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考えるための道具箱

Thinking tool box

◎小話。

2008-06-04 23:40:36 | ◎読
【1】

「ポピュリスムは今日本のあらゆるセクターで進行している。」


『CHANGE』のストーリーについてふれての内田樹の寸言。ちょっとした警句とアイロニー。あらゆるセクター、と語られているように、ポピュリスムを政治手法に限定せず、大衆迎合主義ととらえるなら、このポピュリスムの要素のうち大きな割合をしめているのが「芸能」だろう。もちろん、ぼく自身は芸能を忌避するものではなく、ウガンダの逝去とか来年の大河のキャスティングなんかを気にする程度にはかぶれているが、それでも、支配者たちの度を超えた芸能への偏りはどうかと思う。

本来的にはオルタナティブであってほしい芸能が、特定の企業とかメディアと運命を共にするほど結託する。支配者の側は、タニマチ気分かもしれないが、芸能の発展のために金は出すけど口はださんよ、といった潔さはいっさいなく、the massesを動かせる才能を限界まで手の者にしようとする。give & take、Win-Winのプロモーションであり、需要と供給の蜜月といってしまえばそれまでだけれど、お互いに自分たちのなかにある知識資産をほとんど信じていないともいえる。そして、だいたいこんなもんで喜んで動くじゃないの?と、the massesを下目に見積もっている。

しかし、どうなんだろう。朝倉啓太が「CHANGE!」と説く自動車のCFをみて、「きゃあ」と乱舞したり、「おーうまい!」「やるじゃん電報堂」と得心するthe massesは、まだ多いのだろうか。「まさにMAGIC!」と、微笑む村田大樹をみて、こっちも思わず微笑んじゃうのだろうか。ちょっとやりすぎ。むしろ、鼻につく。そろそろ、そんな感じじゃないか?

その出自のとおり事業理念はやはり芸能だったのかと思わせる平凡出版の特集雑誌をみて、その思いを強くした次第。ちょっとしたエスプリを気取っているつもりかもしれないけれど、これなら開き直って、その道にまい進している女性週刊誌のほうがよほど潔い。そもそも、PR雑誌はTAKE FREEの時代になっているというのに。


【2】

ブッツアーティの『神を見た犬』(光文社古典新訳文庫)のなかの短篇のひとつ。
純粋で一途な作家が、合理的でイヤみなリアリストの知人スキアッシ教授と街で出会い、詩作や文筆といった芸術活動の無意味性・無価値性をひどく指弾される。

「きょうび芸術なんてもんは、消費の一形態にすぎない。ビーフステーキや香水や藁包みボトル入りのワインとまったく同じなのだ。……きみの書くものはすばらしい。知的で非凡な小説ばかりだ。それでも、歌の下手なアイドル歌手のはしくれにだってかなやしない。」

糞味噌の当てつけが間断なく続く。いくらなんでも言いすぎだ。しかし、アーティストは、たいそう疲れていたため、なんの反論もできずに、スキアッシの言われるがままに、その指摘に納得していき内省し自分のそれまでの活動を疑い始める。まったく気の毒な話だ。

そこに一陣の風、ではない何か。そして、回生。アーティストの思考は、あたかもそれが最後の力を振り絞った一撃であるかのように沼の底から這い上がってくる。次いで、堰を切る。

「……私たちが書き続ける小説や、画家が描く絵、音楽家が作る曲といった、きみの言う理解しがたく無益な、狂気の産物こそが、人類の到達点をしるすものであることに変わりなく、まぎれもない旗印なんだ。……そう、きみが"愚かな行為"と呼ぶことこそが、われわれ人間と獣を区別する、もっともきわだった特質なんだ。このうえなく無益だろうとかまわない。いや、むしろ無益だからこそ重要なんだよ。……詩を書こうという気になるだけでもいい。うまく書けなくても、かまわない……。」

続く反駁、誇りの恢復。しかし、スキアッシ教授は作家の最後の言葉をさえぎり、高らかに笑いながら言う。

「ああ、やっとわかったのか、この愚か者め!」

スキアッシの放言は、道に迷い落ち込んでいた作家を奮いたたせるための激だったというわけだ。まさにMAGIC!

