考えるための道具箱

Thinking tool box

村上春樹のスタンス。(1)

2004-11-13 02:21:27 | ◎読
11月12日の朝日新聞(朝刊)の「三者三論」は、「村上春樹25年」。加藤典洋、森達也、香山リカの3氏による、評論のようなエッセイような語りが掲載されている。それぞれは、これまでのそれぞれの文脈の域を超えておらず新しい発見はないため、詳解はしないが、加藤氏、森氏の発言に触発され、村上春樹の基盤が少しみえたような気がしたので書きとめておこうと思う。

村上春樹については、プロアマとりまぜ、さまざまなところで、さまざまな角度から語られているため、今回の考え方もどこかで語られている可能性は高いかもしれないし、たとえ語られていないとしても、結局は多くの評論の前では、たいした意見ではないであろうことを前提として書き進めてみる。
「内閉」の問題に初めてとりくんだのが85年の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」です。オタクがマスメディアで盛んに取り上げられるのが、90年代以降だから、非常に早い。(加藤氏)

人気が持続しているもう一つの理由は、分かりやすい解答を提示しないことでしょう。さらに言えば、「分からない」ことを「分かったふりはしない」誠実さ。(森氏)

僕自身も「僕語り」を使うのですが、これは自分の未成熟を認めつつ、簡単には答えをだせない問題を論じるときに有効な人称です。(森氏)
この2人の発言で、少し見えてきたのが、コミットメントとデタッチメントのコンセプトだ。もちろんこの2つについては、なにも加藤氏が称しているわけではなく、村上自身の発語によるものであり、言うまでもなく外部・他人とのかかわりあいの尺度を意味する。

関与という字義どおりの意味合いでしか語られていなかったコミットメント/デタッチメントだが、今回、とりわけ森氏の発言から、わたしが想起したのは、以下のような定義だ。

◎デタッチメント:自分の考えを深めていき、まとまってからでなければ発信しないという態度。
◎コミットメント:自分の考えを深めてはいくが、まとまっていないくても、とりあえず外に投げかけてみるという態度。


それまでデタッチメント的なる作品を提示してきた村上春樹は、一般的には『ねじまき鳥クロニクル』においてコミットメントの立場の兆しをみたといわれ、以降の著述は、『神子どもたちはみな踊る』を頂点に、外部・他人との深い関与のバリエーションを提示するものとなっている。そして、このことは「阪神大震災」「オウムのサリン事件」、さらに河合隼雄との対論を契機としていることも、すでに語りつくされている。

彼自身も、それまでは外界と深くかかわりをもたないことで、自分の立場を明確に堅持していくつもりであったことも明示している。一方、変節については、「外国にでたこと」が一因ではないかと語っているが、これはあくまでも要素であって、契機は、震災とオウムであることは間違いないだろう。

この彼自身の考えを敷衍したのが、先にあげたわたしの定義になる。外部・他人に対し、自分を強く主張していくことで自分を維持する。強く主張するためには、揺ぎ無い思想が必要であり、ここが固まるまでは、けっして外部・他人と深くかかわるべきではない、という、たんに「関わらない」という考え方以上のものが、デタッチメントの背後に流れているのではないか。

そして、脆弱な状況において外部との濃密な関係を拒絶することが、目に見えず得たいの知れない「悪」「陰謀」に対して強くあるための唯一無二の方法と考えていたのかもしれない。一方で、拒絶により、自身の存在が消失してしまうことも、ある意味で悪の手中に落ちてしまうことと変わりなく、これを防ぐために、極めて消極的な方法により外界への信号を発信した。これが、モノとスタイルにより、あくまで軽く自身の存在証明をしていくという方法だ。メニューへのこだわり、アイロンのかけかたへのこだわり、といったものがこれにあたる。

(長くなりますので、以下、明日に続く)

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いまだに (JOHNY)
2004-11-15 03:59:00
村上春樹氏のよさはわからない私です。

解説からなにかつかみたいとおもいます。

 外国の方とかにしばし、彼の作品を読みましたか?ときかれたりするのですが・・・。

決まってわたしは、彼の作品には・・・意味がないから・・・よくわからないなどと答えています。
Unknown (urat2004)
2004-11-15 12:57:07
コメントありがとうございます。



村上春樹の評価は、おおむね2つにわかれていて、それはきっとコミットメント以前とそれ以後ということになります。で、玄人筋からは後者の評価がいちじるしく低い。でも、それは当然で、それらの作品が、すべて試行だからではないか、というのが、現段階での私のあくまでのひとりの素人としての意見です。

したがって、総論からいえば、「よいものもあるし悪いものもある」という脆弱な回答になってしまうのです。ここにきて、たとえば阿部和重のような作家がでてきてしまうと、立場的には、ずいぶん厳しくなってきてしまう、といったところでしょうか。

あくまで、ひとりの素人が、ほとんど急激に思いついた意見なので、ほかいろいろあたってみてください。

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