goo blog サービス終了のお知らせ 

考えるための道具箱

Thinking tool box

◎可能性の中心。

2009-01-03 10:51:53 | ◎読
「その後、この「可能性の中心」っていう言葉は文芸批評の中ではある種クリシェのように繰り返されて、今なお機能しているん部分があるんですけど、それでも僕はこの「可能性の中心」っていうのはやはりいい言葉だなって思うんですね。本当は中心っていっちゃうと、これが核心で本物の可能性のど真ん中だみたいな感じがするから、中心っていう言い方も若干良くない部分もある気もするんだけど、要は「可能性」っていうものをどう考えられるのか、その作品に潜在している「可能性」、言い換えるとポテンシャルというか、つまりあるひとつの作品から、一体どういうことが、どこまで考えられるのか、その作品を聴いちゃったり見ちゃったり読んじゃったりしたことによって、その向こう側にどれほどの世界の広がりっていうのがありうるのか、っていうのが僕は批評だって思うんですね。………そして、この「可能性の中心」を必ずしも対象自身が知悉しているとは限らないわけですよ。……」
(『(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』佐々木敦 P31)

対象に入り込まないと何も始まらない。それは批評の世界だけではない。いや、仕事や生活においてすべからく批評の精神をもつことが大切なのだ。しかし、いうまでもなく批評は批判ではない。ましてやレッテルを貼り分類を決め付け、対象と自分の距離に結論を出すことでもない。Yes/No。そういった二項対立の罠に簡単にからめとられないような言葉や思考や態度を手に入れることこそが大切なのだ。

◎青山ブックセンター

2008-11-11 23:12:02 | ◎読
うーん、ちょっとダメダメな感じになってきたな。本店ね。まず、新刊の入りが圧倒的に遅い。もちろんブックファーストなんかと比べちゃうとかわいそうだけれど、そこまでいかなくても『monkey business』とか『未見坂』、『幻影の書』なんかは、日中、ABCで見つけられなくて、夜中に立ち寄る文教堂渋谷店で見つけたりしているので、少しずつ配本というか配架が遅れているんだろうな。
今日も、ちくまの文庫系の新刊を見に行ったけれど、ダメだった。たぶん、話題が煮え滾っている水村の本だってなかったはずだ。

あと、最近、店内のレイアウトが変わったけど、これがまたABCの魅力を大きく損なった。誰の発案というか指示かはわからないけれど、脆弱なビジネス書を前面に出してきたって、状況はなんもかわらん。そもそも選択眼がないわけだから、棚もつくれていない。ブックファースト渋谷の地下2階の入口正面にある棚一本だけでも、もってくりゃ一挙に変革されるんだろうけど。いや、そもそも集中と選択でビジネス書は捨てるって発想だってあったと思うけどな。

まあ、そこんとこはそもそも期待していないので、どうでもよいのだけど、ビジネス書押し出し戦略により、小説カテゴリーの魅力が一気に失せた。失せただけでなく、悪い方向に偏重した文学嗜好により、新刊すらわかりにくくなった。新刊はなんのたくらみもなく、とりあえず入ってきたものを機械的に並べてほしいもんだ。だいたい、『徒然王子』をあんなにわかりにくいところに置くなんて、少なくともこれまではなかったよなあ。10年くらい前に確実に存在していた小説・文学スペースの魅力は、もはや伝説のものとなってしまったわけだ。

しかし、なにより、最悪なのは人文系だ。これまでは新刊をある意図をもって固めたエンドがあり、チェックすると必ずなにがしかの発見があったのだが、その重要なコーナーがある日突然、スピリチュアルなものに変わっていたら、誰でも引くよ。で、その重要なコーナーがどこかに移動したのか?というと、基本的にはエンドとしては壊滅してしまった。なんども引き合いにだして申し訳ないが、これなら文教堂の脆弱な人文エンドのほうが、整理できているぶん、まだまし。以前の勢いなら、フリーペーパーになった『IC』なんて惜しげもなく振舞っていたかもしれないが、それもなし。あ、そういえば『エクス・ポ』のフリーペーパー(古川日出男特集)だって、文教堂で手に入れたんだった。

いっそのことフロアの半分ぐらいをブック・オフにすりゃいいんだ。

なんかねえ。寝ても覚めても本がすき、やっぱ金より店舗利権より本が好き、ってな人がやらないとだめなんだろうな。もしくは、個別の本を売ろうとする気のある人。少なくとも、amazonには、個別の本を売ろうとするしくみがあるよな。

◎ぱっとしない読書。

2008-10-29 23:51:01 | ◎読
その一部をご紹介。

『小説、世界の奏でる音楽』は、もはやなんともいえないものが奏でられている世界に入ってきているが、面白くない?と聞かれたら、いえいえがぜん面白いと答えるしかない。なにが面白いのかということをいろいろと考えてみると、それはこんなふうに小説のことをうだうだとだらだらと語っているような本や場がほかにはないというオリジナリティだし、自分のなかで起きた感情の揺れとか、揺れのなさといったようなものの原因を自分を標本のようにして分解していくという語りがほかにないからだ。また、とうぜんこれらのことはたとえ保坂和志であってもすぐに答えがでるわけではないので、そういった思考の流れ/淀みをリアルタイム風に書く方法論(「と、ここまでのことを考えてから、3日たって、また書き出しているわけだけれど」といったような言い方)をうまい形で盗んでみたいという関心もある。まあ、それらの身体的思考実験が、くどいという見方もなきにしもあらずだけれど。
ところで今号でとりあえず第一期の最終刊となる『エクス・ポ 6号』では、保坂和志へのロングインタビューが掲載されていて、そこでは『書きあぐねている人の…』が、終わってみればあまりにも雑なことしかできていなかったので、再び「小説をめぐって」を企図したというくだりがあり、ここまで偏執的に小説のことを考える人を前にして、さすがに評論家は小説のことを語れないよなあ、と思ってしまう。まあ、フリー編集者ならともかく、文芸評論家を名乗るのならこれぐらいの時間を投資せよというのは正論かもしれないが、しかし、一方で、これはパワハラの亜種だな、という気がしないでもない。

『グランド・ミステリー』、『火の鳥 鳳凰編』、『火の鳥 復活編・羽衣編』は、100円だったら買うだろう。ただし、100円だからといって中身も確認せずに買うのは問題で、実際に『復活編』が朝日ソノラマの手持ちとだぶってしまい、100円にもかかわらず大きく悔いることになる。また、同じ100円でも『プラトン学園』を買わなかった、そこにある認知的不協和をいまだ合理的に説明することはできない。

『疲れすぎて眠れぬ夜のために 』は、買ってはみたものの、なんだかブログのほうが読みやすく論理立って感じるのは、やっぱりそこに、筆に任せた勢いがあるからなんだろうなと思う。論理がなくとも論理を感じさせる書き方があり、しかし、それを紙で斜め読みせず向き合うと、論理を感じさせる書き方を強調しているぶん、くどく見える。これを見るにつけ、エクリチュールというものをもっと考えなければならないと思う次第。関係ないか。

『集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険』は、一気に100ページぶんぐらい読み進めることができたけれど、頭の中になんにも残っていないことが判明したので、頭の中に残りそうなローティの章を先に読もうと思う。

『あやめ 鰈 ひかがみ』は、あんまり面白いという人はいないような気もするが、おれは意外に面白いじゃないかと思っていて、それは、やっぱり松浦の企図している幽玄のようなものに、まんまと乗せられているからなんだろうと思う。あれ?こいつって死んでたんじゃなかったっけ?と、ふと惑う瞬間。しかし2,30ページ読んだ程度でそんな謀に誑かされる甘い読み方も問題だな。

『アキハバラ発<00年代>への問い』は、おんなじような本を最近買ったような気もするが、また買ってしまった。差分は平野啓一郎と、おんなじような本では、web上でしか公開されなかった大澤真幸。しかし、世界で起きる新たな問題が顕になるにつれ、なんだか、だんだん読む気が失せてきた。