掌編のタイトルは「マジシャン」。文庫本にして、10ページ足らず。ベタな物語だけれど、コンサルティングとして正論ではあるし、なにより創作者としての志を垣間見ることができる。

しかし、この話の趣向はもうひとつある。

「彼とはずっと以前からの顔見知りで、思ってもみない場所でときどき出会う。しかも毎回場所が違うのだ。彼は、私と高校時代の同級だったと言いはるのだが、正直なところぜんぜん記憶にない。」

スキアッシは遠ざかり亡霊のように消えていく。


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予告なくネタばれ御免。ただし『神を見た犬』は、合計21の掌篇で編まれていて、言うまでもなく「マジシャン」のほかにも深みのある話がたくさんつまっている。有名な「コロンブレ」や「七階」なんかはやはり忘れられないストーリーになる。

◎『ポスト消費社会のゆくえ』。

2008-05-28 00:57:38 | ◎読
堤清二/辻井喬と上野千鶴子の対談集『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)が興味深く読めるポイントは2つある。
いまや好々爺となった(フリをしているだけかもしれない)堤清二が、西武百貨店とセゾングループの失敗の原因を一手に引き受け、自身の経営者としての才覚のなさを、かなりシビアに断罪し、あたかも、仕事があんまり好きじゃなくてダメダメ・リーダーだったんですよねえ、なんだか部下とか腹心に話を正しく伝えるのが下手だったんですよねえ、とでも言いたいかのように暢気にうつけ者風に過去を粛清しつつも、しかし経営者としての鋭い見識眼や(早すぎたきらいもある)先見の明は隠しきれず、読む私たちに背筋の凍る思いをさせる。これがポイントのひとつめだ。
百貨店という業態を見る分析眼は鋭いが、やはりどこかで、「これはおれのほんとうの姿ではない」と思っていたのか、文化的遊びに惑い、近江商人にもかかわらず、分析を実行にうつせなかったという風にみえる。

<辻井 はい。この渋谷に賭けた十年間の仕事は、私自身にとっても貴重な体験で、街を変えた、人の動きを変えた、そして社会のお役に立った、という実感がありましたので、まあ、辛いこと、厭なことの多かったビジネスマン時代のなかではいい時代だったと思っています。>

という具合に、厭で厭でしようがなかったわけだ。堤が言う、その厭なことは、90年代に次々に露呈していき、「第三章 1990s~」では、上野もその責任についてぐいぐい突っ込むが、西武セゾングループの(あたかも無策から生まれたかにみえる)すべての失敗があきらかになっていく。西洋環境開発グループの不良債権リゾート(サホロ、タラサ志摩)と不良債権ホテル(ホテル西洋銀座、インターコンチ)、東京シティファイナンス、つかしん、ファミリーマートの売却……そして、これらの壮大な失敗の根本原因は、最終的には、堤清二のパーソナリティにあるのではないかという仮説に帰着する。

そこで堤は、三浦展の「(堤さんの)破滅への願望が、こういう事態を招いたというか、意図的に巻き起こしたというか」という指摘になかば同意しつつ、

<辻井 ……それで、八〇年代に入って、マーケットと自分の感覚との乖離が進んだことを意識するようになってから、自分はキャラクターとして経営に向いていないな、と思うようになりました。それに「お前はもともと経営者(注:父親)に反旗を翻した男じゃないか」という考えが、そこで合流するわけです。……その後、西洋環境開発と東京シティファイナンスの問題が出てきて、……自分の経営者としての責任のあり方は果たして正しかったのか、という自分に対する疑念が次第に大きくなってきました。>

といった具合に、もうズタズタである。こういった疑念に苛まれながら、それでも経営責任を全うしたのはさすがに堤家の末裔ではあるが(正確には全うしきれてはいないが)、やはり心ここにあらずの状態であったということは否めない(この正直さが経営者としての魅力という考え方もあるが)。

しかし、一方で、理念レベルでは、彼の経営や小売業のあるべき方法論は鋭い。たとえば、

<辻井 ……「経営者にとっては、常に自己が否定されるような環境をつくることが、企業の自己革新力を維持する上で必要不可欠な作業になってきている」と「自己否定の論理」を社員に述べているんです。>

