joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

いちばん基本的なこと 『2004年超円高大好況!』増田俊男(著)

2005年03月10日 | Book
2週間借りていていた『2004年超円高大好況!』
を明日図書館に返すので、多くの人にとって既知のことですが、基本的な点をまとめておきたいと思います。

もし高校生や大学に入りたての若者に国際政治経済の入門書を推薦するとしたら、この本がいいのではと僕は思います。現代の政治経済の一番基本的な部分が押さえられているのではないでしょうか。この本で足りるということはありませんが、この本を読めば多くの人は世界を視るということに大きな好奇心を持ち始めるのではと思います。

まず世界の貿易取引の方法が根本的に不平等であること。つまり、金の裏付けも何もないアメリカ・ドルが基軸通貨であること。これにより、アメリカは無限に世界中から買い物ができます。アメリカの貿易赤字がどうだとかよくマスコミで言われますが、根本的にはそれはアメリカにとって痛くも痒くもないこと。なぜなら、基軸通貨が自国通貨である以上、世界中の国がドルを買う必要に迫られ、それによってドルの価値は労せずして維持され続けられる。アメリカはただ輪転機を回してドル紙幣を印刷すればよい。つまり、アメリカという国単位でみれば、売る努力をしなくても、アメリカは物を買えるという立場にある。

また他国は、もしドルの価値が低下すると、自分たちが保有するドルが低下していくので、つねにドルを買い続ける圧力にさらされている。

普通は貿易赤字になると、通貨価値の低下→インフレ→為替差損の恐れ→海外からの資金引き上げ→株価低下、景気後退、失業率上昇、消費停滞という悪循環に陥ります。

この悪循環を避けるため、普通の国は、たとえ経済が好調でも、貿易赤字なら金利を引き締め、投資・消費を抑制し、増税をし、景気にブレーキをかけます。

しかしアメリカ・ドルは通貨価値の低下が起こらないので、こうした政策を採らずに、どれだけ貿易赤字が増えようと国民の消費を抑制しません。

よくアメリカはカード社会だといわれます。日本もすでにそうです。ただアメリカの場合は80年代からすでにそうなっています。それにともない、消費を止めることができず、自己破産していく人の数が多いことでも有名です。アメリカ人の貯蓄率の極端の少なさも、この消費に抑制をかけないアメリカ政府の政策と関係しているのかもしれません。

このようにアメリカの経済がどういう状況であろうと、自国通貨が基軸通貨であるうちは、たとえ80年代を通じて製造業が衰退し、貿易赤字がどれだけ膨らもうとも、アメリカに商品を輸出する国がドルを買っていき、経済破綻を免れることができました。また90年代にはIT構想を掲げることで世界中のお金を集めることができました。

IT自体は持続的に価値を生み出すことができません。ただ連絡が迅速になり、取引の無駄はなくなるので、ネット・オークションなどの形態が広まりますが、その恩恵は一時的なものです。一端ITが完全に整えられると、そこからは価値は増大しません。つまり、市場が飽和しやすいということです。

日本のIT長者たちも、ITだけではビジネス・チャンスはもう数年すれば広がらないことを知っているからこそ、ITを利用して流すコンテンツ(スポーツ、エンターテイメント)の獲得に必死なのだと思います。

ただITという幻想自体は広まったので、アメリカは90年代に世界中からお金を集めることができました。


これほど旨味のある基軸通貨という立場ですが、アメリカがそれを守れたのも、冷戦状態でアメリカの軍事力が西側諸国に影響力をもっていたからでした。

逆に言えば、自国の経済活動自体は瀕死だと言われているアメリカにとっては、ドルが基軸通貨でなくなることは、国の崩壊を意味します。

ユーロ通貨の誕生はその点で大きな脅威です。イラク、イランをはじめとする石油産出国は2000年前後から軒並み石油取引をユーロ建てにしようとしました。またよく知られているように、イラクは自国の石油産出についてフランス、ロシアと取引をしていました。

これは、自国の石油だけでは石油消費量を賄えず、かつ基軸通貨としての立場を脅かされるアメリカにとって死活問題でした。すでに多くの所で報道されているように、アメリカがイラクを攻撃した背景には、ドルの立場を脅かすイラクとヨーロッパとの取引を中止させる狙いがありました。

またアメリカの軍事力を改めて世界に認識させることで、冷戦後も世界がアメリカに従う必要があることを教育しました。

これは同時に、冷戦時と同じように世界がアメリカに頼る構造を維持するには、つねにアメリカ以外の国では手に負えない戦争が世界各地で起きている必要があります。そのアメリカにとっては、北朝鮮の脅威やイスラエルの紛争は、無くしてはならないものとなります。

したがって、アメリカには最初から北朝鮮に核を廃棄させる狙いはないこと。アメリカにとっては、攻撃すればいつでも勝てる相手です。しかし北朝鮮が脅威であることで、アジアはアメリカの軍事力に頼らざるを得ず、その影響力を保持し、同時にドルの位置を保つ政策を日本などに押し付けることが可能となります。

大量破壊兵器をもたない国を攻撃し、核兵器の製造を宣言する国に手を出さない理由はここにあります。

この本にはもちろん他にもさまざまな問題が取り上げられているのですが、一見異常ともとれるアメリカ政権の行動が矛盾なく分かるようになっています。もっとも、あまりにも矛盾がないところが、ひょっとするとこの本の問題点なのかもしれません。


涼風


ジョージ・マイケル

2005年03月08日 | Music
気分の落ち込みが続いています。やっぱり疲れている。どうしてだろう?