『All in One』は、こんなの買うより、電子辞書首っ引きで『oracle night』なんかを訳したほうがよほど力がつくんじゃないかと思うが、当然そんな時間はないので手軽にいつでも取り組めるテキストとして。もちろん、気軽にいつでも取り組めるようなもので、本質的な力がつくわけがないのは重々承知のうえです。

『東大合格生のノートはかならず美しい』は、確かにいい本づくりをしていると思う。図解、コラム、ポイントのバランスなど、質のいい参考書のようなつくりで、まず、そういった編集方法で学ぶところは多い。とうぜん内容についても、もしおれが高校生なら、という前提で学ぶところは多い。東大合格生のノートにみられるいくつかの法則というかルールがいくつか上げられているけれど、じつのところポイントは明快で、「自分で考えて、自分がいちばん使いやすい、参考書&問題集を、ていねいにつくる」そして、それを何度も見返しながらさらにカスタマイズしていく、というところにつきるのではないかと思う。もちろん「あいつノートはきれいなんだけどなあ」という残念な級友がいたかもしれないが、それはきっと作り方と使い方が間違っていたんだろう。早速、娘のためにコクヨが共同開発したキャンパスノートの「ドット入り罫線シリーズ」を買ったが、第一印象としては好感触のもよう。

とりあえず、ここまで。
やっぱり、ぱっとしない。

ただ、本はたまる一方で、東京もあまりの乱雑さにイライラしてきたので、とうとう無印のパルプボードボックスを買ってしまいました。








◎さえない読書。

2008-10-28 23:07:52 | ◎読
その一部をご紹介。

『monkey business サリンジャー号』は、いつもどおりの『monkey business』と思っていたら、『ナイン・ストーリーズ』の柴田元幸の全訳だけの一冊。久しぶりに「バナナフィッシュ日和」を読み返すと、「バナナフィッシュにうってつけの日」とどっちがどうだとか言う話はどうでもよくって、排水口に渦巻きながら収束し消えていく水が一気に断ち切られるような展開は、いつ読んでもゾッとする。もちろんその他の短編にちりばめられたさまざまな狂いに、こんな思考回路のやつらが身近にいたらちょっとおっかないなあと、怖気づく。ところで、もうしばらくすれば、オースターの『幻影の書』がでるようだし、柴田元幸は最近ものすごい量を訳しているような気がするが、そのぶん昔に比べて読み難くなったのは気のせいか。

『新潮 11月号』は、山田詠美の『学問』とか、古井由吉の連作とか、だいぶ壊れかけている青木淳悟の短篇とか、いろいろな場で発信されている古川日出男による大竹伸朗のアトリエ探訪とか、宇野常寛の新連載とか、保坂和志と古谷利裕の対談とか、山城むつみの『宿屋めぐり』評とか、『ばかもの』や『聖家族』や『仮の水』『延安』のレビューとか、かなり充実しているにもかかわらず、生活が充実しすぎて、いっさい読めていない。

『文藝 冬季号』 は、柴崎友香特集。こんな生活をしているともう柴崎なんかゆっくり読んでるヒマないよな、というなんとも懐の狭いあきらめから、おれを引き戻してくれる。柴崎も読めねえようなゆとりのなさでどうすんだ、と。いや、だからといって、いま『主題歌』なんか読む?ってきかれたら、うーん、と答えるしかないか。『星のしるし』はちょっと面白そうだけれど。

『文藝 冬季号』 は、柴崎友香だけではなく、『新潮』と同じように充実していて、とくに初めて読んだ磯崎憲一郎、その短篇『世紀の発見』には、得体の知れない好意がわいた。正体がわからないので、その信頼感のようなものを、ここで説明することはできないけれど、ひとつふたつ言えるとすれば、ムダがなく凝縮された、ソリッドな文体。そして、母親・子供・自転車という世紀の発見。いや、これはちょっと解釈が違うか。まあ、いいや。でも、もう一回読んでみよう、と思わせる多幸感のようなもの、人間を安心させるなにかがこの小説にはある。いずれにしても、たぶん本棚のどこかにある『文藝』のバックナンバーに掲載された『肝心の子供』を、読書リストに再びランクインさせなければならない。

『血と暴力の国』は、ようやく古本屋で発見したのだが、『The Road』の読みがいまだ加速していないので、このまま読めないんでいるんじゃないかと懸念されている。そうならないように、つねに持ち歩いているが、持ち歩いていることすら忘れてしまう。

とりあえず、ここまで。
やっぱり、さえない。

◎新聞2紙。

2008-10-24 22:36:45 | ◎読
そもそも新聞好きなので、かなり贔屓目だとは思うけれど、一部で新聞の始まっている新しいトライアルは、なかなかいい線いっている。

まず、「FujiSankei Business i」。新紙面が10月からスタートしていて、月曜日に初めて読んだ。タブロイドサイズ・横組へのデザイン変更と同時に記事の小分けと図表の充実。このあたりは、「SANKEI EX」の手法をそのまま転用したのだろうし、場合によっては2紙をあわせることで、編集と印刷の生産効率をあげていこうというような狙いで着想されたのかもしれない。

しかし、そのことが紙面づくりにも新しい効果をもたらしたように思える。通常の新聞サイズのとき(15段とか12段とか)は、前身である日刊工業新聞を対処療法的に変えただけで、あきらかに日系各紙とのポジション争いのなかで分が悪かった。初期のころは、どうみても劣化した日経産業新聞にしか見えなかった。今回の新創刊で記事内容も一新されたのかどうかはわからないが、読んでいる限り以下の2つの点で、日経とは異なるオリジナリティを獲得した。

[1]そこそこ感
記事の深さや網羅性・ニュース性はそこそこのところであきらめ、いわばだいたいのところを押さえている。一号ぶん読んだだけなので確証はもてないけれど、そんな感じ。

そもそも、政治・経済・技術・流通・金融・証券の中核にいない限りは、日経各紙は情報過多、言ってしまえば冗長で、すべての記事を読んでいる人は少ないだろうし、また読む必要もない。そこそこ深く、そこそこ網羅的なのだが、そのことは、知るべき情報の優先順位を損ねることになる。また、〝ニュー″スを競ったところで、WEBサイトでの情報が先行している以上、あまり意味がなく、一面の記事はだいたい予想がつくといった現状もある。

そういったところは、旧い新聞や雑誌にまかせて、われわれはマイペースの視点を積極的に投入しつつ、世界にあふれている情報へのナビゲーションをつくる、というのがFujiSankei Business iの基本的な立ち位置のように思える。このことが、結果的にWEBサイトを手本にしながら、WEBサイトへのINDEXにもなるような編集として実現していて、短時間で多くの情報を入手しながら、「自分」が知るべき情報へのヒントを与えてくれる。

いわゆる一般紙にはないような記事も散見され、それは、バックフロントとなっている「ブルームバーグ」や2ページを割いている「オックスフォード・アナリティカ」との提携記事によるところが大きい。たとえば、oxanのGlobal Stress Points Matrix(GSP)という世界の危機的ストレス(1年以内に起こる可能性)を数値化している分析なんて初めて見たのだけれど、なかなか面白い(もし起きればインパクトは極めて高いがストレスバランスは中庸で実現性の低い事件としてあげられているのは「インターネットの崩壊」とか)。

これらの情報の選択性に意志が働いている、ということさえ認識しておけば、新聞やWEBサイトと併読する読み物としては、なかなか面白いポジションじゃないだろうか。サブツールのわりに、少し高い(150円)のが弱点か。

[2]読みやすいデザイン
横組なのに読みやすいなんて言っていいのか、という向きもあるかもしれないが、文字組と段組が(計算されているかどうかは別として)、うまいバランスをついていて、横組みにもかかわらず、斜め読み・速読で文字と意味が拾えるデザインとなっている。いちばんいいのは、ちょうど視点から斜め45度ぐらいのところに紙面をおいた読み方で、そんなふうにはすに構えてみると、縦組みのように横組みが読めて具合がいい。もちろん、そんな手間をかけずに普通に読んでもストレスはかからない。これは、グリッドで割り切ってるレイアウトに寄るところも大きいとは思うが、その面白みも味もないデザインが多少はリーダビリティに寄与しているということだろう。