といった構えや、当時西武百貨店の責任者として迎えられていた、「西武百貨店白書」の和田繁明の「ファミリーマートを売ることにした」という報告に対し、

<辻井 ……「ああ、そうか。僕ならば、西武百貨店を売ってでもコンビニは残すんだが……」という私の感想を述べましたけれど。>

といった、慧眼とこだわりのない心は、じつは経営について一心に考えていたとしかいいようがない。

ここに見られるのは、言うまでもなく、堤清二/辻井喬という二つの顔の存在であり、二人の人間をつくってしまったそのことじたいが破滅的なパーソナリティといえるのかもしれない。
しかし、じつは、その二つの顔をもつことが、逆にいまこれからの日本の市民として生き抜くためのスタンスではないか、と思えるのが、この本の2つ目のポイントであり、このことは、最終章の「2008」において語られる。堤ほど大きなビジネスに巻き込まれてしまうと二つの人格(人格とは微妙に違うが、いまだ定義できないので仮に人格とする)を持つことは、その持ち方によっては、必ずしも有用には作用しないが、市井のビジネスマンにおいては、この厳しい時代を乗り切っていくための重要なヒントになるかもしれないと思える。

「2008」の章では、二人の人格をもつことの魅力やメリットが直接的に語られているわけではない。しかし、堤としての/辻井としてのさまざまな嗜好事例から、超自我との対話や批評・和解のプロセスにおける自己の相対化、自己否定・自己革新の繰り返しは、閉塞をとどまらせるための有効な「思考」レッスンとなるし、緩い境界線でつながる二つの世界をもつことが、双方の仕事と生活の「技術」を弁証法的に向上させる、ということがよくわかる。

端的にいえば、それほど長くない人生において、一人の生き方では、もったいない。対話ができて、技術交換のできる二人の役目を自分のなかでつくってしまえば、人生をより豊かに過ごせるのではないか、ということである。

じつは、この2つの人格(くりかえすが、正確には人格ではない)の必要性と有効性については、梅田望夫と齋藤孝の対談『私塾のすすめ』の中の梅田の発言に着想を得て以来、ずっと考えている。

<梅田「僕が「好きなことを貫く」ということを、最近、確信犯的に言っている理由というのは、「好きなことを貫くと幸せになれる」というような牧歌的な話じゃなくて、そういう競争環境の中で、自分の志向性というものに意識的にならないと、サバイバルできないのではないかという危機感があって、それを伝えたいと思うからです」>

梅田も話しているが、いまわたしたちがかかえている仕事の量は、たとえば90年代の初めの頃とでは比べものにならないほど増えている。そして、それをこなさなければならない速度も、尋常ではない。だから、仕事とプライベートの時間的な境界は、どんどん非対称になっていく。こういった問題を解決するときに、ワーク・ライフ・バランスなんかがひきあいにだされがちだが、あまりにも建前すぎて話しならない。なにより、発展的でないし、一歩使い方を間違えれば、これは欺瞞に満ちた施策になる。しかし、どちらかに偏ってしまい、趣味は仕事です、仕事が趣味です、なんて言ってしまうのはあまりにも悲しい、というか、そう思っている以上は仕事にとらわれているわけで、よほどハイアチーブな人種でない限りいつかは破綻する。では、どうすれば「好きなことを貫けるのか」。

この先の答を出すためのヒントとして、二人の自分というものがあるのではないか、というところまではおぼろげながら見えていて、もし「知」とか「知への好奇心」といったものが、二人を繋ぐ鎹となるのであれば……

といったところで、わかりにくい話はやめて(※)、堤/辻井の話に戻すと、二つの回路で物事を考えたり、二つの嗜好性で外界の引力に身を委ねることは、それが最終的に虻蜂とらずとなったとしても、面白い生き方にはなる。堤/辻井の場合は、それはある程度のエスタブリッシュメントに支えられてのことだが、小市民的に実践できることもあるかもしれない。辻井がもう少し、面白く小説や詩を書いてくれれば、このことに確証がもてるのだが。

いずれにしても『ポスト消費社会のゆくえ』は、ことのほか面白く読めたが、これはやはり堤清二/辻井喬の自伝であり、もとより自伝は面白いのだが、とりわけそれが同時代的であったためなおさらということだろう。八〇年代について、なにかと遺恨と悔恨のある人なら同じ思いで読めると思う。


※この話は、もう少し熟成が必要だ。というか、登攀口を変更する必要があるかもしれない。また、『私塾のすすめ』についても、既知の話が多いとはいえ、いくつかの議論すべきテーマが語られているので、別の機会に順を追って考えてみたい。