昼食を摂り、借りていたCDを返しにレンタル店へ行きました。ついでに大倉海岸の海を見ます。なんとなく今日の水はうるうるしていて、また太陽の光が反射して、宝石みたいにつぶつぶがキラキラしていました。

帰ってから、いらない本やCDをアマゾンや楽天の中古販売に出す手続きをしました。売れてくれるといいのだけど。

最近は、ジョージ・マイケルのCDをよく聴きます。15年以上も前に買った“Listen Without Prejudice, Vol. 1”や最近借りていた“Songs From the Last Century”など。

ジョージ・マイケルという人は巨大な才能をもちながら、なんとなくコンプレックスというか垢抜けなさが残っていて、逆にそういうところが僕は共感をもっています。

本人は単純にソウル・ミュージックを中心に音楽が好きで、自分の好きな音楽をやりたいだけなのだろうな。

彼がプリンスのライブを観に行って、途中で会場から出ると、プリンスが「ジョージ・マイケルが出て行ったぞ」と大声で叫んだそうです。多分、プリンスにしてみれば、ジョージ・マイケルのやっていることは自分たち「ブラック文化」の模倣だから、からかいたくなったんだと思います(プリンスには、そうやって他の大物アーティストを笑いものにすることが時々あった)。可愛そうなことするなぁ、と僕は勝手に同情していました。

僕の行きつけのレンタル店には、ジョン・レノンのCDはなぜかたくさんあるのに、ジョージ・マイケルのCDは4枚ほどしかない。残念。

ともかく、“Songs From the Last Century”はとてもいいですよ。


最近は、“Songs From the Last Century”のようなジャズ・ナンバーをインターネット・ラジオで聴くことがあって、自然に馴染んでいけます。以前はぜんぜん分からなかったのに。


涼風


ゆううつ

2005年03月08日 | 日記
なんだか憂鬱な気分が続いています。外の天気はとてもいいのに。

憂鬱の種は色々あります。言いやすいものから言いにくいものまで。

先月から網野義彦さんの『日本中世の非農業民と天皇』を読んでいます。天皇制について知って行きたいと思って図書館で借りたのだけど、読んでいてつらくなることがあります。僕から見ればかなり細かい地域の歴史的事実を資料を基に追っているので、それが全体的状況とどうかかわるのか見えにくいから、読んでいて苦しくなる。

そういう点は、僕の歴史に対する弱さかな、と思います。そんな全体とのかかわりとか考えずに細かいことに嬉々とした喜びを見出せるの子供のような純粋さを備えるのが、本物の歴史家なのかもしれない。

それに対して、自分は知識が好きなのかどうなのか、分からなくなるときがあります。本当に知識が好きなのか、たんに自分の空白を生めるために知識を利用しているだけなのか。

この憂鬱に拍車をかけたのがテリー伊藤さんの『お笑い大蔵省極秘情報』。旧大蔵省の役人が本音を語ったといわれて話題になった本ですね。もう10年近くも前の本です。僕は噂だけ聞いていたけど、図書館で借りてみました。

内容は、まあ、大蔵省のキャリアがどれだけ優れたロボットなのかを自画自賛している内容です。あとそれに、適当に役人の破廉恥な厚遇を自分たちで暴露しています。

彼らが一様に、どれだけ自分たちの情報処理能力が高いか、つまり東大法学部の中のトップにいる人間がどれだけ他の人と違うのかを強調している姿には辟易すると同時に、たしかにある種の能力が彼らにはあるのだろうとも思います。

もっとも、彼らが大蔵省以外の人間は日本の財政の中身について分かっていないと馬鹿にするのはナンセンスだけど。だって、最も情報源に近くいて、しかもそれを秘密的に独占できるのだから、外部の人間が彼らより知識が劣るのは当たり前なのだから。そのことは彼らを優秀とする根拠にはならないのだけど。

ともかく、知識を処理する自分の遅さを省みて、ちょっとうんざりしました。ドイツ事情のブログとかしてみても、ちょっと気分的に疲れてくる。

なんだかさえないのでした。


涼風


ヴェルディからの移籍選手は何人目?

2005年03月07日 | スポーツ
昼間にBSで楽天、じゃなかった、サッカーチームのヴィッセル神戸の試合をしていました。今までの白と黒のストライプから赤にユニフォームの色も変わっていました。

これはもちろん楽天側のマーケティング戦略です。一応、応援団に対する説明会みたいなものはあったらしいのですが、楽天側は最初から赤にすることを決めていたのでしょう。

僕はその話を聞いたとき、やっぱり三木谷さんは、神戸のためのチームではなく、自分の企業のためのチームを作ろうとしているのかな?と思いました。いくら歴史が浅いとはいえ、10年近く応援し続けている人もいるだろうに、いきなり来て(しかも2部に降格していればチームを買収しなかった)チームカラーを買えると言うのだから。

でも、今日見た印象では、なかなかいい色のユニフォームになっていました。まあ、神戸はこれまで熱心なサポーターがいたわけではないし、神戸自体が他と比べてサッカーに熱心な地域とはいえないので、チームカラーを変えても、それほど摩擦は起きないのかもしれません。

