わたしは、しばらく前から、英語の音読を毎日しています。教材は登内和夫さんの『超右脳つぶやき英語トレーニング』(総合法令出版)などです。
この教材は、テキストを見ながらCDに吹き込まれているネイティヴの朗読を聴いて一緒に音読していきます。CDには、普通の速さと2倍、3倍の速度が入っています。
でも最初は、正直言って2倍でもついていけないし、3倍なんてもってのほか、でした。やはり英語ですからね。それで、Windows Media Playerの速度調節を使って、1.3倍とかで音読していました。
ただ、TOEICを受けようと思うようになって、もっと真剣にやるようになってからは、その速度を少し速めるようにしました。
それで最近は3倍近くまで上げて音読しようとしているのですが、そこまでになると、やはり速くてついていけません。テキストを目で追うのも満足に行かず、まともに口で発音することはできません。
その音読を今日もやっていました。やはりCDの速さについていけず、ろくに音読もできません。ただ始めてから数分後に、「自分はこのCDの速さについていくのが怖いのかもしれない」と思ってみました。もしこの速さに自由についていってしまったら、自分は英語をぺらぺらになってしまうのかもしれない。頭の中は英語で考えるようになり、自分の中にまったくべつの英語圏の人格ができてしまうのかもしれない。もしそうなったら、どうなってしまうだろう。自分が自分じゃなくなってしまう。そんな怖れがあるのかもしれない、と思いました(もちろん、音読の最中はここまではっきりと言語化していませんが)。
ただ、「自分はCDの速さについていけないのではなくて、ついていくのが怖いのかも」と思ってからは、(比較的)口の動きがCDに合わせられるような感覚になったのです。
もちろん、とても速い速度なので、満足な朗読はまだできません。でも、なにかそれまでとはちがって、自分の口が早く動くような感覚になったのです。これはとても面白い体験でした。
ある人が外国語を話せるかどうかは、もちろんその人のそれまでの努力にかかっています。しかし、ひょっとしたら、本当は話せる実力があるにもかかわらず、「外国語が話せるようになるのが怖い」と心の奥で思ってしまうことは多いんじゃないか、と思いました。そういう人は、じつはとても多いのかも、と。
外国語をぺらぺら話せるようになるというのは、それまでの「外国語ができない自分」というセルフ・イメージを手放すことです。これは、外国語コンプレックスをもった多くの日本人にとって、じつはとても怖いことなのかもしれない。
だって、外国語ができないほうがいいじゃないですか。「あまり話せない。わたしはだめだ」と思い、「ダメな自分」でいたほうが、自分の羽根を広げてぱっと人前に立つよりラクなのですから。
わたしが愛読している心理学者チャック・スペザーノさんは、ひとはじつは幸せになることを怖れている、とよく言います。
「人々が持つ一般的な怖れというのは、“もしも自分たちが本当に幸せだとしたら、自分たちはコントロールを失ってしまうだろう”というものです」(『30日間でどんな人でもあなたの味方にする法』ヴォイス)
これは、逆説的な言葉だし、理解するのが難しい言葉ですよね。だって、幸せになりたいと自分は思っているはず、とわたしたちは思っているのですから。わたしも、この言葉の言っていることは難しいと思ってきましたし、今でもちゃんと分かっているのか分かりません。
ただ、この「幸せ」というのを、例えば、大きく羽を広げること、みんなを引っ張っていくこと、人前で自身あふれた姿をみせること、大きな事業を起こすこと、不可能に思えることでもチャレンジして実際に行動すること、例えばそういうように解釈してみると、比較的分かるような気もします。そんなすばらしい人になってしまったら、わたしたちはどんどんと前に出て、実際に動くことが求められます。そんなの、しんどいし、怖いし、イヤですよね。
外国語がぺらぺらになっちゃったらどうなるのでしょう。他の国の人の言葉が完全に分かっちゃったら、どうなるのでしょう。もうボソボソと、ゆっくりとはしゃべっていられず、頭を早く回転させなければなりません。片言でしゃべっている間は、そのスピードを自分でコントロールできますが、ネイティヴのようになってしまったら、自分で気づかぬうちに頭が回転し、言葉が出てきてしまう。自分なのに、自分でなくなってしまう。自分なのに、自分ではない何かが勝手に反応してしまっている。
外国語学習では、じつはそのことを多くの人がおそれているのかもしれない、そんなことをふと想いました。