ふたつ目は朝日新聞の月曜版に月2回挟み込まれた4ページのpaper in paper、「GLOBE」。その名のとおり国際的な課題についてやや深みを加えた、いってみれば特集記事で、これまでは、北極、オイルマネーなどを取り上げている。初期の頃のAERAにも似た感じなので、その点では、新聞と雑誌を新しい形で融合させているようにみえる。WEBとの連携もかなり意識されていて、取材過程での余聞が、本紙とは少し違うかたちで、多少の深さをももって公開されている。

そしてアートディレクションは木村祐治。「FujiSankei Business i」に比べて、その横組みは決定的に読みやすいとはいえないが、白場を多用した迫力のあるデザインは、いちおう読む気を削ぐことはない。これを、読みやすい、といってもいいかもしれない。

長期的な取材をベースにしている部分もあるようで、NHKスペシャルに近いのかもしれない。現在は4ページだけれど、1月には8ページに増え、「毎日の暮らしに役立ち、仕事のヒントにもなるような、きらりと光る人物インタビューや、最新の海外情報もお届けします。内外の一流のエコノミスト、識者らによる、彫りの深い論考もじっくりと味わって下さい。」ということなので、期待できる。また、WEBも今後は会員制ページも準備されているようなので、メディアのクロス度合いもちょっと楽しみだ。

最初にも書いたようにかなり贔屓目かな、とは思うけれど、2紙とも、けっしてWEBに阿ることなく、どちらかというと、厳しい状況にあるといわれている雑誌に歩み寄ることでメディアとしての紙がまだふんばる余地がある、ということをあらわしていて面白い。もちろん、それがビジネスモデルとしてうまくいくかどうかは別の話。

◎『ゼラニウム』。

2008-10-19 16:15:48 | ◎読
だれか俺に、本を読む時間をくれないか。とかなんとか言いながら、飲みにいったり、固形スープが手持ちのコップの容量でつくれるかどうかを確かめるために円錐台の容積の出し方について考えだしたらやめられなくなったり、クレジット・デフォルト・スワップがCDOなんかに組み込まれて爆弾に変容していくさまは、まるでE=mc2が、その発見者ですら可能性しか示唆できなかったモンスターをつくりあげていくのに似ているのかななんて思いをめぐらせてみたり、人の親になんでそんなに上から目線になれんだ?おんなじレベルで物をいうな、と気分を害してみたり、どうも合理的・論理的には答えの出なさそうな私的な問題にもんもんとしてみたり、スポーツ新聞のメーク・レジェンド号を熟読してみたり、ここ数日みかけなくなった『ユリイカ』の中上健次特集号を探すために部屋中をひっくり返したり(結局、なんかよくわからない隙間にぴったりとフィットして隠れていた)、1日に2回も3回もうたた寝とかしてるんだよな、くそっ。

堀江敏幸の『ゼラニウム』は、「水」と「女」に、映画や小説の話をからませたいわば三題話の短編集。堀江を読み出したのは『河岸忘日抄』以降なので、気づいたときに過去の「小説」をこつこつ読み集めている。結果的に残すところ『おぱらばん』ぐらいになっているはずなのだけれど、堀江の場合は、小説と随筆のあわいがあいまいなところがあり、実際のところ何がまだ読んでいない小説なのかどうかは正確にはよくわからない。よくわからないのなら区分なんて意識せずに読めばいいんだけれど、やはり「小説」のほうには「小説」にしかない魅力があり、それが堀江を読むモチベーションになっている。それは、さりげない日常に差し込まれる、本来的にはまったくありえるはずのない虚構をありえるように感じさせてしまうトリックであり、それを可能にしている静謐な文体の技であり、あれこれ優先順位を考えるとまず小説を抑えておきたいという気持ちになる。

そんなことを思っているうちに、講談社文庫で『子午線を求めて』が発刊されて、これはずっと随筆だろうと思っていて実際に新刊の分類では「今月のエッセイ&ノンフィクション」にカテゴライズされているんだけれども、これもまたあいまいな散文である。初めて知ったのだけれど、このことは実際に堀江も意識していて、「跋」と「文庫本のためのあとがき」で明瞭に宣言されている。

<「自作に関しては可能なかぎり分類を曖昧にしておきたい」という八年前の記述は、現在も有効だ。定義が曖昧なまま「小説」と呼ばれている散文形式に接する機会も増えてきてはいるが、私自身は、いま何をしているのか、何をしようとしているのかを書きながら考え、考えながら書き続けているだけである。書くことにおいては、寄港地はありえても、目的地はない>

『ゼラニウム』もまた、日々の仕事と出来事を書き留めたエッセイのようにもみえるが、もちろん嘘に満ちた短篇集で、いずれもミステリアスな要素を含みながら、そして、いつものように小説や映画の魅力を織り込みながら、いっぽうで堀江には似つかわしくないドタバタもあったりして、じゅうぶんに楽しめる。忙しい間をぬっても一息に読めるような話ばかりだし、忙しいときにこそむしろわずかな時間をとってでも、こういった言葉の味わいに足をとめてみたり、日常のちょっとした狂いを深堀してみることの大切さを思い出したいものだと思う。

仏語通訳の腕をかわれて主人公がありついたのは、映画賞を獲りたい配給会社か企画会社のお偉いさんと審査員である批評家との、ちょっとした収賄のからむあやしげな面談の場をうまく進行させるという仕事。その映画の主役とされているデニス・ホッパーへの彼のこだわりとか、面会の場にいたフィリピン人の女性料理人とのわずかなふれあいが、夢想のように語られる『アメリカの晩餐』。

東京でたまさかもっていったフランスの出版社のふくろうのロゴ入りのショッピングバッグを見とめられたことをきっかけとするフランス人の社会人留学生と顛末を描く『梟の館』。納豆巻きの買い物への同行ののち向かった先は、短期滞在の外国人のための安ホテルとして提供されているアパート。その後、とりたててセクシャルな関係がうまれることもなく、謎のまま音沙汰のなくなった彼女をたずねた「梟の館」でみたものは…。といったショッキングな展開はいっさい企図されず、彼女なきアパートで残された女性たちのどのちゃん騒ぎになぜか巻き込まれてしまう。

そんなふうな、まあどうでもいいような話がいくつか。ただ、いずれの短篇にも少しづつ日常生活との狂いというか揺らぎのようなものがあって、そういった状況をおっさんの妄想ととらえる向きもあるだろうが、こういった妄想にとらわれながら眠りにおちるのも悪くはない。

◎『中原昌也 作業日誌 2004→2007』

2008-10-04 11:54:59 | ◎読

中原昌也の『中原昌也 作業日誌 2004→2007』は、ページごとの文字密度が高くて、読んでも読んでも進んだ気がしないし、終わりがみえない。日中は寝て、おおむねだらだら過ごして、鬱屈して不安になって、泣き言を繰って、現実から逃避するために、際限なく映画を見て、膨大な量の音楽を聴いて、しょっちゅう入金を確認して、ときには少しだけ文字と音をアウトプットして、アウトプットしたあとは友達のような人たちと飲んで、少しはいい気分になったりもするけれど、結局はまたダウナーな状態に戻る。この徹底したダメと浪費の反復につきあうことに何か意味があるのだろうか、なんかもっとほかに読み進めたほうがいいものがあるんじゃないか、と思いつつも空き時間についつい手にとってしまう。リスト化されているCDやDVDは、ほとんどといっていいぐらい知らないものばかりなので、あ、中原もこれ聞いてんだ、みたいな感動も一切ない。にも拘わらず、その無機的な文字列を、なんともいえない無機的な気分で読み続けてしまう。このまさに作業の日誌といえるような(営業の要諦がわかっていない営業マンの営業日報なんかに近いかもしれない)文字列にある意味不明な魅力はなんだろう。
ドゥマゴ文学賞の高橋源一郎の評価は過分だとは思う。確かにこのダメっぷり人間の描かれ方をひとつの文学する見方はあるだろうが、なんか格好良すぎる。どう考えてもこれはたんなるログ、リストにすぎない。リストを文学とするのは楽屋落ちであり、やはりリストをリストとして評価すべきだと思う。
結局のところ、膨大な量の音楽を聴くのも映画を観るのも本を読むのも、そして用事のない他者と付き合うのも、この世界のすべてのおれの知らないことへの絶望のような希望、もしくは希望のような絶望を垣間見ておきたいという動機がなせる技であり、だからこそ、そこで構築されたリストが何かを知るためのヒントになる。ならないか。まあいいや。いずれにしても、そうしたカッコつけた意図なんていっさい顧みることもなく、ただひたすら偏執的に、そしてじつは生真面目に作成されたリストに対して一定の評価を与えるというのは、まあそれはそれでいいんじゃないかと思う。いってみれば、誰の生活もおおむねこんなような繰り返しの繰り返しであり、その点で人間を表現するためのひとつ方法ではある。

