だれか俺に、本を読む時間をくれないか。とかなんとか言いながら、飲みにいったり、固形スープが手持ちのコップの容量でつくれるかどうかを確かめるために円錐台の容積の出し方について考えだしたらやめられなくなったり、クレジット・デフォルト・スワップがCDOなんかに組み込まれて爆弾に変容していくさまは、まるでE=mc2が、その発見者ですら可能性しか示唆できなかったモンスターをつくりあげていくのに似ているのかななんて思いをめぐらせてみたり、人の親になんでそんなに上から目線になれんだ?おんなじレベルで物をいうな、と気分を害してみたり、どうも合理的・論理的には答えの出なさそうな私的な問題にもんもんとしてみたり、スポーツ新聞のメーク・レジェンド号を熟読してみたり、ここ数日みかけなくなった『ユリイカ』の中上健次特集号を探すために部屋中をひっくり返したり(結局、なんかよくわからない隙間にぴったりとフィットして隠れていた)、1日に2回も3回もうたた寝とかしてるんだよな、くそっ。
堀江敏幸の『ゼラニウム』は、「水」と「女」に、映画や小説の話をからませたいわば三題話の短編集。堀江を読み出したのは『河岸忘日抄』以降なので、気づいたときに過去の「小説」をこつこつ読み集めている。結果的に残すところ『おぱらばん』ぐらいになっているはずなのだけれど、堀江の場合は、小説と随筆のあわいがあいまいなところがあり、実際のところ何がまだ読んでいない小説なのかどうかは正確にはよくわからない。よくわからないのなら区分なんて意識せずに読めばいいんだけれど、やはり「小説」のほうには「小説」にしかない魅力があり、それが堀江を読むモチベーションになっている。それは、さりげない日常に差し込まれる、本来的にはまったくありえるはずのない虚構をありえるように感じさせてしまうトリックであり、それを可能にしている静謐な文体の技であり、あれこれ優先順位を考えるとまず小説を抑えておきたいという気持ちになる。
そんなことを思っているうちに、講談社文庫で『子午線を求めて』が発刊されて、これはずっと随筆だろうと思っていて実際に新刊の分類では「今月のエッセイ&ノンフィクション」にカテゴライズされているんだけれども、これもまたあいまいな散文である。初めて知ったのだけれど、このことは実際に堀江も意識していて、「跋」と「文庫本のためのあとがき」で明瞭に宣言されている。
<「自作に関しては可能なかぎり分類を曖昧にしておきたい」という八年前の記述は、現在も有効だ。定義が曖昧なまま「小説」と呼ばれている散文形式に接する機会も増えてきてはいるが、私自身は、いま何をしているのか、何をしようとしているのかを書きながら考え、考えながら書き続けているだけである。書くことにおいては、寄港地はありえても、目的地はない>
『ゼラニウム』もまた、日々の仕事と出来事を書き留めたエッセイのようにもみえるが、もちろん嘘に満ちた短篇集で、いずれもミステリアスな要素を含みながら、そして、いつものように小説や映画の魅力を織り込みながら、いっぽうで堀江には似つかわしくないドタバタもあったりして、じゅうぶんに楽しめる。忙しい間をぬっても一息に読めるような話ばかりだし、忙しいときにこそむしろわずかな時間をとってでも、こういった言葉の味わいに足をとめてみたり、日常のちょっとした狂いを深堀してみることの大切さを思い出したいものだと思う。
仏語通訳の腕をかわれて主人公がありついたのは、映画賞を獲りたい配給会社か企画会社のお偉いさんと審査員である批評家との、ちょっとした収賄のからむあやしげな面談の場をうまく進行させるという仕事。その映画の主役とされているデニス・ホッパーへの彼のこだわりとか、面会の場にいたフィリピン人の女性料理人とのわずかなふれあいが、夢想のように語られる『アメリカの晩餐』。
東京でたまさかもっていったフランスの出版社のふくろうのロゴ入りのショッピングバッグを見とめられたことをきっかけとするフランス人の社会人留学生と顛末を描く『梟の館』。納豆巻きの買い物への同行ののち向かった先は、短期滞在の外国人のための安ホテルとして提供されているアパート。その後、とりたててセクシャルな関係がうまれることもなく、謎のまま音沙汰のなくなった彼女をたずねた「梟の館」でみたものは…。といったショッキングな展開はいっさい企図されず、彼女なきアパートで残された女性たちのどのちゃん騒ぎになぜか巻き込まれてしまう。