◎「不可能性の時代」の「楽観的な方のケース」。

2008-05-11 15:33:02 | ◎読
チェルフィッチュの岡田利規の『楽観的な方のケース』(新潮6月号)は、そのミニマルなテーマ設定にもかかわらず欠如したリアリティや、ある意味で図に乗った「視点の特異な移動」という作為により、多くの欠点を指摘される可能性の高い小説である。
とりわけ後者については、『わたしの場所の複数』でとった、<遠くの他者を観察する視点≒見えていない他者の思うがままの捏造>という技法を、一段とエスカレートさせて、<他者と一体化しそうな視点≒他者の思考の蹂躙>という手法をとることで、異様な境界線上の人格をつくりあげているように見せてはいるが、そんなアバンギャルドな遊びを起用する必要があるのか?という疑問を呼び起こす。たとえば、

「ドアを開けると、彼が、玄関を見て、ファーストフードなんかのトイレを一回り大きくした程度の広さしかない、と内心で驚きました」

といったくだりは、ある人にとっては誤植にしか見えないし、それが誤植じゃないとわかったとして、面白いか?と問われれば面白くないとしか、こたえようながない。
さらに続けると、次のようなくだりについては、見方によっては、この小説の主人公は、人というもの(他者)を舐めているとしか思えなくみえる。

「アパートに帰ってきて、気持ちがよいので窓を開け放して、ずっとそのままでいると、彼には、さっきまで聞いていた波の音の繰り返しがまだ耳の中で残っているからなのか、今も窓の外から部屋の中に漂い込んできているように感じられ、またそのせいで、さっきも感じかけた、たとえ1Kであってもこれだけ海の近くにある部屋は、空間全体が今あるこの実際の間取り以上の開放感を、可能性みたいな感じで常に孕んでいる、というような印象が、彼の中で再び輪郭を持ちました。それがすべて思い込みに過ぎなかったということは、だいぶあとになって分かりました。」

間違っても、彼はこういったことを彼女に語ったわけではない(テキストとして書かれていることがすべてというわけではない、というテクニックはこのさい無視する)。
ほどよい憑依は、この世界で他者と正しいリレーションを保っていくために身につけなくてはならない分別であり知技ではある。しかし、相対化の能力が欠けていたり、多文化的な理解がなければ、道を謝る。ときに「自分はこうだから相手もきっとこう考えているだろう」というドグマティックな思い込みが人を不快にさせる。

しかし、こういった人格の形成は、以下のような論考をトレースすることで、俄然、現在性をおびてくる。

「われわれは、今や、<不可能性>とは何か、不可能な<現実X>とは何かを、推定しうるところにきた。<不可能性>とは、<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。
 われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き去った、「××」の超虚構化の産物である。こうした、「××抜きの××」の原型は、<他者>抜きの<他者>、他社性なしの<他者>ということになるのではあるまいか。<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限りで、というわけである。」

 
これは、大澤真幸の『不可能性の時代』(※)の言ってしまえばひとつの結語ともいえる部分であり、時代の行き詰まり感や困難性を確かに分析している視点ではあるが、この考え方が、『楽観的な方のケース』の見通しをよくする。

冒頭で触れた、このミニマルな小説のリアリティのなさは社会性・公共性のなさに起因する。たとえば、登場人物の二人がいったいなにで生計を立てているのか?といった話がいっさい取りざたされない。一緒に住むことになった彼にいたっては、どうもウィークデーに街をぶらぶらしながら、パン屋「コティディアン(quotidian?)」で自分の食べたいパンを買って公園なんかで食べている毎日を送っているようだ。だから、ふたりで1Kに住むという乏しい暮らしにおいて、突然、ホームベーカリーのような嗜好家電(趣味家電)への投資が捻出できてしまうことに違和を感じてしまうわけだが、しかし、それ以上に注視しなければならないのは、このホームベーカリーを買ってしまうことで、彼らと社会をつなぐ唯一の窓であるパン屋への訪問回数も減り、二人の社会性がますますやせ細ってしまうことへの懸念だ。結果的には、主人公は(ホームベーカリー購入者にありがちな話だが)将来的にはパンづくりに飽きて、再び「コティディアン」に戻る日が来るだろうと予測しているので、完全に「引きこもって」しまうことはないことはわかるのでなにも心配することはないのだが(というか引きこもったとしても心配する必要ないが)、ここで重要なのは、「<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限り」という思いが向うところのひとつが、大澤も指摘するように「引きこもり」であることだ。