ということで、このリストが表現している人間がどんなやつなのか、文学賞受賞記念対談、見にいってきます。

ところで、ここには書かれていない、10~20日スパンぐらいで訪れる、書く瞬間。そのスイッチ、気持ちの上昇みたいなものがわかれば生きるヒントになるのに、とは思うけれど、まあそんなものは誰がなんといおうと書かないだろうな。

◎これちょっと面白そう

2008-09-15 00:37:16 | ◎読
なんだけど、どう?

『東大合格生のノートはかならず美しい』
(太田あや)文藝春秋 080927
東大合格者のノートは美しい。最後までテンションが落ちない。その“ノート術”を科目別、性格別に紹介、解説した全く新しい参考書

東大に合格した高校生のノートを175冊も集めた太田さんは、その共通点を分析し、(1)とにかく美しい(2)大学に入学してからもノートを残している (3)余白を作り、授業時間内に理解する努力をしているなど7つの法則を発見しました。多数の東大生のノートを原寸大で公開して、授業ノートの技術を徹底的に解剖するまったく新しい
本の誕生です。しかも、コクヨのノート開発チームがこの企画に参画。文春とのコラボ研究による「7つの法則」を実現しやすいノートを開発しました。本邦初、ノートと本が同時発売されます。


現状はこれ▼。無印良品の文庫本ノート・薄型。

ノートつーか、メモだけど。(1)とにかく汚い(2)終いまで書いたらきっと捨てる(3)余白はないけど、あとから書き足して、なにがなんだかわからなくなる……など7つの法則。この本を読んで、夏休みに買っておいたMOLESKINEのヴォラン・プレーンPに変えたら悪い癖からなんとか改心できるのでしょうか。ま、汚いなりに法
則はあるんだけれど。

■その他、今後の予定

▶『奇跡の経営(仮)』天外伺朗/講談社 09_25
▶『集中講義!アメリカ現代思想 リベラリズムの冒険』仲正昌樹/NHKブックス 09_25
▶『小説、世界の奏でる音楽』保坂和志/新潮社 09_29
:あまりにも自由奔放な筆の流れについていけるか。
▶『海街diary #2』吉田秋生/小学館 10_10
:ようやく発売。1年半待ち。
▶『あやめ 蝶 ひかがみ』松浦寿輝/講談社文庫10_15
▶『定本 日本近代文学の起源』柄谷行人/岩波現代文庫 10_16
:「定本」シリーズが順に文庫化されるのかな。
▶『なにもかも小林秀雄に教わった』木田元/文春新書 10_20
:なにもかもハイデガーに教わったんでなかった?
▶『ディアスポリス  #10』すぎむらしんいち リチャード・ウー/講談社 10_23
:こっちは最近ペースがあがってるな。
▶『いつかソウル・トレインに乗る日まで』高橋源一郎/集英社 11月
:もっとほかにやることがあるような気がする。

▶ 『Time The Conqueror(日本盤)』Jackson Browne<BONUS TRACK:Late For The Sky (Live with David Lindley) > 10_01
▶『Dig Out Your Soul』OASIS 10_01
:こりゃ1日は売場でJBのアルバム探すのたいへんそうだな。

▶『第18回Bunkamuraドゥ マゴ文学賞 受賞記念対談』@Bunkamura 10_06
:申し込み結果待ち。
▶『TIME THE CONQUEROR WORLD TOUR 2008-2009/Jackson Browe』@東京厚生年金会館 11_24:よくわかんないけど、たぶん獲れているはず。
▶『斉藤和義 ライブツアー2008 “歌うたい 15<16』@Zepp Osaka 12_21


■8月以降の履歴

▶『バガボンド#19,#21~#23』井上雄彦/講談社
:自由が丘のブックオフで。残り20巻のみ。いまのところ古書店で発見できないので、そろそろあきらめどきか。話としては面白そうな巻だけど、見方にもよるがどちらかといえばサブストーリーのためなくても読み進めることはできた。
『ナンバー9ドリーム』デイビッド・ミッチェル/新潮クレストブックス
『対称性人類学』中沢新一/講談社選書メチエ
:上記2冊は、新刊で買うタイミングを逸したので、もう古書でいいやとずっと探していた。東京のいくつかの書店で手に入れた。ところで、古書といえば、夏休みの東急百貨店の古書祭りはすごかったなあ。熱気と湿気が。
『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー/早川書房
:20ページほど、読み進めたけれど、どうも評判にはついていけない予感がしてきた。
『リアルのゆくえ』大塚英志・東浩紀/講談社新書
▶『エクス・ポ #5』
:この細密は、もうほんとうに読めないので、カラーコピーで拡大して読んでいます。
▶『新潮 10月号』
:源氏物語特集。いうまでもなく町田康の「末摘花」の超訳はおもろいです。そしてあいかわず、東浩紀は『ファントム、クォンタム』をかなりしっかり書いている。
▶『文學界10月号』
:今月は文學界と群像で『宿屋めぐり』のプロモーションが行われているが、全体のバランスを考えて文學界を選ぶ。今回のプロモーション活動にあたって町田は、『宿屋めぐり』の本質をダダ漏れで解説しているが、そういった嬉々とした語りをみていると、王裂の南半分を爆砕したくだりなんかがもう一度読みたくなってきた。
『[実学・経営問答]人を生かす 』稲盛和夫/日本経済新聞出版社
:夜中の2時ごろに、稲盛和夫に怒られて正座しながら読んでいます。稲盛の経営塾に通う、中小企業の青年経営者との問答なんだけれど、だいたいが1割褒めて、9割貶めるというスタイルになっていて、しかもその叱りには、確かな筋が一本通っているため、こっちも背筋が伸びるわけです。
『詳説 世界史研究』山川出版社
:私たちは歴史の先端にいる。
▶『Meets Regional 10月号 ザ・めし』
:あいかわらずミーツはすばらしいです。これこそが雑誌というものじゃないかなと思う。
『緊急出版!アキバ通り魔事件をどう読むか!?』洋泉社ムック
:赤木智弘、雨宮処凛、勢古浩爾、小浜逸郎、斎藤環、東浩紀、宮台真司、浅羽通明、平川克美、内田樹その他。あと、理由はよくわかんないけど、ゲラに近い形になっているにもかかわらず、同書に掲載されなかった大澤真幸の文はネットで読める。ここで編まれた意見のうち読みたいものは、たいていブログなどネット上で読むことができそうだけれど、そんなにヒマじゃないのでこうしてまとめてくれるとたいへん助かります!つーか、これからの雑誌のひとつの方向かもしらんな。ナビゲーションとしての紙。
『鉄の時代』J・M クッツェー/河出世界文学全集1-11
:『アブロサム、アブロサム!!!!』は、すでに集英社のギャラリーで読んでいたので買わなかったけれど、これは初訳のようなので、文学全集のなかでは珍しく迷わず。しかし、いつ読み始められるかはいっさい不明。
『わたしは花火師です』フーコー/ちくま学芸文庫
:冒頭、フーコーが、書きたくないとか、いやいやこういうもんを書きたいんですよ、というくだりがあり、人の狂気を判断するひとつの指標として、書くことへの態度があるんじゃないかと思った。
『カフカ・セレクションⅡ』ちくま文庫
『中原昌也 作業日誌 2004→2007』boid
:前述、ドゥ マゴ文学賞に合わせて、在庫切れにならないうちにと急いでクリックしました。