そんなふうな、まあどうでもいいような話がいくつか。ただ、いずれの短篇にも少しづつ日常生活との狂いというか揺らぎのようなものがあって、そういった状況をおっさんの妄想ととらえる向きもあるだろうが、こういった妄想にとらわれながら眠りにおちるのも悪くはない。
堀江敏幸の『ゼラニウム』は、「水」と「女」に、映画や小説の話をからませたいわば三題話の短編集。堀江を読み出したのは『河岸忘日抄』以降なので、気づいたときに過去の「小説」をこつこつ読み集めている。結果的に残すところ『おぱらばん』ぐらいになっているはずなのだけれど、堀江の場合は、小説と随筆のあわいがあいまいなところがあり、実際のところ何がまだ読んでいない小説なのかどうかは正確にはよくわからない。よくわからないのなら区分なんて意識せずに読めばいいんだけれど、やはり「小説」のほうには「小説」にしかない魅力があり、それが堀江を読むモチベーションになっている。それは、さりげない日常に差し込まれる、本来的にはまったくありえるはずのない虚構をありえるように感じさせてしまうトリックであり、それを可能にしている静謐な文体の技であり、あれこれ優先順位を考えるとまず小説を抑えておきたいという気持ちになる。
そんなことを思っているうちに、講談社文庫で『子午線を求めて』が発刊されて、これはずっと随筆だろうと思っていて実際に新刊の分類では「今月のエッセイ&ノンフィクション」にカテゴライズされているんだけれども、これもまたあいまいな散文である。初めて知ったのだけれど、このことは実際に堀江も意識していて、「跋」と「文庫本のためのあとがき」で明瞭に宣言されている。
<「自作に関しては可能なかぎり分類を曖昧にしておきたい」という八年前の記述は、現在も有効だ。定義が曖昧なまま「小説」と呼ばれている散文形式に接する機会も増えてきてはいるが、私自身は、いま何をしているのか、何をしようとしているのかを書きながら考え、考えながら書き続けているだけである。書くことにおいては、寄港地はありえても、目的地はない>
『ゼラニウム』もまた、日々の仕事と出来事を書き留めたエッセイのようにもみえるが、もちろん嘘に満ちた短篇集で、いずれもミステリアスな要素を含みながら、そして、いつものように小説や映画の魅力を織り込みながら、いっぽうで堀江には似つかわしくないドタバタもあったりして、じゅうぶんに楽しめる。忙しい間をぬっても一息に読めるような話ばかりだし、忙しいときにこそむしろわずかな時間をとってでも、こういった言葉の味わいに足をとめてみたり、日常のちょっとした狂いを深堀してみることの大切さを思い出したいものだと思う。
仏語通訳の腕をかわれて主人公がありついたのは、映画賞を獲りたい配給会社か企画会社のお偉いさんと審査員である批評家との、ちょっとした収賄のからむあやしげな面談の場をうまく進行させるという仕事。その映画の主役とされているデニス・ホッパーへの彼のこだわりとか、面会の場にいたフィリピン人の女性料理人とのわずかなふれあいが、夢想のように語られる『アメリカの晩餐』。
東京でたまさかもっていったフランスの出版社のふくろうのロゴ入りのショッピングバッグを見とめられたことをきっかけとするフランス人の社会人留学生と顛末を描く『梟の館』。納豆巻きの買い物への同行ののち向かった先は、短期滞在の外国人のための安ホテルとして提供されているアパート。その後、とりたててセクシャルな関係がうまれることもなく、謎のまま音沙汰のなくなった彼女をたずねた「梟の館」でみたものは…。といったショッキングな展開はいっさい企図されず、彼女なきアパートで残された女性たちのどのちゃん騒ぎになぜか巻き込まれてしまう。
そんなふうな、まあどうでもいいような話がいくつか。ただ、いずれの短篇にも少しづつ日常生活との狂いというか揺らぎのようなものがあって、そういった状況をおっさんの妄想ととらえる向きもあるだろうが、こういった妄想にとらわれながら眠りにおちるのも悪くはない。
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