joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

Das Glueck haengt sich von ...

2005年03月16日 | reflexion
「『観念』によって、私達が何を見るか、どんなふるまいをするかが決まります。世界をどう見るか、見方を決めているのが『観念』です」

「この世は『観念』の世界であり、私達は成長してより高次の観念を持ちます。やがて『観念』や想念などをすべて超越し、地上にいながら天国にいるような体験をするようになるのです」

『Dr.チャック・スペザーノのセルフ・セラピー・カード』より)


私たちは自分たちの不幸の原因を見つけることが得意です。精神分析を編み出しては、幼児期の体験や親の教育を現在の不幸の原因にしたり、社会科学を生み出しては、経済状況や日常の人々の意識のあり方に潜む権力が自分を不幸にしていると思い込むことができます。

しかし、「不幸」とは自分が他人を攻撃することではじめて成り立つ状態です。たとえどんな状況にいようとも、他人を攻撃しない人は「不幸」になることができません。

現実はわたしたちに色々な条件を課してきます。しかし、条件とは一つの事実にすぎません。その条件によって不幸になるかどうかは、わたしたち自身が選ぶことができます。

親の養育によって不幸になったと嘆く人がいるとします。しかし、親の養育が人を不幸にするかどうかは、誰も科学的には証明できません。ただ、そう解釈することで心の治癒が起こっているという事実があるだけです。

親の養育によって不幸になったと嘆くということは、現在その人は不幸な状況にいるということです。つまり、本当はその人は自分が不幸でいることを嘆いているのであり、その嘆きを正当化するために、親を攻撃しているのです。

親が彼(彼女)を不幸にしたのかどうかは誰にも分かりません。しかし、彼が自分の状況を呪い親を攻撃することで、彼が不幸になっているのは分かります。

「不幸」とは状況が作り出せるものではありません。「不幸」とは状況に対するその人の対応が作り出すものです。

最近わたしは思います。かつての社会主義国は本当に不幸な国だったのだろうか?と。

彼らは自由がなかったのでしょうか?しかし、資本主義国に自由はあったのでしょうか?会社に縛られた人たちにどれだけの自由があったのでしょうか?もちろん自由はあったでしょうが、それなら社会主義国の人たちにも同じぐらいの自由があったと考えてはいけない理由はないように思います。また、レールを外れることに怯える現在の私たちに自由があるでしょうか?将来どうなるか分からないという不安に怯えながら、お金のストレスをもち、しかし何とか生活しているというみんなにとって、それがどれほどの「自由」を与えていると言えるのでしょうか。

社会主義にもどるべきと言いたいのではありません。また社会主義のほうがいいと言いたいのでもありません。

ただ、外的条件が人を不幸にしたり幸福にするのであれば、一部の上層を除けば、資本主義も社会主義も人類にとっては同じに思えるのです。

逆に考えて見ましょう。私達が幸せだと感じるときはどんなときでしょう?もしそれが、他人に対する信頼や、自然の恵み、世界の穏やかさをかんじることであるのなら、資本主義と社会主義にそれほどの違いはあったでしょうか。

北朝鮮の人々が過酷な状況にあることは想像できます。しかし、日本にも、また世界のどの国にも、食べるものも仕事も家もない人は少なからずいるのが現在の世界です。彼らはどこにも逃げることができません。

どこにいても人間は幸福になれるし、また不幸にもなれる、と言い切ることは勇気が要ります。『ライフ・イズ・ビューティフル』は破廉恥な映画ではないかという批判もドイツではあったそうです。あまりにも能天気ではないか、そう批判することもできます。

一気に「どこにいても人間は幸福になれるし」と完全に思い切る必要はないですが、人がその人しだいで幸せになれるその範囲を少しずつ拡げてもいいのではないかと思います。


涼風



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