今日、神戸三ノ宮の山側を歩いていると、NHK神戸の近くを通りました。その建物の一階は、展示スペースみたいになっていて、どうやら自由に人が入れそうだということは前から気づいていました。そこで、小降りの雨が降っているときに赤信号だったので、私はなんとなくその建物に入ろうと思いました。
そこでは義経展をやっていました。でもべつに珍しいものがあるわけではなく、ドラマの人物相関図やミニシアターで撮影時のオフショットを流しているぐらいでした。
NHKの職員の人は、なんだか背筋が伸びて、顔も「企業人」という厳しさが混じっていて、なんだか異星人みたいでした。場の雰囲気が人を作ると美輪明宏さんは言っています。きれいなオフィスでいつも働いていると、それに似合った顔になるし、ボロい建物にいつもいるとそういう雰囲気の人になる、と。美輪さんのそういう言葉はエリート主義的でぼくは嫌だけど、同時にそれはある面では正しいのかもしれない。
いずれにしても、NHKの人たちは雰囲気が「えりーとおぉぉぉ」という感じが少ししました。でも、本当はどういう人たちなのか、話してみたい。
NHK神戸の受付のお姉さんはとてもきれいでした。べつに買い物するために入ったわけじゃないのに「いらっしゃいませ」とか言われて照れてしまいました。もっとその人を見たかったと思ってしまいます。
今日は星電社にも行きました。三ノ宮には(この家電ブームの時代にもかかわらず)じつは大きな家電屋さんがなかったりします。この星電社ぐらいです。
おそらく、神戸は郊外に大きな家電屋はたくさん出店しているのだと思います。三ノ宮のような窮屈なところには、店を大きく構えられなかったのでしょう。
星電社にしても、全部で5階の建物だけど、それほど広くないし、一階はTSUTAYAもあるしで、品揃えが豊富なわけじゃありません。つまり、車がなくて郊外に出られない人にとっては、神戸は家電を買うのにあまり便利な所ではないようです。
そこで電子辞書のケースを買いました。今もっている電子辞書は一年ほど前に買ったものだけど、いつもむき出しで使ってきました。それで気にならなかったけど、なんだかむき出しで使うことで、その電子辞書を粗末に扱っているような気がした。
モノを粗末に扱っていると感じると、自分の「こころ」もなんだかすさんでくる感じがします。物を粗末に扱うことと人を軽んじる態度をとることは、じつは同じことのようにも思います。要は、相手がどう感じているか以上に、自分を傷つけています。
たとえば、ADSLのモデムを僕はじゅうたんにそのまま二年間置いてきました。それもやはりモデムを粗末に扱っていたのだと思います。毎月レンタル料を払っているのに。
だから、最近からそのモデムを同じ幅の箱に載せてみました。ついでに埃をティッシュで拭いたりもしてみました。
たったそれだけですが(なので)、すこし気分が軽くなったような気がします。
そして今日電子辞書ケースを買いました。その売り場には、「電子辞書の液晶の修理には1万円かかります!」という貼り紙がありました。ちょっと、じゃなくすごくショック。
そう、電子辞書はあくまで「電子」なのだから、「壊れる」可能性をつねにもっています。
電子辞書にしてから単語を引くのが楽になって「これで重い辞書を持ち上げるストレスから永遠に開放されたばい」と思っていたけど、今持っている辞書もいつかは「壊れる」わけですね。電化製品である限り。
すると、壊れるたびにまた買わなければならない。ショック。本の辞書なら一生使えるけど、電子辞書は一生使えないのだろうか。壊れるたびに3万円を払わないといけないのかと思うと、とてもショックです。
でも、仕方がありません。電子辞書だから便利なのだから、電子辞書のリスクも引き受けねば。「音声付きのほうがよかったかなぁ」とか思ったこともあるけど、そんなことを言わずにこれからも大事に使って行きたいと思います。
涼風
reference:
美輪明宏著『人生ノート』
トマス・ムーア著『失われた心 生かされる心』第11章「モノと共存して生きていけるか」
そこでは義経展をやっていました。でもべつに珍しいものがあるわけではなく、ドラマの人物相関図やミニシアターで撮影時のオフショットを流しているぐらいでした。
NHKの職員の人は、なんだか背筋が伸びて、顔も「企業人」という厳しさが混じっていて、なんだか異星人みたいでした。場の雰囲気が人を作ると美輪明宏さんは言っています。きれいなオフィスでいつも働いていると、それに似合った顔になるし、ボロい建物にいつもいるとそういう雰囲気の人になる、と。美輪さんのそういう言葉はエリート主義的でぼくは嫌だけど、同時にそれはある面では正しいのかもしれない。
いずれにしても、NHKの人たちは雰囲気が「えりーとおぉぉぉ」という感じが少ししました。でも、本当はどういう人たちなのか、話してみたい。
NHK神戸の受付のお姉さんはとてもきれいでした。べつに買い物するために入ったわけじゃないのに「いらっしゃいませ」とか言われて照れてしまいました。もっとその人を見たかったと思ってしまいます。
今日は星電社にも行きました。三ノ宮には(この家電ブームの時代にもかかわらず)じつは大きな家電屋さんがなかったりします。この星電社ぐらいです。
おそらく、神戸は郊外に大きな家電屋はたくさん出店しているのだと思います。三ノ宮のような窮屈なところには、店を大きく構えられなかったのでしょう。
星電社にしても、全部で5階の建物だけど、それほど広くないし、一階はTSUTAYAもあるしで、品揃えが豊富なわけじゃありません。つまり、車がなくて郊外に出られない人にとっては、神戸は家電を買うのにあまり便利な所ではないようです。
そこで電子辞書のケースを買いました。今もっている電子辞書は一年ほど前に買ったものだけど、いつもむき出しで使ってきました。それで気にならなかったけど、なんだかむき出しで使うことで、その電子辞書を粗末に扱っているような気がした。
モノを粗末に扱っていると感じると、自分の「こころ」もなんだかすさんでくる感じがします。物を粗末に扱うことと人を軽んじる態度をとることは、じつは同じことのようにも思います。要は、相手がどう感じているか以上に、自分を傷つけています。
たとえば、ADSLのモデムを僕はじゅうたんにそのまま二年間置いてきました。それもやはりモデムを粗末に扱っていたのだと思います。毎月レンタル料を払っているのに。
だから、最近からそのモデムを同じ幅の箱に載せてみました。ついでに埃をティッシュで拭いたりもしてみました。
たったそれだけですが(なので)、すこし気分が軽くなったような気がします。
そして今日電子辞書ケースを買いました。その売り場には、「電子辞書の液晶の修理には1万円かかります!」という貼り紙がありました。ちょっと、じゃなくすごくショック。
そう、電子辞書はあくまで「電子」なのだから、「壊れる」可能性をつねにもっています。
電子辞書にしてから単語を引くのが楽になって「これで重い辞書を持ち上げるストレスから永遠に開放されたばい」と思っていたけど、今持っている辞書もいつかは「壊れる」わけですね。電化製品である限り。
すると、壊れるたびにまた買わなければならない。ショック。本の辞書なら一生使えるけど、電子辞書は一生使えないのだろうか。壊れるたびに3万円を払わないといけないのかと思うと、とてもショックです。
でも、仕方がありません。電子辞書だから便利なのだから、電子辞書のリスクも引き受けねば。「音声付きのほうがよかったかなぁ」とか思ったこともあるけど、そんなことを言わずにこれからも大事に使って行きたいと思います。
涼風
reference:
美輪明宏著『人生ノート』
トマス・ムーア著『失われた心 生かされる心』第11章「モノと共存して生きていけるか」