪れた際、孝野氏とのやり取りが記録されています。

以下、抜粋↓

骨壺の中の御骨は尚徳王のものであると決定するまでは
首里から漂流してきた偉い人の御骨だ、と
先祖から言い伝えられてきたという。

系図は木製の箱に納められていたが、製本されてなくバラバラになっている。
筆法は確かに、首里・那覇泊系の系譜と同じであるが
どこにも第一尚氏とのかかわりのある名前は探りだせなかった。

首里王府より下賜された辞令書や男物のかんざし、
女物のぢーふぁーも保存されている。

和紙に書かれた家譜には世系図は見当たらない。
辞令書や家譜にも王府の印は押されていない。
(※印入りの辞令書も存在している→

(筆者の同行者が)
「尚徳王の御骨であるという物的証拠もありますか」と質問すると、

「記録はないが、私が確信したのは、
お墓参りをして白紙に神酒をかけて、
尚徳王の御骨であれば赤く染まって下さい、
でなければ黒くなってくださいと合掌したところ、
赤く染まっていました」

「これが尚徳王の御骨であるという証拠で、
25年前に決定(=断定)しました」


……とのことです。

 

とりあえず真意はどうあれ、
そういう経緯があったらしい、
ということは一応書いておきます。

 

※ここは正式な文化財指定などはされていません。
ただ、『第一尚氏関連写真集』(佐敷町教育委員会/1996)には
孝野氏の話と共に掲載があります。

 

 

 

 

とりあえず、
喜界島の尚徳の墓(伝)、
実際に訪問することができてよかったです。

 

尚徳にも、もっと光が当たるといいな。

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