ただ、それとはべつに想ったのは、やはり神戸に野球チームを作っていれば、それこそ「シナジー効果」で盛り上がっただろうなということ。

神戸という地域は、野球でもサッカーでもどこかのチームを応援することで盛り上がったことがない。いや、関西という場所自体が、阪神以外でスポーツチームの応援に熱心になったことがない地域なのです。

人口を考えれば、京都に野球チームができてもおかしくないのに。

その神戸でも、もし野球とサッカーの両方を「ヴィッセル神戸」として、あの印象的なエンジ色で大々的に売り出せば、かなり市民球団としての盛り上がりを見せたかもしれないと想うと、ほんの少し残念。

ヴィッセル神戸のチームカラーは仙台楽天イーグルスのチームカラーと同じ。やっぱり一番トクしたのは楽天なんですね。べつにいいのですが。

でも、神戸にサッカーと野球のチームをもって、神戸のスポーツチームとして盛り上げて、さらに「サンテレビ」や神戸ケーブルテレビと密接な業務提携をして、ITとテレビを通じて徹底的に「ヴィッセル神戸」と楽天の商品を売り出す戦略をすれば、すごい盛り上がったかもしれない。人のお金のことなので、そんなこと考えてもしょうがないんですけどね。でも、開幕戦だというのに、BSで中継しても神戸の放送局で中継されないというのは淋しいかぎり。

三木谷さんにとっては、神戸とか仙台とか一つの地域にこだわることは馬鹿らしいのかもしれない。一つの地域に身をうずめるというより、「でっかく」事業を広げて世界全体をフィールドにして活動したいのかな。


涼風



人の幸せが怖い

2005年03月06日 | reflexion
最近は夜1時には布団に入るようにしています。生活パターンが健康的になりつつある。

なのに、気分的になんだか疲れ気味。なんだかどんよりしています。

「疲れている」というのは、休んでいいというサインと受け取っていいのかな。


実は、怠惰な人ほど、内面での自己攻撃が激しくて、体中のエネルギーを消耗して生きているという話を聞いたことがあります。そうだろうと思います。周りの目を気にしたり自己攻撃したりして、へとへとになっているのだと思います。

私たちはどこかで、人間は苦労しなければならないと思い込んでいます。人が人を攻撃するのも、つきつめれば、あなたは苦労していないから何も分かっていないと言っていることが多い。

批判や攻撃とは、「あなたは苦労の経験が足りない」という心の声です。たとえ若い世代による「旧世代」への攻撃だとしても、そうです。

そして、「あなたは苦労の経験が足りない」とは、「あなたにはもっと苦労してほしい」という声ですね。批判や攻撃とは、「他人が苦しまなければ自分は幸せになれない」という要求ですね。

それに対して、相手と自分がラクに一歩前に進む考えに行くことが、建設的な議論の特徴です。

「正しい」ことを言う人の多くは、相手が進歩することよりも、「苦しむ」ことを望んでいる。他人が「苦しむ」ことを望むかぎり、自分もラクにはなれない。たとえ「正しい」ままだとしても。


涼風



ひとそれぞれ

2005年03月05日 | 語学
もう一つブログを新しく作ってみました。ドイツの新聞などの記事を紹介するサイトです。思いつきでぱっぱっと作ってみたのだけど、なんだか疲れました。

まず、今回はライブドアのブログで作ってみたのだけど、勝手が違うからか、なかなかスムーズにサイトが作成できない。作り方の説明にも一般的でない用語をたくさん使っていて、あまり初心者には親切じゃない感じがした。僕がgooに慣れているからかもしれないけど、はじめてブログをする人には別の方がいいのかも。

そうは言っても、慣れるとまた良さが分かるかもしれないですけどね。

あと、新聞記事を日本語で要約したりするのも、ちょっと時間がかかったかな。毎日続けるのはしんどいかも。

いつまで続くか分からないのですけど、一定期間続いて、これからも続けられそうだと、ブックマークに加えたいと思います。


でも、ただ海外の新聞の記事を紹介するという内容自体は、もう貴重じゃないですね。翻訳ソフトはまだ英語ぐらいしか廉価で出回っていないけど、そのうち各国語が安く手に入るのでしょう。すると、外国語を勉強しなくても海外の新聞を読むことはどんどん当たり前になるし、もうすでになっている。

なのに、なぜいまだに世間は英語ブームなのでしょう。そのうち自動通訳機なんてのもできるだろうに。

僕も語学を勉強しているけど、それは何かに役立てたいというより、語学学習自体が一種のゲームのように感じられて面白いから昨年から英語を勉強しています。

でも、ビジネスのような限られた場面で使われる外国語であれば、専門用語に対応する翻訳・通訳マシーンはこれからもっと性能アップすると思う。

神田昌典さんは、英語は完璧にマスターすることはあきらめて、自分の関心にかかわる範囲の単語の習得に励めば、わずかな単語数で足りると、昨年の著書『お金と英語の非常識な関係』
で書いていました。それは僕もそうだと思います。たとえビジネスでも、海外の人も、相手が日本人なら手加減してしゃべるだろうし。

それにそれほど語彙がなくても、相手が外国の人でも、気の合う人とはコミュニケーションは成立すると思う。これは僕の体験からの印象です。もちろん、日本人同士のようには行かない。だけど、それだけに、ほんとに伝えたいことをだけをシンプルに伝え合うコミュニケーションになって友達になれるのです。

それに、言葉を完璧に理解すれば友達になれるのなら、わたしたちはすべての日本の人と仲良くなっているはずだけど、現実は違いますからね。


とは言っても、「ネイティブスピーカーシリーズ」の英語学者大西泰斗さんなんかは、1000語や2000語で英会話ができると思ったら大間違い。深い内容のことを話したければやはりもっともっとたくさん語彙力を増やすべき、と言っています。

こういうもんだいはどうなのだろう?