◎忙しいような気もするが……

2008-09-03 11:47:53 | ◎読
そうでもないような気もする。何かの確信にとらわれているような気もするけれど、たんなる思いつきを羅列しただけのような気もする。ひとつひとつの言葉に深い意味が注ぎ込まれているような気もするけれど、類語辞典首っ引きの悪い言葉遊びのような気もする。それら言葉の展開は緻密な計算に基づいているような気もするけれど、饒舌が駄々漏れになっているだけのような気もする。列代の思想家の声を自家薬籠中のものにしているようでもあるけれど、キャッチーな部分だけを勝手解釈で引用しただけのようでもある。真実真正に語られているような気もするけれど、嘘と偽りの凝塊のような気もする。ほのかに希望を与えられたような気もするけれど、絶望の淵に叩き込まれたような気もする。正義のスポークスマンのようでもあり、悪のインカネーションのようでもある。いつも神に見守られていたような気もするし、始終サタンに唆されていたような気もする。馬鹿笑いの連続のようでもあり、恐れと不安に苛まれているようでもある。他人がわかったような気もするけれど、わからなさがいっそうわかっただけのような気もする。すらすら頭に入るストーリーだったような気もするけれど、何ひとつ覚えていないような気もする。「本当に旨いものが持つ複雑な味を大衆は理解できないし、そんなものは欲していない。彼らにとって本物の素材なんてどうでもいい。どきついフレーバーだけがお好みなのだ。そのくせしたり顔で薀蓄を傾ける愚劣なバカモノども、死にやがれ、カス共がっ。」みたいなことが言いたいんだろうなあと思う反面、ほんとうは「コネクションを駆使して、特別大吟醸限定幻モンドセレクション金賞受賞超レアレア稀少プレミアム酒というまず普通は手に入らない、幻どころではない、幻のなかで見た夢のなかで読んだ本の中に出てきた架空の映画のなかに出てきた理想の酒みたいな酒をゲットした」なんて言い回しが気に入ってんだろうなあ、とも思う。それが町田康の小説。

『宿屋めぐり』は、とりわけ480ページ以降、石抜坂抜ヌヌヌク王子の鋤名彦名への裁きが始まるあたりから結末までが圧巻。神が降りたかと見紛った俺は、そこだけを3回も読み直した。きっとニーチェも驚くと思う。

◎『婚礼、葬礼、その他』。

2008-07-23 23:21:25 | ◎読
<他人の事情がどれだけの時間を奪っても、それがはけた後自分が何をするかは自由だ。>

そう。そんな瞬間があるからやっていける。

津村記久子の『婚礼、葬礼、その他』は、神妙なタイトルや導入部からは想像できないかたちで、中盤以降スラップスティックとして発展していく。そもそも休暇のはずが結婚式に、そして急遽しがらみによる葬儀への予定変更。披露宴なかばの会場を去るにあたって指名されていた結婚式のスピーチや二次会の仕切りなどに、後に残された友人たちをアサインしていくくだり、さらに料理にいっさい手をつけず葬礼に向うことで後々まで尾を引き続ける「空腹」への偏執は、まるでホームドラマをみているかのような通俗だ。

そして、主人公であるヨシノの心境を思うとき、それは確実に筒井康隆の作中において、他人の妨害により解決不能な隘路に陥り、疲弊しうなだれる登場人物と相似する。
いつまでたっても解消できない「空腹」を、これでもかと繰り返す「反復」は、そのしつこさ度合いに、あと一声、ダメ押しがほしかったと思うところはあるにせよ、ぼくを嬉々とさせる。
しかし、一方でこういったドタバタを読み進めていくと、ある瞬間、どうしようもないやりきれなさが、頭をかすめるのもまた事実である。こんな小説を書く/読む意味はあるのか、と。
 
そんな疑心でむかえた物語の終盤、それも最後の最後に冒頭の一文が書かれる。
全体として抑制された感情表現のなかの、さらにささやかなこのカタルシスこそが『婚礼、葬礼、その他』の主題であるとして、もしまずこの感覚ありきで、それを引き出すために何枚もの言葉を費やすことができたのであれば、小説の構造と動機については充分な意義を認めたいと思う。この一文により、物語が締まった、というか、それまで読んできたものの意味が急に立ち上がった。

もちろん、共感できたのは、ぼく自身がたまさかそういった境遇が続いているというユニークな事情のせいかもしれない。たとえば、この文の草稿を書いたのは夜中の二時。日中、さまざまな利害関係者と比較的濃密な対話を繰り返し、その対話の整理に午前一時前までかかり帰宅したのち、ビールとジンでクールダウンしたあと、いささか酩酊した状態でベッドで寝そべりながら、しかももう両目をあけているのがしんどいので片目で、といったようなグダグダな状態だ。

なにもそんなにしてまでと思われるかもしれないが、それでもこの「自由」は、なんとしてでも確保したい。バランスともいえるし、メンテナンスなのかもしれない。この静寂が手に入れられるのなら、ハードな毎日をなんとかやり過ごせる。そんな瞬間があるからやっていける。

この感覚の貴重さを共有できるヨシノには共感せざるをえない。その点では、絲山秋子のいくつかの小説にみられる乾いた立ち居振る舞いの登場人物にも高い得点がつく。最近、たまたまだけれど女性作家の小説を読むことが多いが、ぼくが受け入れることのできる話には、からっとした言動を規範としている女性主人公が、ふとしたことをきっかけに、ささやかな希望のようなものを自覚する、といった共通点があるような気がしてきた。

◎『決壊』ほか。

2008-07-01 01:02:27 | ◎読
『決壊』を少しづつ再読し始めている。といっても順を追ってリニアに読むのではなく、無作為にページを開いたところから、そのとき時間の許すところまでを、そして次に読むときは、また別のところから、という読み方。連載時はストーリーにとらわれてしまい、読みとばしてしまったようなところも多かったので、その表現技法をじっくりみている。すると、やはり、第1章の不気味さ、<悪魔>と友哉の対話、「沢野崇の帰郷」とか最終章あたりの崇の思考の凝縮加減なんかが格段に読み応えがある。

そして、こんなふうに俯瞰してみても、やはり、『決壊』では秋葉の事件は描かれていないということがよくわかる。書店ではすでに「事件を予言」といったような、あまりにも予期どおりのPOPが何枚もおったてられていて、事件の衝撃度合いとう点で、相似が取りざたされることはやむをえないとは思う。けれど、『決壊』は、「あれと似ているよなあ。だから、原因は…」といったふうに類型化してなんとなく「制御不能の悪について」容易に答えをだしてしまうことの問題について連綿と問い続けてきたわけだから、この点でみても、もう少しだけ抑制をもって、『決壊』や秋葉の事件と向かいあうべきじゃないかと思う。マーケティング文脈をつくりたいのはわかるけれど、この便乗は、平野にも事件の被害者とっても無礼なので、無理してそんな深遠に踏み込むのはやめて、無難に『蟹工船』とか血液型の本のPOPでも注力したほうがいいんじゃないだろうか?

