joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

依存

2004年12月12日 | 日記
きょう、ひさしぶりに髪を散髪屋さんで切ってもらいに行きました。散髪屋さんにいるというのは、どうしてあんなに苦痛なんですかね。苦痛だけど行かなきゃならない、そんな場所のような気がします。(「苦痛」という文字は表現がきつすぎる感じもするけど・・・)

苦痛だけど行かなきゃならないという点では、散髪屋さんは病院に似ているのかも。そこに行くときは、「そこに行かなければならない “must”」という感覚にとらえられています。

そして待ち合い場所に座って、呼ばれるのを待ち、呼ばれたらイスに腰をかけ、「症状」(「ここが長いので切ってください」)を言わなくてはならない。

「症状」を言うときはとても不安です。なんだかへりくだった気もちになりながら、ちょっと弱気になって、「横は耳が出るぐらいに短く」とか言ったりします。でも、それを言うことで、自分の真意がどれだけ伝わっているのか不安になります。そもそも、自分でもどんな結果(髪型)が欲しいのかよく分かっていないのです。このあたりも、症状を説明しながら、でも自分の身体についてわかっているわけではない病院の診察時と似ている。

そして、診察されるあいだ(髪を切られる間)、じぶんはまな板の鯉になって、ひたすら時を待ちます。このときが一番苦痛です。髪を切られて頭が軽くなっていくのは気持ちいいのだけど。

途中でいろいろとお医者さん(散髪屋さん)に「ここはこのぐらいでいいですか?」と聞かれても、気分的に専門家の前でまな板の鯉になっているので、もう「いえ、ここはこうです」と強く言うことなどできません。何とか、「いや、こうです」と言って、でも思い通りにならなくても、再度「抗議」する気力は僕にはありません(笑)。

今はともかく、20歳のころなんて少しはしゃれっ気があったから、よけいにドキドキして何も言えませんでした。

そして診察(散髪)が終わると、もう患者(わたし)は何も言えません。だって、すべては終わっているのですから。覆水盆に帰らず、です。

わたしはこれから残りの人生で何回病院(散髪屋さん)に行くのだろう。自分で自分を診断する(髪を自分で切る)のはむずかしいだろうから、わたしたちは散髪屋さんなしでは生きていけない。もしお医者さん(散髪屋さん)がみんな医者(散髪屋)をやめたら、きっと世界は混乱に陥る。わたしたちはお医者さん(散髪屋さん)に依存しながら生きていくしかない。自分の身体(髪)がどうなるかを彼らにゆだねながら。

そう、わたしたちは自分で自分のことをどうすることもできない。他人に全面的に依存しながら生きていかなくてはならない。だったら、気持ちよく依存したい。時にはまな板の鯉になりながら、他人を信頼して、身も心も気持ちよく預けたい。

わたしは自分を他人に依存させたい。

そして、他人に依存してもらえる存在になりたい。


涼風



最新の画像もっと見る

post a comment