この教材は、テキストを見ながらCDに吹き込まれているネイティヴの朗読を聴いて一緒に音読していきます。CDには、普通の速さと2倍、3倍の速度が入っています。
でも最初は、正直言って2倍でもついていけないし、3倍なんてもってのほか、でした。やはり英語ですからね。それで、Windows Media Playerの速度調節を使って、1.3倍とかで音読していました。
ただ、TOEICを受けようと思うようになって、もっと真剣にやるようになってからは、その速度を少し速めるようにしました。
それで最近は3倍近くまで上げて音読しようとしているのですが、そこまでになると、やはり速くてついていけません。テキストを目で追うのも満足に行かず、まともに口で発音することはできません。
その音読を今日もやっていました。やはりCDの速さについていけず、ろくに音読もできません。ただ始めてから数分後に、「自分はこのCDの速さについていくのが怖いのかもしれない」と思ってみました。もしこの速さに自由についていってしまったら、自分は英語をぺらぺらになってしまうのかもしれない。頭の中は英語で考えるようになり、自分の中にまったくべつの英語圏の人格ができてしまうのかもしれない。もしそうなったら、どうなってしまうだろう。自分が自分じゃなくなってしまう。そんな怖れがあるのかもしれない、と思いました(もちろん、音読の最中はここまではっきりと言語化していませんが)。
ただ、「自分はCDの速さについていけないのではなくて、ついていくのが怖いのかも」と思ってからは、(比較的)口の動きがCDに合わせられるような感覚になったのです。
もちろん、とても速い速度なので、満足な朗読はまだできません。でも、なにかそれまでとはちがって、自分の口が早く動くような感覚になったのです。これはとても面白い体験でした。
ある人が外国語を話せるかどうかは、もちろんその人のそれまでの努力にかかっています。しかし、ひょっとしたら、本当は話せる実力があるにもかかわらず、「外国語が話せるようになるのが怖い」と心の奥で思ってしまうことは多いんじゃないか、と思いました。そういう人は、じつはとても多いのかも、と。
外国語をぺらぺら話せるようになるというのは、それまでの「外国語ができない自分」というセルフ・イメージを手放すことです。これは、外国語コンプレックスをもった多くの日本人にとって、じつはとても怖いことなのかもしれない。
だって、外国語ができないほうがいいじゃないですか。「あまり話せない。わたしはだめだ」と思い、「ダメな自分」でいたほうが、自分の羽根を広げてぱっと人前に立つよりラクなのですから。
わたしが愛読している心理学者チャック・スペザーノさんは、ひとはじつは幸せになることを怖れている、とよく言います。
「人々が持つ一般的な怖れというのは、“もしも自分たちが本当に幸せだとしたら、自分たちはコントロールを失ってしまうだろう”というものです」(『30日間でどんな人でもあなたの味方にする法』ヴォイス)
これは、逆説的な言葉だし、理解するのが難しい言葉ですよね。だって、幸せになりたいと自分は思っているはず、とわたしたちは思っているのですから。わたしも、この言葉の言っていることは難しいと思ってきましたし、今でもちゃんと分かっているのか分かりません。
ただ、この「幸せ」というのを、例えば、大きく羽を広げること、みんなを引っ張っていくこと、人前で自身あふれた姿をみせること、大きな事業を起こすこと、不可能に思えることでもチャレンジして実際に行動すること、例えばそういうように解釈してみると、比較的分かるような気もします。そんなすばらしい人になってしまったら、わたしたちはどんどんと前に出て、実際に動くことが求められます。そんなの、しんどいし、怖いし、イヤですよね。
外国語がぺらぺらになっちゃったらどうなるのでしょう。他の国の人の言葉が完全に分かっちゃったら、どうなるのでしょう。もうボソボソと、ゆっくりとはしゃべっていられず、頭を早く回転させなければなりません。片言でしゃべっている間は、そのスピードを自分でコントロールできますが、ネイティヴのようになってしまったら、自分で気づかぬうちに頭が回転し、言葉が出てきてしまう。自分なのに、自分でなくなってしまう。自分なのに、自分ではない何かが勝手に反応してしまっている。
外国語学習では、じつはそのことを多くの人がおそれているのかもしれない、そんなことをふと想いました。
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