◎絲山秋子の『ラジ&ピース』で語られるFM番組「ラジ&ピース」は、黒川創が『かもめの日』で描いた番組よりだんぜん面白いやあ、と思っていたら、このラジオ番組、FMぐんまのリアルなプログラムなんだ。うへ。もし、そこでいつも、パティ・スミスの"Frederick"とかポリスの"Ωmega Man"のような曲が流れているんなら、これは802のSUNDAY SUNSET STUDIOに匹敵するなあ。

◎このほか舞城王太郎『イキルキス』、諏訪哲史『りすん』、佐藤憲胤『ソードリッカー』(良い文章・文体)、村田沙耶香『ギンイロノウタ』なんかを並行して読んでいる。よってコンランしている次第。

◎『TITLE』と『Marco Polo』。

2008-06-22 22:18:56 | ◎読
『TITLE』の終盤はもうぺらぺらだったけれど、廃刊になったということは、直接的であれ間接的であれ、良識あるジャッジメントがまだ少しは効いていたということかもしれない。
もちろん、本質的な理由はメディア"広告"ビジネスとしての失敗ということになるんだろうけれど、個人的には「読むところがない」という雑誌としての別の側面での本質的なところに問題があったんじゃないかなあ、と思う。

それは記事が面白くないとか、論点がちがうんじゃないか、といったようなレベルの高い話ではなく、そもそも幾何的に「読む<文字>がない」ということに近い。必然的に恬淡とした水っぽい内容になり、どれだけキャッチーな特集テーマに惹かれたとしても、ページを繰ったその瞬間に嘆息がでるような文字情報のチープさ=浅さだった。最後のほうの「雑誌特集」なんかをみればそのことはきっとわかってもらえる。
きっと「文字を読む」「本を読む」ということにあまり関心をもったことがないデザイナーにリードを授けてしまったというボタンの掛け違いを最後の最後まで何度やっても修正できなった。こんなふうに想像されてもしかたないようなものだった。

じつは、この『TITLE』の系譜は、文藝春秋にとってはちょっとした鬼門で、その不遇は1991年に創刊された『Marco Polo』に始まる。以降、『Marco』も『TITLE』も何度もリニューアルを繰り返すが、やっかいなトラブルもあったりして、結局、新世代の『文藝春秋』になることはできなかった。

しかし、その中にあって、徹底したサブカルチャー路線とコラムに注力した『Marco』の第一期リニューアル、そして発行が軌道に乗り出した初期の『TITLE』、この二つにみられた編集者の異様なまでの熱狂と横溢する文字情報には目を見張るものがあり、雑誌というメディアの原点とひとつの到達点をみた思いがした。ほんとうに毎月の発売が愉しみだったし、スタッフも愉しんでいるんだろうなという状況がひしひしと伝わってきた。ここまで密度の高い雑誌は現在ではあまり思い浮かばない。『サイゾー』が近いような気がするが、これはあまりにもゴシップにすぎる。

最初の『Marco』は、『文藝春秋』の記事をやや硬化させ、デザインを軟化させたようなもの。まさに文藝春秋らしいつくりでオピニオン雑誌としての社命というかオブセッションにとらわれすぎた。ただ、この頃は『月刊ASAHI』をはじめ『DAYS JAPAN』、『VIEWS』、『BART』など、表紙はゴルバチョフかダイアナ妃かといったような、国際ジャーナリズム、社会・政治をあつかう雑誌がたくさん創刊された時期なので、競合対策としてはいたしかたなかったのだろう。いずれも、ターゲットが曖昧である(というか不在)にしても、他誌は妙味と工夫があるなかで、『Marco』はあまりにも無策すぎた。


結局、テコ入れがはかられ、先にふれたサブカルチャー路線へのリニューアルとなる。刷新は、ウィキによるとまったく振るわなかったということになっているようだが、じつはこの時期の特集はけっこうエッジがきいていて、その内容も、そこそこ満足のゆく程度まではつっこまれていた。なにより、大量の文字を巧く楽しくデザインするエディトリアルの手法は、始めて雑誌というものを手にしたときの(たとえば、『TVマガジン』とか『科学』と『学習』、大伴昌司の図解)の期待感をよみがえらせてくれた。

特集テーマは、写真にもあるように「マンガ」「TV(進め電波少年)」「禁じられた映画」「売春」「読書狂」「満州」、さらには「韓国」「女子高生」……と、メジャー出版社としては禁忌とも思えるようなバリエーション。コンテンツは、以前にも少し紹介したけれど、だいたいこんな感じ。

■1993年7月号
□特集:連合赤軍なんて、知らないよ。
▶東大壊滅!入試を中止させた血まみれの安田砦▶永田洋子[獄中イラスト]は少女チック▶過激派'70衝撃のスクープ写真史▶マンガ[我が斗争]/いしかわじゅん▶全共闘は北京原人か/呉智英・大月隆寛・福田和也座談▶70年代闘争警備責任者の極秘メモ/佐々淳行▶[内ゲバ][爆弾][ロケット弾]の現場報告▶▲ロマンポルノ伝説の妖精・片桐夕子インタビュー▶倉橋由美子インタビュー▶甦る寺山修司伝説/高橋源一郎ら
□島田裕巳この罪深き宗教学者よ
□新宿鮫の泳ぐ街/大沢在昌インタビュー
□コラム・連載
▶福田和也のエッセイ▶「殺戮の動物」ポルポト派を精神分析する/野田正彰▶マンガ四角いジャングル(高取英のマンガ評)▶竹野屋書店(竹野雅人の書評)▶銀幕共和国(井上一馬の映画評)▶小山薫堂のエッセイ その他▶マルコウエスト(大阪向けBOOK IN BOOK毎号連載):大阪人数珠つなぎ対談(小米朝→谷川浩司)、黒田清エッセイ他猥雑大阪コラム

とりわけ、細かく寸断されしかし入念な考慮がなされた連載コラム群は、それだけでも豊かな時間潰しになった。編集長が同じだけあって、こちらも女性誌としての冒険がそうとう面白かった『CREA』のスタンスが存分に踏襲されていたということだ。

このあと、2度目のリニューアルとして花田紀凱が手を入れることになるが、言うまでもなく、そこに登場したのは事大な週刊文春であり、コラムの面白さは残るとしても、スクープ重視の特集はまあ『週刊文春』ないしは『文藝春秋』にまかせればよいわけで、個人的にはとりたてて毎月買う必要のない雑誌となっていく。そろそろ買うのやめようかと思っていたときに、トンデモネタを握らされた過度なスクープ主義が致命となる。


そして『Title』の創刊。『Marco』の事件から、しばらく時間をおいたミレニアム。満を持しての登場となる。一見、なんの関わりもないようにみえる二誌だけれども、『文藝春秋』と相対化されたポジションを始め、目論見は近いところにあったと言っていいかもしれない。

大々的なプロモーションがなされていたので創刊号は読んだけれど、かなり総花的でやりたいことがいまいち読めなかったし、そもそも面白くなかった。だから、それを限りに読むのをやめていたのだけれど、しばらくして見かけたときに、つまり運用が軌道にのった頃合の『Title』は、ずいぶんまとまりのあるものとなっていた。そして、その編集の技術と熱狂は、まぎれもなく第二期の『Marco』のものだった。毒書計画の井川遥の起用法なんて、なかなかのもんだった。

しかし、それに気付いたときは、もはや最後のリニューアルの直前で、もうそのリニューアルの企図だけで、ああ『Marco』のときと一緒じゃんと思って腹たって、そのあとの新生『Title』は、毎回いちおうチェックはするものの、仕事で使う以外はいっさい買わなかった。もっとも仕事で買っても、使えねーことが多かったわけだが。

さて、このあと、文藝春秋は、ふたたび『ポスト文藝春秋』に挑むのだろうか。その前に、まずWEB戦略をなんとかしたほうがいいと思う次第。いずれにしても、ずべて表層的な話。

◎うへえ。

2008-06-21 22:46:56 | ◎読
えらいことになってるなあ。

■『決壊 上』平野啓一郎 1,890
■『決壊 下』平野啓一郎 1,890

は、ともかくとして、

■『ディスコ探偵水曜日 上』舞城王太郎 2,310
■『ディスコ探偵水曜日 下』舞城王太郎  1,785
■『われらが歌う時 上』リチャード・パワーズ 3,360
■『われらが歌う時 下』リチャード・パワーズ 3,465
悪漢と密偵より)

全部で14,700円って。アイ・フォーンとか買えるんじゃない。新潮社のなかで何かよからぬものが炸裂した感じだな。パワーズの小説は“The Time of Our Singing”という以外は情報がないけれど、2003年刊行だから『パワーズブック』にも載っていないんだろうなあ。