夏目漱石は、ロンドンに5年いて、でも「英語なんてわかるわけがない。イギリス人のように英語の本を読めるわけがない」と悟った時点で留学を切り上げたそうです。

日本で一番ドイツ語がうまいといわれている三島憲一さんも、「外国語なんか勉強するな。一頁に一つでも分からない単語があるなら、その言葉をまったく分からないのと同じなんだ」と言っていました。

僕に知る範囲では、ものすごく語学ができる人ほど、語学に対して謙虚です。それに、そういう人ほど、語学だけできても仕方がないと冷めています。それよりも、たとえ語学ができなくても、深い内容について考え話すほうが大切だと感じているようでした。

中谷彰宏さんも、著書『昨日と違う自分になる「学習力」』
の中で、1冊の洋書を読むよりも、その時間を使って10冊の日本語の本を読むことが大事だと言っています。


うーーん。


でも、なんでもそうだけど、最後は人それぞれで結論を出すしかありません。語学ができるのもすばらしいし、できなくてもすばらしい、そういうものなんだと思います。一番大切なのは、コンプレックスにとらわれないことですね。


涼風


もう業界はいらない?

2005年03月04日 | Music
2005年3月4日に書いたエントリーですが、そのときに思った音楽配信に関することが『たけくまメモ』の最新エントリー「【著作権】平沢進インタビューが面白い」でも論じられていました。やっぱり「レコード会社」という組織はこれからなくなり、ネット時代では音楽に限らず“アーティスト”と消費者の垣根はどんどん低くなっていくのかもしれないし、なってほしいです。

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今日は、時間をかけてせっせせっせとパソコンのリカバリ(再セットアップ)を行いました。Yahoo BB!のモデムの電源を入れた後にパソコンを起動させると、最近は以上に時間がかかっていた。3、4分は時間がかかっていた。ほかの事に問い合わせた際にその異常に気づいた東芝のサポートの人が、「ゴミが溜まっているのでリカバリしたほうがいいです」とアドバイスしてくれたので、それに従いました。

再セットアップ自体は、今のパソコンはとても簡単ですねぇ。僕が初めてパソコンを買ったときなんかは(1997年)、セットアップなんて怖くて詳しい人に全部お任せという感じだったのに。

作業が終わり、もう一度起動すると、すっかり元通りになっていました。余計なファイルもないし、なんだかこっちの胸の中もすっきり。一年に一回ぐらいはリカバリするのがいいのかも。2年前に買ったDynabookが新品になって帰ってきたような感じです。

作業が終わり、夕食を食べ終わるころ、NTTコミュニケーションズのOCN関連の人から、ADSLとIP電話の勧誘の電話がかかってきました。いつもならすぐに断るけど、今日はちょっと話を聞いてみると、2月からの新しいサーヴィスだと月額3100円になり、IP電話も県外が一分8円、さらに同じ関連会社の電話だとタダになるという。これはYahooBB!と同額かそれより下になるのかもしれない。ついにYahooBB!の牙城を崩そうとする試みが現れたんですねぇ。

これは考慮の余地ありかもと少し思う。最初の2ヶ月はタダなのです。2か月分といえば6000円なので、僕にとっては大きな金額。

実際にどのくらい面倒なことが起きるのかはわからないけど、気分的にちょっと面倒だなぁとは思います。でも、総合的に考えたら乗り換えるのも悪くないかも。

とか考えて思ったんですが、プロバイダって新規申込者に対してはどこも2、3ヶ月は無料にしていますよね。ということは、しょっちゅう色々なプロバイダに乗り換えて頻繁に無料のサーヴィスを利用するという、そういうセコイことをしている人も世の中にはいるのかな?頻繁にとはいわなくても、1年に1回変えるだけで、毎年6-8千円が浮くわけです。なんだかセコい話だし、会社に対して失礼のような気もするけど、実際に行動に移している人もいるのかもしれない。


そういえば、そのYahooBB!で音楽の配信サーヴィスが始まるというニュースが来ました。今のところ、アルバム一枚ではなくて、一曲2-300円とかみたい。

もう音楽もCDではなくて配信サービスが中心になるのでしょう。僕は技術の進歩にはシンクロしていないタイプなので詳しくないけど、実はもう主流になりつつあるのかもしれない。

でも、思うのだけど、音楽をインターネットでダウンロード購入しても、今日の僕みたいにパソコンを再セットアップしたくなったら、それをどこかに保存しなくちゃならない。それはどうするのだろう?やっぱりCD-R?

だとしたら、それは実質的にはレンタルCDと変わらなくなりますよね。

そうすると、ダウンロード購入するよりも、レンタルCDの方が安いのだから、ますますレンタルの方に人が流れ込まないのだろうか?

