「カルマというのは、昔、自分が行った行為のつけを支払うということではありません。あなたのバイブレーションがあがるにつれて、過去では避けてきた種類の体験に出会うようになったり、今、あなたが表面意識で欲していることとは違うことにぶつかるようになる、ということだけなのです」(タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』より)
カッターで人の顔を切りつけることはなんでもない。それはとても楽しい。こころの中でいつもそれをしている。
それは一日で治るものでもない。他の人もそうだろう。誰でもスキあらば切りつけてくる。
ならば、カッターをもつ人を上手に避けながら、安心できる人を選び、生活すればいいのではないだろうか。
ただ、それでもいつ誰が切りつけてくるかわからない。それを予測することは不可能だ。予測できる範囲は、私たちが現実を受け入れた範囲に左右される。したがって、その受け入れていない余地からカッターはやってくる。
そのときは、あきらめて切り付けられよう。
しかしその傷は、わたしたちが受容できる現実の範囲を広げてくれる。傷を受けることで、私たちは自分の知らない現実を見ることができるようになるのだ。
予測できる障害を避けることは、私たちが学んだ経験を尊重することだ。
予測できない障害で傷つくことは、これから私たちが予測できるようになる範囲を広げるためのレッスンだ。
見える障害は避けなければならない。見えない障害は受け入れなければいけない。
涼風
タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』
カッターで人の顔を切りつけることはなんでもない。それはとても楽しい。こころの中でいつもそれをしている。
それは一日で治るものでもない。他の人もそうだろう。誰でもスキあらば切りつけてくる。
ならば、カッターをもつ人を上手に避けながら、安心できる人を選び、生活すればいいのではないだろうか。
ただ、それでもいつ誰が切りつけてくるかわからない。それを予測することは不可能だ。予測できる範囲は、私たちが現実を受け入れた範囲に左右される。したがって、その受け入れていない余地からカッターはやってくる。
そのときは、あきらめて切り付けられよう。
しかしその傷は、わたしたちが受容できる現実の範囲を広げてくれる。傷を受けることで、私たちは自分の知らない現実を見ることができるようになるのだ。
予測できる障害を避けることは、私たちが学んだ経験を尊重することだ。
予測できない障害で傷つくことは、これから私たちが予測できるようになる範囲を広げるためのレッスンだ。
見える障害は避けなければならない。見えない障害は受け入れなければいけない。
涼風
タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』