こんなことなら買うんじゃなかった。文字あふれすぎ。

■『群像 3月号』:『りすん』諏訪哲史…
■『すばる 5月号』:『寒九の滴』青山真治…
■『新潮 7月号』:『ギンイロノウタ』村田沙耶香…
■『文學界 7月号』:『リアリズム小説への挑戦状』…

全部で400円って。マックのコーヒー+パイ=150円以上の生活防衛。きっと献本なんかが放出されたんだろうけど、もしそうなら、このリーチの低さを憂うべきだよ。

いずれにしても、まず、今週末は『幼年期の終わり』を必ず読み終えること。コツコツと消化していくしかねえや。いくら二つの頭を回転させるったて、さすがに小説読みながら企画書は書けないしねえ。

<もっとも明らかな変化は、二十世紀を象徴していた、何かに追い立てられるような世の中のスピードがだいぶゆるやかになったこと>(光文社古典新訳文庫、P139)

オーヴァーロード、降りてきてくれないもんですかね。

◎思いつき、覚書き。

2008-06-19 22:53:50 | ◎読
▶ABCの本店に、『Inter Communication』のバックナンバーコーナー。0号など93年くらいのものもあった。過去のものと見比べると、もちろん情報の愕然とするほどのギャップはあるとしても、やはり昨年来のシーズンは、編集、そしてデザインという点でかなり脆弱。きっと編集者が悪いわけではなく、ようはNTT出版が脱力したんだ、という気がしないでもない。テキスト・コンテンツは高度になっているのかな。

▶相変わらず雑誌。少しは本も買う。
□『BRUTUS 緊急特集:井上雄彦』:ちょうど2週間ほど前から『バガボンド』の大人買いをスタートして、いま15巻。私が追加で語るようなことは何もない。
□『AERA 08.6.23』:どの記事も興味深い珍しい号、B'zと植田監督に関心。
□『デリダ』(ジェフ・コリンズ/ちくま学芸文庫)
□『<宗教化>する現代思想』(仲正昌樹/光文社新書)
□そして佐々木敦のBRAINZの批評家養成ギブス 批評集『アラザル』。
BRAINZに参加した人たちの評論集。玄人素人問わず、文字があふれているところには、あふれているものなんだなあ、ということをあらためて感じる。ときに、まったくわけのわからない文字の洪水に出会うときもあるが、それは文章が上手いとか下手とかいったことが原因ではなく、きっと書いている本人もよくわからない難題と対決しているからなのだろう。そういったわけのわからないものでもなんとか文字にしてみようという格闘はあながち悪いものではない。












▶いくつかの音源をリッピング。『The Best of Radiohead』、『誰がために鐘は鳴るver2』浜田省吾、『Golden Grapefruit』LOVE PSYCHEDELICO、『Toxicity』System Of A Down、『Zooropa』U2、『The Dream Of The Blue Turtles』Sting。しかし、いまは、ほぼ100%といっていいくらいColdplayの『Viva La Vida or Death And All His Friends』だけをヘビーにローテーション。陽気とか命脈のようなものが加わることで迎えたこの新しいフェイズを手放しで礼賛したい。そして、なにより感嘆すべきなのは、すべてに貫かれた「二重の思想」。Viva La Vidaと感じてもいいし、Death And All His Friendsと感じてもいい。Lovers In Japan とReign Of Loveはつながる。LOST!もあるしLOST?もある。それは光と影なのかもしれないし、二つで一つということかもしれないし、ディアローグ、ディアレクティーク、アンチテーゼということかもしれない。そんなに深い考えのないたんなる形式という話かもしれない。しかし、たとえそうであっても、オルタナティブは重要だ。すばらしい。

▶そう、覚醒しているあいだは、二重の思考、二重の回路をいついかなるときでも持ち続けるべきだ。Aの企画を考えながらBの企画をする。Cの仕事の資料をレファレンスしながら、Dの仕事のことを考える。Eを否定するFをつねに想起する。Gの違う側面Hを見つける。Iのことを考えながら、Jを読む。KとLの違いを受け入れる。二回生きる、なんて発想もある。

▶平野啓一郎と新潮の矢野さんのトークイベント。行ってみたいところだが、ちょうどそのころはいろいろとややこしいこととバッティングしそうな気がする。いずれにしても『決壊』は来週発売。ニューアカっぽいが、巧みなブックデザイン。

▶『Marco Polo』『TITLE』『よむ』『03 TOKYO calling』『i-D JAPAN』『DAYS JAPAN』『VIEWS』『BART』『Gulliver』『WIRED JAPAN』など家にある古い雑誌の写真を撮り溜める。時間のあるとき公開していく。ウィキをみると、どうも『Marco Polo』は評判が悪いようだけれど、リニューアル第2期ほど面白いのは、ほかにはないんじゃないか。どうだろう。

▶いずれの話も落ち着いたら追記を。

◎雑誌について考えはじめる。

2008-06-12 23:33:03 | ◎読
仲俣暁生が猛烈な勢いで、雑誌についての論考を公開している。あとわずか高みに登り俯瞰の範囲を広げる必要もあるし、いつものように強引な一点突破の部分も多いけれど、さすがに雑誌のことだけあって問題提起としては面白い。いっそのこと文芸なんかのことは忘れちゃって、この得手な方向に邁進すればよいのに、と思うが、それはさておき、ぼくも少し雑誌についての考えを書きとめておきたくなってきた。

というのも、ここ2週間ばかり本を買っていないのだけれど、気がつけばそのぶん雑誌を買っていて、仲俣とは違い、思慮浅くいまだにその面白さに沸き立つ自分に気付いたからだ。きっと、雑誌の判定に対するハードルが相当低いからなんだろうけれど、この点取り占いにも劣らないスコアの甘さは批評精神の欠如に起因するのか、少し確かめてみたくなった。まず、最近の購入履歴。

『STUDIO VOICE 2008年07月号 特集:本は消えない!』
深夜に、うろが来ている状態でローソンに入ったのがまずかった。ああ、文学フリマの話なんかものっているし、イカした海外の雑誌なんかも紹介されているとの幻覚により、ほとんど中身も確かめずにレジに直行。夢からさめたとたんに、これはもうおっさんの読む雑誌じゃないなあ、と痛感した次第。
まず、タイポグラフィ。著しくリーダビリティを欠いていて老いさらばえた目にはたいへん厳しい。なかにはいくらなんでもこりゃないだろうと思えるあきらかな印刷事故もある。そして、なによりのウィークポイントは一部のテキストに見られる品質管理の甘さだ。このことは、常々言われていることだと思うが、テキストの量が多い号ほど荒さが目立つところをみると、きっと編集の現場はたいへんなことになっているんだろうなあ、と思う。
しかし、これら含めて、いやこんな不遜な態度こそが『STUDIO VOICE』であるともいえ、こんなおっさんを何度もだまくらかす「雑誌としての」パワーはいちおう残存しているのではないかと思える。心構えとかその「雑」感はなかなかのものだし、想定されたセグメントには直球であり、そういった意味では雑誌の基本型であるともいえる。

『群像 7月号』
編集長には申し訳ないが今月は『新潮』をパスした。3年振りぐらいだろうか。さいわい『群像』がキャッチーだったので選んだわけだが、このところ文芸誌は全般的に驚きがなくなってきている。というか、読みたいものが各誌に分散されるクールに入ってきた。文芸誌を90年代から追っかけてみるとコンドラチェフの波のようなものが確実にあって、いまはそういったリセッションの時期かもしれない。新しい作家が生まれていないという考えの一方で過渡的な充電のための蛹時代という見方もできる。いずれにしても、M&Aをあらためてプレゼンテーションできるチャンスが再び訪れたというわけだ。
そんな7月号において、『群像』は、きわめて個人的な嗜好に寄るが訴求力はあった。内容はともかくとして、舞城王太郎はほんとうに久しぶりだし、岡田利規や大澤真幸など最近言及したISBNはやはり気になる(ただし、『群像』は対談の編集やライティングがどうもしっくりこない)。つまり、あるレベルでテキスト好きのセグメントにとっては、毎月・全誌はかなわないとしても、文芸誌はそこそこのバリューは発揮している。

