なにを今頃、と思われるかもしれないが、見逃してしまい、希求かなって、ようやく見る機会をえることができた。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は1960年代に実在したティーン・エイジャーの詐欺師フランク・W・アバグネイルを主人公に、彼のFBI捜査官からの逃亡劇をストーリーに核に、その背景にある父母からの孤児的孤独を描く。といっても全体像は、きわめてシンプルかつ軽快な、ハリウッド映画である。
しかも、ディカプリオとトム・ハンクスとくる、この映画を希求していた理由は、言うまでもなく阿部和重のスピルバーグ解釈によるところが大きい。
「四つ子の物語」(※)と題されたその解釈によると、90年代以降のスピルバーグの作品は、発表された年次ごとに相互補完的関係性があるという。くわしくは(納得性・説得性の高い)原文にまかせるが、その関係性は、以下のような形の2×2=4作品の関係になる。
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93年:『ジュラシックパーク』-『シンドラーのリスト』
(父の資格、優生思想、隔離政策)
97年:『ロストワールド』-『アミスタッド』
(拉致問題)
★各年の前者同志は「正・続」の関係
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01年:『A.I』-『ジュラシックパークⅢ』
(親子〔母子〕の距離を視点を変えて)
02年:『マイノリティ・リポート』-『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』
(親子〔父子〕の距離を視点を変えて)
★親子の距離の伸縮
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つまり、スピルバーグの作品は、1作品ではなく、合わせ鏡的関係性のあるいくつかの作品を統合的に見ることで、重層的な解釈が成立し、彼自身の私的な物語を垣間見ることができる、ということだ。
私は、この手の構造化とか補完的構造、といった考え方についての関心が高く、かつ『マイノリティ・リポート』が面白かったこともあり、その対関係にある『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』を楽しみにしていた。結果論的な評価をもとに映画を見るのはきっとよくないのだろうが、同じ映画を何度も見ている時間的余裕がない私にとっては、ときにはこういった鑑賞法も必要になる。
といったことを念頭に置き見始めた『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は、もちろんこの解釈(父子との距離の伸縮)のおかげで屈託なくストーリーを楽しめたが、それ以上に重要なのはディカプリオを見直せたことかもしれない。
※『文学界』2003年10月→『映画覚書vol.1』(阿部和重、文芸春秋)所収
しかも、ディカプリオとトム・ハンクスとくる、この映画を希求していた理由は、言うまでもなく阿部和重のスピルバーグ解釈によるところが大きい。
「四つ子の物語」(※)と題されたその解釈によると、90年代以降のスピルバーグの作品は、発表された年次ごとに相互補完的関係性があるという。くわしくは(納得性・説得性の高い)原文にまかせるが、その関係性は、以下のような形の2×2=4作品の関係になる。
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93年:『ジュラシックパーク』-『シンドラーのリスト』
(父の資格、優生思想、隔離政策)
97年:『ロストワールド』-『アミスタッド』
(拉致問題)
★各年の前者同志は「正・続」の関係
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01年:『A.I』-『ジュラシックパークⅢ』
(親子〔母子〕の距離を視点を変えて)
02年:『マイノリティ・リポート』-『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』
(親子〔父子〕の距離を視点を変えて)
★親子の距離の伸縮
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つまり、スピルバーグの作品は、1作品ではなく、合わせ鏡的関係性のあるいくつかの作品を統合的に見ることで、重層的な解釈が成立し、彼自身の私的な物語を垣間見ることができる、ということだ。
私は、この手の構造化とか補完的構造、といった考え方についての関心が高く、かつ『マイノリティ・リポート』が面白かったこともあり、その対関係にある『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』を楽しみにしていた。結果論的な評価をもとに映画を見るのはきっとよくないのだろうが、同じ映画を何度も見ている時間的余裕がない私にとっては、ときにはこういった鑑賞法も必要になる。
といったことを念頭に置き見始めた『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は、もちろんこの解釈(父子との距離の伸縮)のおかげで屈託なくストーリーを楽しめたが、それ以上に重要なのはディカプリオを見直せたことかもしれない。
※『文学界』2003年10月→『映画覚書vol.1』(阿部和重、文芸春秋)所収