『落下する夕方』という映画があります。1998年に公開された日本映画で、2週間ほど前に関西地方ではテレビで深夜に放送されました。
当時東京に住んでいたわたしは、この映画を銀座で2度観ました。その後ビデオ化されて、レンタルでも3度ほど見ていると思います。もっとかもしれません。
この映画を通じてわたしは江国香織のことを知り、彼女のデビュー作から『薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木』まですべて彼女の作品を読むようになりました(その後彼女の小説とは疎遠になっている。『薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木』の印象が悪すぎたみたい)。
この映画がもしレンタル店にあったら、興味があったら見てみてください。はまれば何度でも見たくなるような映画です。内容と同時に、雰囲気がとてもいい映画です。
僕にとっての理想の東京というのは、この映画の中にある風景かもしれない。この映画の場面になっているようなところにはあまり行ったことがないけれど、僕がもう一度東京に住みたいと思ったのも、この映画のような雰囲気の中で生活したかったからかもしれない。
東京が好きな人というのは、べつに新宿や渋谷や恵比寿や自由が丘や六本木や赤坂や青山や…といった有名な場所が好きなわけではないように思う。あるいは、それだけではないと思う。
むしろ、東京の透明な所が好きな人も多いと思う。何もかもが普通。何もかもが一般的。土着性がない。でも、日本にはそういう透明な場所は東京にしかない。だから東京にこだわる人が世の中にはいるのではないだろうか。
東京の都心は何気ない建物や町を歩いていても、すごい権力の匂いがするときがある。それだけに東京に住んでいるだけで何かのイヴェントに参加しているような錯覚を地方出身者に抱かせる。
でも決してそれだけではない庶民の東京みたいなものがある。その風景をすごく的確にこの映画は切り取ってくれているのだと思う。
ずいぶん即物的な関心で、文学的な哀愁のないような思い入れだけど、僕がこの映画が好きなのは、結局そういうところにあるのだと思う。
内容はどうでもいいのだ。登場人物たちが場面の中で生活し、そこにコップやテーブルがあり、町があり、空があり、人が歩いている。その風景をみるだけで満足してしまう。
ビデオにとったこの映画を観ていると、この映画をかつて見た時間が過去のものとなり、もうすでに存在しないことが不思議に思える。時間は、その存在を証明することができない。1998年に僕はたしかにこの映画をある心理状態で見たのだけど、それが本当に存在したことを誰も証明できないのだ。その事実を思うととても不思議。
誰も証明できないけど、たしかにその時間が存在していたことも事実だし、僕がそのころ東京に住んでいたことも事実だ。そして色々なことを考えたり、感じたりしていたのも事実。
もうあれから7年近くもたつのに、その事実が生生しいことが不思議。おそらく20年後も30年後も、この映画を見たら、その時間があったことに驚いて不思議になるにちがいない。
90年代後半というのは過去なのだろうか?過去なのだけど、僕にとっては過去とは違うし、20年後も30年後も過去ではないような気がする。
それは僕の年齢のせいかもしれないし、時代が実は90年代後半と今では大きくは変わっていないのかもしれない。インターネットも携帯もあったし、当時も今も経済状況はよくない。90年代後半と90年代前半はまったく時代が違うかもしれない。しかし90年代後半と2000年代はそれほど大きく違わないのかもしれない。
涼風
当時東京に住んでいたわたしは、この映画を銀座で2度観ました。その後ビデオ化されて、レンタルでも3度ほど見ていると思います。もっとかもしれません。
この映画を通じてわたしは江国香織のことを知り、彼女のデビュー作から『薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木』まですべて彼女の作品を読むようになりました(その後彼女の小説とは疎遠になっている。『薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木』の印象が悪すぎたみたい)。
この映画がもしレンタル店にあったら、興味があったら見てみてください。はまれば何度でも見たくなるような映画です。内容と同時に、雰囲気がとてもいい映画です。
僕にとっての理想の東京というのは、この映画の中にある風景かもしれない。この映画の場面になっているようなところにはあまり行ったことがないけれど、僕がもう一度東京に住みたいと思ったのも、この映画のような雰囲気の中で生活したかったからかもしれない。
東京が好きな人というのは、べつに新宿や渋谷や恵比寿や自由が丘や六本木や赤坂や青山や…といった有名な場所が好きなわけではないように思う。あるいは、それだけではないと思う。
むしろ、東京の透明な所が好きな人も多いと思う。何もかもが普通。何もかもが一般的。土着性がない。でも、日本にはそういう透明な場所は東京にしかない。だから東京にこだわる人が世の中にはいるのではないだろうか。
東京の都心は何気ない建物や町を歩いていても、すごい権力の匂いがするときがある。それだけに東京に住んでいるだけで何かのイヴェントに参加しているような錯覚を地方出身者に抱かせる。
でも決してそれだけではない庶民の東京みたいなものがある。その風景をすごく的確にこの映画は切り取ってくれているのだと思う。
ずいぶん即物的な関心で、文学的な哀愁のないような思い入れだけど、僕がこの映画が好きなのは、結局そういうところにあるのだと思う。
内容はどうでもいいのだ。登場人物たちが場面の中で生活し、そこにコップやテーブルがあり、町があり、空があり、人が歩いている。その風景をみるだけで満足してしまう。
ビデオにとったこの映画を観ていると、この映画をかつて見た時間が過去のものとなり、もうすでに存在しないことが不思議に思える。時間は、その存在を証明することができない。1998年に僕はたしかにこの映画をある心理状態で見たのだけど、それが本当に存在したことを誰も証明できないのだ。その事実を思うととても不思議。
誰も証明できないけど、たしかにその時間が存在していたことも事実だし、僕がそのころ東京に住んでいたことも事実だ。そして色々なことを考えたり、感じたりしていたのも事実。
もうあれから7年近くもたつのに、その事実が生生しいことが不思議。おそらく20年後も30年後も、この映画を見たら、その時間があったことに驚いて不思議になるにちがいない。
90年代後半というのは過去なのだろうか?過去なのだけど、僕にとっては過去とは違うし、20年後も30年後も過去ではないような気がする。
それは僕の年齢のせいかもしれないし、時代が実は90年代後半と今では大きくは変わっていないのかもしれない。インターネットも携帯もあったし、当時も今も経済状況はよくない。90年代後半と90年代前半はまったく時代が違うかもしれない。しかし90年代後半と2000年代はそれほど大きく違わないのかもしれない。
涼風