レンタルではなくてCDを買うことのメリットは、歌詞カードがあったりジャケットがあること。でもダウンロードだとそういうものはない。もちろんその分コストは削減されるけど、でもさすがにレンタル料金にはかなわないでしょう。最近はレンタルもデフレが激しくて、僕の近くのチェーン店は、週に一度半額デーを設けているから、CDもDVDもビデオも1週間で旧作は150円、新作でも200円だったりする。もっと安いところもあるのかもしれない。

このあたりの事情は、全体的にはどういう流れになっているのだろう?

ただ、僕の印象だと、最近のレンタル店は、とくにCDに関してはとても品揃えが悪い。大抵どこも同じ店舗でDVD・ビデオも置いているので、あまりCDを置けないのでしょう。

僕が中学生のころは、レコード・CD専門のレンタル店があったけど、品揃えはとてもよかったと思う。TSUTAYAぐらいの大きな店じゃないと、あまり置いていないですよね。でも僕の家の近くにはTSUTAYAはないし。

レコードからCDへ。CDからネット配信へ。どれだけ「常識」が移ろいやすいかということですね。

そうだ。ネット配信が主流になると、もうメジャーとインディーズに垣根もなくなる。というより、素人とプロの垣根もなくなる。もうアーティストたちは、レコード会社のプロデューサーに振り回されずに、自分の作りたいものを作ってそれを配信すればいい。ここのアーティストがサイトを作っても見向きもされないかもしれないけど、こういう分野にはたぶん良心的な人も多いだろうから、メジャーと契約していないアーティストを一手に引き受けて曲を配信するサイトを作る人も絶対出てくるでしょうし、すでにそういうサイトがあるのかもしれない。

広告費はメジャーの足元には及ばないだろうけど、これからのネットの拡がりを考えれば、優良なインディーズサイトはとても有名になるだろう(orなっているだろう)。インディーズ会社や個人で配信サービスをする人たちも、元手はそんなにかからないはず。だってCDやジャケットを作って全国のお店に配送するというコストがいらないのだから。

つまり、ヘンな業界人(?)の思惑に左右されずに音楽を作りたい人が自由に音楽を消費者に届けることがより簡単になるわけですよね。もう有名になるために、レコード会社と契約できるかどうかということを考えなくていいのだから。

これってすごい時代かも。


涼風

参考:『新佃島・映画ジャーナル』 2005.2.24「もうCDなんていらない」

   「【著作権】平沢進インタビューが面白い」『たけくまメモ』

   


Being A Leader

2005年03月04日 | reflexion
「罪悪感は傲慢です。なぜなら、神よりも自分たちのほうが自分についてよく知っていると言っているからです」(『チャック・スペザーノ博士の癒し大全』p.111)。


わたしが罪悪感をもつとき、それは往々にして後悔のかたちをとります。その後悔は一種の自己正当化の試みです。「これほど悪いことをしたことをわたしはちゃんと認識しています。あなたに言われなくても、自分を十分に罰しています」。そう私は他人に言いたがっています。そうすることで、自分以外の存在に認めてもらおうと計算しています。

その罪悪感を手放すとは、開き直ることではないし、また縮こまることでもないのでしょう。むしろ、他人からの助けや許しを得ようとやっきになるのではなく、自分が助ける側に立つことを選ぶことなのでしょう。


涼風


Giving myself

2005年03月03日 | reflexion
完璧に優しい人はいません。どんなにやさしく見える人でも、貧しい人を「悲惨な人」と憐れな目で蔑んだり、誰かを「レベルの低い人」とみたりして、他人を切り捨てます。それは、わたしがそうであるのと同じことです。

わたしは完璧な人を探します。完璧に私にやさしく接し、誰に対しても偏見のない態度で接し、かつ私を励ましてくれる、そういう人を探します。でも、そういう人はいません。絶対にいません。

その人たちが完璧でないのは、わたしが完璧でないことと同じことです。どれだけその人が私より慈愛に富んで聡明であっても、三つか四つ欠点があるだけで、私はその人にがっかりします。私には百の欠点があるにもかかわらず。

ポイントは、私が他人に何かをしてもらうことばかり考えて、自分が何もしてあげようとしていないことです。

本当に慈愛に富んだ愛にあふれた世界に住みたいのなら、私がそれを創り始めればいいのです。


涼風



恐怖

2005年03月01日 | reflexion
「胸が張り裂けるような悲しみは、私たちをちじこまらせ、閉じ込めてしまいます。一方、与えるということは、高次の意識ととても大きな愛を生み出します。
もしも胸が張り裂けるような悲しみを体験しているときに、あなたのなかを流れる感情をあますところなく感じて、そのままのあなたで与えることを選択すれば、心と意識が拡大しはじめるのです」(『傷つくならば、それは「愛」...』 p.457)


最近は、恐怖の感情を感じようとすると、首の周辺からあごの下の筋肉が反応します。肉があまりない部分なので、そこに意識を集中して感じていると、硬い感じもします。

以前は胸の中に感情を感じていたようだったのに、感じていくにしたがって反応する体の部分が時間とともに違ってくるのだろうか。

感情をこれまでも感じてきたけれど、僕の意識は拡大しているだろうか。現実の境界を越えて広がっているようにも感じるし、現実から逃げているのかもしれない。そのどちらも知れないし、両方かもしれない。