▶『SANKEI EXPRESS 06/09』
もちろん新聞である。しかし、新聞休刊日にも発行されるこれは、じゃあ雑誌とどう違うのか?と問われると答えるのがむずかしい。いまこういった体裁をしたフリーペーパーは確実に増えている。そもそも、MSN産経ニュースやZAKZAKのテキストをふんだんにマルチユースしているあたりからして、記事に、量はもとより深みや複眼的な視点がなく、新聞というには何かが足りない。一方で、大判の写真を中心とした「自然エネルギー」の特集があったり、オバマの勝利と関連づけたロバート・F・ケネディの興味深いコラムもあったり、新聞とは異なる側面もある。そういった雑誌の視点でみると、競合は『AERA』ということになる。こんなこと言ったら『AERA』が激怒するな。しかし、月曜の朝の新幹線の車中では、身体がいまの『AERA』の主軸となっている記事にみられるような、押しの強いものは勘弁願いたい、と訴えるときもあるのですよ。

『CASA BRUTUS  No.100』
「日本の美術館・世界の美術館100」。100号記念の特別保存版だけあって網羅的で、記事のバリエーションも豊かである。これもすでに各方面で言われていることだが、いまやアダルトな『平凡』と化し、失速している本体『BRUTUS』に比べると格段に読みどころがある。アダルトな『平凡』もたとえば、2号ほど前、恒例の「居住空間学」なんかはまだまだ活きているし、次号「井上雄彦」特集のように期待をもたせるテーマアップはうまいんだけどなあ。

『CASA BRUTUS 特別編集』
「ニッポンのモダニズム建築100+α」。2004年版のリ・イッシュー。パラパラ眺めていると、発売当時は気付かなかった「古江台の展望台」や「千里中央センタービル」、「エキスポタワー」、「希望が丘の青年の塔(とうもろこしタワー)」の写真が目に留まる。記憶の建築。一枚の建築物の写真から一挙にあまたの追想があふれ出る。これは、モノとしてアーカイブしておく必要があるとの思いに駆られ落掌した。
あらためて読み出すと、いまさらながら建築物は見ていて飽きないものだ、ということがわかってきた。これはモダン建築に限った話なのかもしれないが、「それでも建っているという絶妙の美しいバランス」「工夫のデザイン」そして「バックグラウンドへのイマジネーション」が、誰もがもつ創造の心とか「なにかを垂直に立ち上げたい」という本能のようなものを引っ張りだしてくるのだろうか。一方で、モダン建築といわれるカテゴリーのデザインが、自分の中でも確実に記憶のなかのものとなりつつあるのにはいささかの驚きを禁じえない。
ともあれ、写真とテキストの豊潤なバランスで「2000円」には少し足りない1500円。ボリウム層が買うような雑誌ではないが、そういった層にもおすすめしたいコストパフォーマンスの高さだ。ただ、さすがにMOOKだけあって、雑誌というより書籍に近い。では、本と雑誌を画するものはなにか。

▶『ROCKS』
深夜2時まで店を開いているセレクト書店(という定義はどうやら正しくなさそうだが)「SHIBUYA PUBLISHING & BOOK SELLERS」には、それこそ深夜、一度だけ足を運んだことがある(そのときはたぶん4時まで開いていたはずだ)。そのセレクトはたとえば90年代ぐらいまでなら垂涎のものだったろうが、ここまで書店のバリエーションが拡がったいまとなっては、月並みのものなのかもしれない。しかし、店舗兼編集スタジオとしての知的創造空間/現場は充分に魅力的で、本が好きな人間なら一度はこんな仕事場で労働にいそしみたいと感じるところじゃないだろうか。
『ROCKS』は、そのSPBSが、編集・創刊したオリジナル雑誌。巻頭言の気骨に感じるものがあり、なかば祝儀として購入。

<「ROCKS」(=生き様の変わらない人たち、の意)は、
安易なプロモーション主義と決別した雑誌だ。
表現したい人だけが集い、新たな価値観がうまれていく場所である。
……(中略)
おそらく広告が、最も入りにくい雑誌の一つだろう。
でも、私は頑張って営業する。
一生懸命に営業する。
だって、この雑誌が好きだから。
でも、やっぱり無理かな……。
どなたか、広告を入れていただけませんか?>


中略の部分でも気概の強いメッセージと現在の雑誌のあり方についての問題提起が続く。もし、ぼくがアラブの王様だったら確実に広告をいれてあげるのだが。

しかし、「"流行り廃り"と決別した20人のROCKSたちが、思い思いに自らの「現在」を表現」というわりには、以下のメンツを見る限りは、決別とまではいっていないように思える。この精神をもってして号を重ねることで、洗練されていくことを期待したい。

[contents]
□創刊特集「気骨の活字」 □芥川賞作家・川上未映子による書きおろし短編小説。 □詩人・谷川俊太郎 × 田中健太郎(イラストレーター)の異色コラボレート。 □映画監督、作家・森達也の語りおろし+取材現場の撮りおろし写真。

[ROCKSによる豪華連載「ROCKS×17」]
鈴木寛(民主党議員)/新井敏記(スイッチパブリッシング社長) /松原隆一郎(東京大学教授)/浅野忠信(俳優 )/ 岡田武史(サッカー日本代表監督)/渡辺一志(映画監督)×泉谷しげる(俳優・ミュージシャン)/古田敦也 (東京ヤクルト前監督)/ 中井美穂(アナウンサー)/野口美佳(ピーチ・ジョン社長)/若木信吾(写真家)/小林紀晴(写真家・小説家)/ 岡沢高宏(cycle代表)/石渡進介(弁護士)/来栖けい(美食の王様)/幅允孝(ブックディレクター)/ドクター・セブン/野口卓也(小説家)/TNP

▶その他
◎『Inter Communication』の最終号は、買っていないし、たぶん買うことはないだろうと思う。期ごとに編集コンセプトと体裁を変えてきたインコミは、とりわけ直近のリニューアル以降、「編集」という意志が働いていないように思えてほとんど読むことはなくなっていた。最終号ぐらいは、と思ったが、それでも読んでおきたいと思える記事がなく手が伸びない。これも特定のセグメントには響くのだろうが、少しアブストラクトになりすぎた。
◎『港のひと』という美しい装丁の出版社PR誌をみつけた。その名のとおり「港の人」という鎌倉にある出版社の出版案内で、すでに5号となっている。自社で創った北村太郎という詩人の『光が射してくる 未刊行詩とエッセイ 1946-1992』の各メディアに掲載された書評を集め再編集するなど(たとえば、週刊朝日に掲載された荒川洋治のもの、毎日新聞に掲載された堀江敏幸のものなど)、ローコスト精神旺盛ではあるが、未知の読者にとってはうれしい、とてもていねいな仕事だ。わずかなページの小冊子ではあるが、ぼくに対しての役目は、立派な書評誌となった。
◎ブックガイドという観点では、東大出版会の『UP 6月号』では、恒例の豊崎由美の「上半期ガイブンおすすめ市」も掲載されていて、短いながらも愉しめる。やはり『ラナーク』と『終わりの街の終わり』なんかは抑えておきたいと読書意欲を喚起された。

こうしてみると、そのビジネスモデルはともかくとして、雑誌というメディアはかくも豊かである。しかし、最後の『港のひと』『UP』に見られるように、もはや金を出して買うものではない、という脅威もある。そして、なによりの本質問題は、今の世界では、雑誌を読むことに費やすような時間は圧倒的に減ってしまったということかもしれない。雑誌について大きな関心を寄せているぼくのようなものでも、買ったは良いが10分ほど斜め読みしてあとは放置せざるをえない雑誌が山積みになっているといった状況だ。
こういった現象に対して、ぼくはなにか素晴らしいアイデアを提言できるほどの知見をもっていない。しかし、雑誌について、話したいことは山ほどある。手始めとして雑誌の記憶を手繰ってみようと思う。