フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 先日、東京・銀座にある東劇で映画 『京都太秦物語』 (松竹、山田洋次・阿部勉監督作品)を見てきました。
               
 近頃は韓国ドラマなどのキムチ鍋みたいな刺激の強い映画・ドラマなどが喜ばれているなかで(私はそれも好きですが)、品のよい家庭的な日本料理のような映画でした。
 以下私の感想なので、 【ネタバレ】に御注意ください。
 物語の舞台は、京都太秦。商店街のクリーニング店の長女で大学図書館に勤める京子は、豆腐店の長男・康太とつきあっている。康太はお笑い芸人を目指してオーデションを受け続けるがまったく芽がでない。
 そんな中で、京都の大学に文字学の研究のために訪れている客員研究員の榎と知り合い、榎から求愛される。榎は北京に2年間留学するので、京子に一緒に来てほしいと頼む……というのが物語の設定です。
 榎の京子に対する求愛はまさに強引というか唐突なものですし、そんな榎と一緒に行こうか京子が迷うのは、いささか不思議な感じもします。ただ、90分という短い時間で描いている世界なので、登場人物はリアルに描かれるというよりも、象徴的というか寓意的な描き方がされているのかとも感じました。
 たしかに京子が榎にひかれるのは唐突にも見えるけど、京子の妹は京子の中に「太秦を出る気持ち」が普段からあったことを感じ取っているようです。「私はお姉ちゃんがこの古臭い街のおかみさんになって一生終えるなんて思ってへんよ」という妹・智恵のセリフもあります。太秦に生まれ育ってしっかり根をはっているように見える京子にもそれに満たされない思いがあることが暗に示されています。
 そこで秀逸なのは、この映画では太秦という地域が『ALWAYS 三丁目の夕日』のように「古き良き時代」のユートピアみたいに描かれていないことだと思いました。この映画には太秦の良さと同時に、そのさびれ方や若い世代が感じる物足りなさもしっかり描かれている。そういう世代を象徴する京子が「内側」の人間・康太と「外側」の人間・榎の間で葛藤し、結果としてそれでもやはり「内側」の人間として生きていく決意をするという姿が描かれるのだと感じました。
               
 『京都太秦物語』の東京での公開は終了しましたが、この後11月6日から、宮城県・仙台で上映されます



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« パリのなつか... 中央大学横浜... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。