考えるための道具箱

Thinking tool box

うーむ。神の降臨を伝えるには。

2005-10-18 23:40:10 | ◎業
日曜日にいたるまでクライアントともに議論を重ねた経営戦略提案が、どうやらうまくいったようでホッと一息というところ。先週は、この手のクライアント企業の中長期の経営提案のプロジェクト2つに加え、社内的な中長期ビジョンのプレゼンも重なり、じつはかなり血相を変えていた。ほんとうは、別のクライアントとの外部打ち合わせの予定もいっさい入れていなかったんだけど、そんなにうまくやりすごせるわけもなく、企画作業を寸断する形で、日中にあれこれ呼び出しがかかる。これでおれも一巻の終わりかと思っていたところ、ちょうど水曜日あたりか、ある瞬間にコンセプトの神様が降臨してきて、それ以降は作業脳に入れたため、すべての件名において実際は予定より少しづつ早く作業が完了できた。結果、月曜日は代休をとることができ、いきつけの整骨院で肩や腰をバリバリ調整できたわけだが、さすがにこういった無茶がいつまでも続くわけもなく、つまりは、だれかに伝承していかねばならない。さて。

たとえば、この神様が降りてくる瞬間というものをどう言語化していけばよいのか?実際のところは、なにかが閃光のごとくひらめくといった都合のよい話ではなく、出し尽くしたファクトをいくつかのフレームワークにあてはめながら縦横の入れ替え作業をやっていると、茫洋とした材料のなかから一段だけ高い「うむ、これがコンセプト/シナリオとしてははまりそうだなあ。まあこれでやってみるか」という感覚が生まれ出てくるだけにすぎない。ただ、それを話の芯として措定してみると、さすがに何時間も何日も考えただけあって、リゾームかWEBのように、いろいろな枝葉がうまくはまりだす。もちろん、一連の作業は、「まあ…やってみるか」といった涼しい顔でできるものではなく、頭を掻き毟りながら、ぶつぶつ独り言をつぶやきながら、あちこち落ち着きなく歩きまわって、ようやくほんの一滴だけ絞り出された正しいかどうかもわからないヒントに縋りつくといった苦しいものでもある。

これをまとめてみると、きっと、(1)もう出し尽くせないというまでファクトとジャストアイデアを出し尽くす (2)それをもとに帰納的な思考を繰り返すなかで演繹的な確信/核心/革新がみえてくる (3)その確信/核心/革新をフィルターとしてもう一度ファクトとアイデアを救い上げてみる、といったようなことで、ここまでくれば「神の降臨」より、多少はノウハウっぽくなってくる。

この脳内ぽい作業を、脳内の瞑想にとどめるのではなく、「紙」⇔「アウトラインプロセッサー」⇔「キャンバスとしてのパワーポイント」というフィジカルで可逆的作業に(力技的に)置き換えていくことで、状況を少しづつでも進捗させていくわけだ(※)。したがって、あるときにはいつまでも(2)で逡巡しているのではななく、まず確実なところだけパワーポイントによるアウトプット(定着)作業を始めてみる、という手もある。ロジックとシナリオを可視化してみることで、みえてくる足りなさ、問題点もわかるというものだ。もう少しノウハウっぽくはなったか。

しかし。しかしだ。このことを若手プランナーに伝えたところで、きっとピンとこないに違いない。たぶんおれだって若いころにこんな教え方されたって???だっただろう。それどころか、いまだって、スタート時点はうまくまとまっていくのかどうかについては、つねに大いなる不安がつきまとっているような不確実な技法でもある。じつは、さきほどまたクライアントから中長期的な商品開発ロードマップ策定というオーダーがあり大量のPDFが送られてきて、とりあえずのカットオーバーが来週ときているもんだから、内心、滅茶苦茶あせっている。はたして、今回も神は降りてくれるのか?

思慮浅く考えれば、一連の企画のプロセスを、悩んだところやコンセプトが閃いた瞬間まで、微に入り細を穿つまで再現するドキュメンタリー研修をやればいいのではないか、といったことは思いつくのだが、結局は自分の頭で考えてみなければ、身につかないだろう。とりわけ、受動的であることが行動原則になっているクレクレくんには、まったくもって意味がない(まあそもそもクレクレくんは、この仕事に向いていない)。牧歌的な時代においては、若手サイズの仕事というものが存在し、上記のような一連のプロセスを、少しは小さめの規模でシミュレートできる機会が確実にあった。しかし、いまクライアント企業がマーケティングのアウトソーサーに求める問題解決は、いきなり過大だ。

さて。というか、うーむ。きっと、もっとも近道は(1)の習得にあるに違いない、というところまでは、なんとなくわかっている。つまり、当該のマーケティング・プランにおける検討要素がどれだけ「全体像」に近いところまで並べられているか。結局は、製品と顧客に対する関心とあくなき探求というところに落ち着く。うーむ。もう少し考えてみよう。

「私たちが問うて考えることのなかには、心から納得しうる理路を見出したいという願い、そして他者とそれを共有したいという願いが含まれていた。単なる伝承や通念によるのではなく、相互の深い洞察と納得を通じて知が共有されていくという夢---こうした夢はまったく虚妄なのだろうか」(『哲学的思考-フッサール現象学の核心』

西研もこういっていることだし。

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(※)本来的には、言うまでもなく問題意識が共有化できている複数人で議論するのがいちばん良い。

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