夕方に歩いていると、薄い水色が世界全体に広がってとてもきれいでした。歩きながら、マインドをポジティヴな方向に向けるためにある言葉をつぶやいていたけど、ぱっとその言葉をつぶやくのをやめてまわりを見ると、道路も空も家も木々もとてもきれいなことに気づきました。


涼風



統制されないお金 『マッド・マネー―世紀末のカジノ資本主義』 スーザン・ストレンジ(著)

2005年03月01日 | Book
★今回の記事は、400字詰め原稿用紙15枚分ほどです。また、多くの人にとって既知のことが書かれてあります。

ライブドアが郵政に飛び火 自民部会で批判噴出 (共同通信) - goo ニュース


上のニュースは、郵政民営化により、郵便局にある市民の貯蓄がアメリカ企業や政府の金融商品の購入に当てられ、アメリカ財政を潤す道具として使われるのではないかという懸念を政治家が述べたものです。

こういった構造は90年代を通じて一貫して維持されてきましたが、日本最大の貯蓄額を誇る郵便局にも手がつけられることで、ますます日本はアメリカの奴隷となるのではないかという危機感を政治家が表しました。

日本人の貯蓄や税金がアメリカ財政赤字を補填する仕組みはアメリカによって作り上げられましたが、その過程で日本は円高とバブル崩壊を余儀なくされ(もちろん日本側の責任もありますが)、多くの人が経済的な不安をいまだに抱いたまま生活をしています。

これほどにまで人々の生活を左右する「金融」が一部の金融業界人によって動かされていることを考えると、怖くなります(ちなみに、ウォール街で働く人々のクリスマス時の平均ボーナスは1000万円だと昨年NHKが報じていました)。


その国際金融について少しずつでも知っていこうと思っていて、『マッド・マネー―世紀末のカジノ資本主義』という1997年に書かれた本を読みました。

7年も前に書かれた本です。この変化の激しい時代に7年も前の本を読むのはノンビリしていると思う人もいるかもしれません。

ただ、国際金融という分野に限れば、ある国の投資機関が別の国の金融市場でマネー・ゲームを行なうことが顕著になったのが、つまり世界各国で金融規制が緩む傾向が顕著になったのが90年代以降であるという事実を勘案すれば、現代を視る上で97年の本はそれほど時代遅れではないと言えるように思います。


この『マッド・マネー』の著者スーザン・ストレンジさんが指摘しているのは、金融機関という私企業が世界的に金融市場の株価操作等で利益を上げながら、自分たちが乗り込んだ国の人々の生活がメチャクチャにされていく仕組みです。

例えば、「外国」の投資機関がある国の金融商品を買うことに規制がない場合の悲劇として、ストレンジさんは、慢性的な債務国のメキシコや、本格的な経済開発への道を歩み始めたアジアなど、経済的に発展途上の国の例を挙げています。

メキシコは大きな債務危機を82年と95年に経験していますが、その被害は95年のほうが遥かに大きく、それには95年の危機では海外からの資金流入と流出が多額だったことが決定的でした。

82年の危機の場合、海外(主にアメリカ)の銀行はその判断ミスから大きすぎる貸し出しを行い、メキシコは利子さえ支払えない状況に追い込まれました(それには、メキシコの腐敗した政治家による借り入れたお金の不正蓄財も関係していました)。結局そこでのアメリカの銀行の損失は、アメリカ政府・世界銀行・IMF・日本輸出入銀行の資金提供により補填されました。

アメリカの金融機関はたしかにこの事件を教訓としましたが、それは経済発展途上国を債務危機に追いんではいけないと学んだのではなく、経済発展途上国が求める資金の貸付には自分が応じるのではなく、自分が仲介をして投資家のお金をそこに注ぎ込んで、そこから利益を得るほうがトクだということを学んだのでした。

90年代には、メキシコ政権は以前の危機に懲りず、300億ドルもの国債を発行していました。これは明らかにメキシコ政府の無責任な決定でした。しかしこれにより、海外の投資家にとっては、当時のアメリカとメキシコの金利差から、ニューヨークで5-6%の金利でお金を借り、それを12-14%の金利でメキシコに投資することが可能な状況ができました。

海外への投資が活発になっていた90年代では、この状況により巨額のお金がメキシコに流れ込みます。英米の金融機関は顧客たちにメキシコへの投資を促し、メキシコの証券市場では90年から93年に910億ドルが海外から入り込んできました。「そのうちの3分の2が証券投資であり、その大半はメキシコの株式市場に投資され、株価高騰に火をつけた。市場は、その3年間にドル換算で436%もの高騰をみせたのである」(183頁)。

またアメリカFRB(連邦準備制度理事会)が、当時のアメリカ経済の活況によるインフレを怖れて金利を引き上げたため、金利差と自国通貨の信認を維持するため、メキシコはさらなる金利引き上げとペソ買いを行い、無意味に市場を加熱させていました。

バブルが実体のない価格高騰である以上、それに市場が気づいた時点で下落は(容赦なく)始まります。「崩壊は、いざやって来ると82年のそれよりも急激であった。94年12月19日、セディージョ大統領はテソボソス(メキシコ国債)〔償還時〕の保証ドル・レートを引き上げたが、22日には為替相場の維持を諦めてペソを下落するにまかせた。その間たったの3日であった。メキシコは、その対外資産と対外債務の差額およそ550億ドルの不足に直面した」(185頁)。このメキシコの債務の90%は、メキシコ国債の保有者、海外のファンド・マネージャー、ノン・バンクを含む非公的部門の投資家からの借り入れでした。

このあとアメリカは、メキシコの金融市場を回復させるため、他国政府・IMF・世界銀行・アジア開発銀行に対し救済資金としての公的資金の提供を促します。
しかしこの資金提供は、メキシコ国民を救済するためのものではなく、アメリカや海外の投資機関・投資家がお金を注いだ金融市場の回復のためのものでした。このあたりの事情について、ストレンジさんは、科学的な分析という枠組みを離れて、1頁を割いて次のように叙述しています。それは、国境を越えて投資ゲームが行なわれた場合の一つの帰結を表しています。

「アメリカ世論はもちろんメキシコの「回復」を喜んだが、喜んだのは金融市場の信頼回復につながる回復だけだった。回復とは、メキシコにおける1997年の生活が、94年と同じに回復することを意味しなかった。メキシコの人々にとって、95年の危機がもたらした帰結は、前回の危機より一層ひどいものだった。小規模の銀行や中小企業は相当な打撃を受け、およそ8000もの企業が営業を停止した。

もっとも手ひどい影響を被ったのは、貧しい人々であった。公式統計によれば、実質賃金は25-30%の低下を見ている。北部の裕福な町モンテレーにある小教区の司祭の一人は私に、貧しい教区民たちの世帯所得は半減したと語った。この数字が意味する現実とは、食べるでは物では肉がなく、豆とトルティージャ(主食のとうもろこし粉を薄く焼いたパン)だけということであり、着るものでは新しい服や靴がなく、子どもには仕立て直しかお古だけということである。仕事に行くためのバス代でさえ、友人や親戚から借りなければならなかった。もっと裕福な人々も、ドル建てで資金を借りていた場合には、担保にしていた自宅や自動車を失うはめになった」(187頁)。

このような悲惨な状況に陥った原因には、際限なき借り入れを行ったメキシコ政府の責任もありますが、利益を見つけた海外投資機関・投資家の行動がどれだけ実態のないバブルを他国で演出し、その国の市井の人々の生活を根底から脅かすかということも無視できません。


ストレンジさんは、このように90年代に起こったメキシコまたはアジアで起こった金融危機が、その近隣国に伝染した場合としなかった場合を取り上げ、金融危機が生じる原因をより深く特定しようとします。

最大の原因は、メキシコの事例で指摘したように、当該国への外資の急激な流入です。ストレンジさんが参照したある研究によれば、金融市場で動く投資家・機関は次のような「錯覚」をもつそうです。

一つは、ある経済発展途上国の通貨が「強い」場合、それは経済を自由化したためだと思われがちだけど、実際は高い収益率を求める資本流入が地価や株価を押し上げていること。そのため、バブルの崩壊とそれによる通貨の下落も避けられないことになります。

もう一つは、経済発展途上国の通貨が過大評価されがちであること。この過大評価があると、外資の流入が一時的に増えても、その実質的な価値が明らかになるや売り圧力が強くなります。

いずれにしても、外資を呼び込む条件自体は当該国で作られる場合もありますが、流入する外資があまりにも急激なため、つまり金利差や株価格の差などから利益を得ようとする者が世界中にあまりにも多いため、彼らが突然方向転換し、その国の通貨や株価への売りを加速させると、現地の経済は壊滅的な打撃をこうむります。

こうしてメキシコやアジアで金融危機が起きましたが、その金融危機は、ある場所へは伝染し、またある場所には伝染しませんでした。

まず、メキシコと近接するブラジルには、その危機は伝染しませんでした。ブラジルでは、コーヒーおよび砂糖輸出業者、製造業者の影響力が強く、その輸出を支えるために資本移動を規制して自国通貨を切り下げるのが常態でした。

また同じく金融危機を免れた台湾は、これもブラジルと同様に資本の流入を規制していました。

これに対して金融業界の圧力が強い国ほど(メキシコ)、資本移動を自由化して外資を呼び込む傾向が強く見られます。

これらの傾向から、研究者マクスフィールドさんは、資本〔移動〕を規制する非正統的政策(つまり、反ネオリベラル)の方が、急速に国際化しつつある世界で新たな工業化をはかろうとする諸国にとって、社会厚生面の便益は費用を上回りうる、と述べているそうです(192頁)。

このことは、これからの時代においては、金融商品を扱う業界が経済規制を担当する政治家に影響力を及ぼすことになってしまった場合、資本移動の自由化を促すため、その国は容易に海外の投資家・機関の餌食になってしまうということを意味しています。


では、なぜこのような「外資」が世界の金融市場を荒らすようになったのでしょうか。ストレンジさんはその条件として技術革新(コンピュータ、半導体、衛星)とデリバティヴ商品の発展を上げています。

コンピュータなどの技術発展が金融に与えた影響については、想像できるし、でも細かいところは現場の人にしかわからない、という印象もあります。ストレンジさんもそれほど詳述しているわけではありません。ただ、ストレンジさんが強調するのは、こうした技術発展によって金融業界にいる者は外部の人間が知らなかった取引方法を生み出していくのに対し、規制を行なう当局はかなり遅れて事後的に認可するかどうかを決めることになるということです。この書の題名のように、狂ったようにお金が飛び交うにもかかわらず、その実態を当局が把握することは技術発展によりますます困難になっていきます。

デリバティブについては、まさに今金融商品の花形として出ています。ストレンジさんはデリバティブが登場した原因を次のうちに見ています。

まず、デリバティブ取引とは、株式・商品・外国為替などの取引において、売買後の市場変動から来る損失に備えて、現在合意した価格で将来時点での購入・販売を取り決めることを言います。

ストレンジさんによれば、この種の取引が増大したのは70年代でした。ヴェトナム戦争、ニクソンによるドル切り下げ、変動相場制への移行にともなうアメリカでのインフレによって、価格と為替相場が不安定になったからです。

また、規制の網の目をかいくぐろうとする民間業者の知恵がデリバティブを促進しました。70年代に欧米の国々で自国民の外貨による借り入れが制限されたとき、それぞれが違う通貨建ての債務を交換するスワップ取引が増大しました。

また70年代以降の国際貿易の発展により、多くの企業は外貨にアクセスする機会が増えましたが、それと同時に外国為替相場・利子率・商品価格の変化による損失を防ぐため、あらかじめその損失を防ぐような価格で取引をするデリバティブが好まれ始めました。

もっとも、正直に言えば、このように説明したからといって、「デリバティブ」というものの本質、つまり「ハゲタカ」とまで言われるその商品の本質には到底わたしの想像力は及びません。ただ、ストレンジさんの次のさらなる説明は、その手がかりを私たちに与えてくれるかもしれません。

「リスクがつきまとう一方で、銀行にはデリバティブ取引サービスの提供だけでなく、自己勘定での取引という大きな利潤機会も生まれた。要するに、顧客のためにしか「注文」できないという規則は存在しなかったのである。市場がはっきりと上昇、下降のいずれか一方向に動いているとき、銀行やヘッジ・ファンドは、反対取引を増加させることによって自らの責任を顧客の側に転嫁することができた。また小さなコストとリスクで、成功すれば莫大な純収益を期待できるポジションを自己勘定でとることができた」(56頁)。

要するに、市場の動向が一方向の金融商品に傾き、そこから顧客が得られる利潤が少ない場合に、反対の取引を自ら行なうことで銀行自身だけが利益をあげ、彼らにそそのかされた顧客が損を見る機会が生まれたということだと思います。


この著書『マッド・マネー』は、投機目的の商売が銀行とのノン・バンクの垣根をなくすアメリカ発の傾向が世界中を覆っている現代の状況の問題点を包括的に指摘しようとします。上記の問題のほかにも、

・ 各国政府の税収入に打撃を与えるタックス・ヘイブン(租税免除地)が世界中にあるおかげで、多国籍企業はその地の銀行を利用することが状態となっていること。またその状態を各国政府を放置していること。

・ BIS(国際決済銀行)やIMF(国際通貨基金)などの超国家的金融組織は、各国の金融機関が国境を越えて利益を上げている状況に対して規制を発動させる権威を持っていないため、外資の移動による各地での経済的打撃を防ぐ手立てを打てないこと。

・ 「外資」は、環境問題と同じく、流入したその地域に打撃を及ぼす国境を越えた問題であるにもかかわらず、各国の思惑は一致しないため、共同歩調を取って金融を規制する可能性は極めて低いこと。

・ IMFなどが経済的打撃のあった地域にお金を捻出するにしても、それは主に金融システムの維持を目的としていること(「官僚はつねに、市民の生活よりも、システムの安定を最優先する」)。

などなど、様々な問題を指摘しています。ただ、この本はゲンダイ世界経済の金融がもつ問題を少ない頁数で包括的に論じようとしたため、掘り下げが浅くは感じられました。


今回のフジテレビの買収で堀江さんは、「外資はすでに多くの日本企業の株をもっている」と述べて、リーマン・ブラザーズ証券の株取得が取るに足りないことを強調していました。さらに堀江さんは、「彼らは株をいずれ売るのだから、放送局には関心がない」ことも力説しました。

証券会社が特定の放送局に関心が無いことは容易に理解できます。問題は、堀江さんが言うように、「外資」は買った株を売ることしか考えていないことにあります。

株式投資は、理想としては、自分が有望だと思う会社を育ててその見返りをもとめることです。現実がそうでないことは想像できるし、その理想を表立って言っても聞く人はいないでしょう。

しかし同時に、その理想から離れすぎて、諸企業の実質的な価値を大幅に上回るor下回る売買が行なわれたときに深刻な経済破綻を招き、多くの死者を出すことは、つい最近日本人が経験したことだし、20世紀の人類史が痛い思いをして知っていることです。

「外資」が問題なのは、それが外国からの投資だからというより、経済の実質的な価値を考慮した投資、あるいはその地の経済を活性化させるための投資などは一切考えず、ただ利ざやを求めることにあります。彼らが「ハゲタカ」と言われる所以です。


こうした金融業の行動が世界中で、またわたし(たち)の生活にどれだけ大きな影響を与えているのか、少しずつでも理解を深めていきたいと思います。


涼風