「<他者>抜きの<他者>と出会おうとすれば(中略)、その論理的な帰結は、言うまでもない。「引きこもり」である。引きこもる若者たちが拒否しているのは、まず公的・社会的な関係だけない。」

これに続く指摘が、『楽観的な方のケース』の主人公の他者の視点・思考への勝手気ままな蹂躙という習慣の謎を明らかにする。

「それだけではなく、あるいはそれ以上に、彼らは、私的・家族的な関係を拒否している。彼らが、こうした関係から撤退するのは、単にそれらの関係に組み込まれているというだけで、そこに過度な(彼らへの)攻撃性を感じているからだ。しかし、間違えてはならない。だからといって、引きこもる若者があらゆる関係を拒否しているわけではないのだ。求めている<他者>が不可能なものであるとしたらどうなるかを考えてみればよい」

端的にいって、他者の攻撃性を過剰に病的なまで意識した結果、求めている<他者>のひとつは、自分のような<他者>ということになる。関係を穏便にすませるために<他者>の胸裏を徹底して読もうとしたが、それが結果的には自分のような<他者>を作り出している、といってもいいかもしれない。そういう意味では『楽観的な方のケース』は、現代にありがちな、人間の関係性のひとつのケースをあらわしているといえる。

大澤は別項で、不可能性の時代の端的な現象のひとつである<「現実」への逃避(「現実」からの逃避ではなく)>のあらわれのひとつとして、多重人格(解離性同一性障害)の増加をあげている。多重人格は、一つの身体に二つ以上の人格ということだが、『楽観的な方のケース』の場合は、一つの人格を二つ以上の身体に、ということになり、これも不可能性の時代を読み解くひとつのヒントになりそうな気がする。

もし岡田が自覚的にこのテキストを書いたのであれば、いってみれば「世相を巧みに反映させている」ということになるだろうし、もし無自覚で書いたのであれば、「これこそ(岡田のような人間こそ)が現在の若者のリアルだ」ということになる。だから、ある人にとってみれば、まったくリアリティのない、とりたてて小説にする必要もないなんでもない話だが、ある人にとってはとてつもなくリアリティの高い、意味のある話となる。小説を社会学や心理学のフレームで読み解くのはあまり勧められた読み方ではないような気もするが、それでもこうした観点でみれば、じつは岡田利規のまなざしは、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の二つの小説を含めてたいへん面白いということになる。

しかし、いやいやそんなふうに美しく読み取ってもらったら困りますよ、という意地悪な仕掛け-新たな移動視点-が最後の最後で登場する。彼の視点における新たな視点による見えるはずもない風景だ。

「彼が傷の痛みと、手の甲の情けなくなってしまった見た目に気を取られて消沈しているうちに、トンビは、早ばやとコロッケパンを食べ終えたのか、それとも海の中にでも落としてしまったのか、今や気流を拾って上昇していました。それよりも遥かに上空を飛んでいるジェット機から、タンカーが海面に付けた航跡が見下ろせました。その航跡の形状が、彼の手の甲に今できたばかりの傷と、似通っています。」

やっかいなテキストだ。だから、視点の問題は、ほんの手慰み、遊びであり、ほんとうに伝えたいと思っているのは、世間的には傍流と思われているような私たちだって、なかにはセカイ系なんて呼ばれる人もいるわけですが、世界のこと(社会、公共のこと)を何も考えていないわけではなく、いろいろ考えたすえに「楽観的な方のケース」を選んでいるわけです。だいたい、どれだけ主流が気張ったところで、世界的な小麦の高騰を起こした首謀者をあぶりだすことなんてできないところを見ると、考えているのも考えていないのも同じじゃないの、ということかもしれない。そんなことより傘がないことのほうが大切だ、なんて昔からあった考え方じゃないですか、と。


(※)岩波新書は1000番以降の新赤版で、たんなるベストセラーにおもねらない名著をいくつか提起しているが、大澤真幸の『不可能性の時代』もそのひとつになる。耳を折っているページもたくさんあるので、そのテキストを書き写すだけでも充分に意義がありそうな気がするけれど、その作業はまたの機会に。

◎『ディアスポリス』のつづき。

2008-05-06 19:52:04 | ◎読
ところで、『ディアスポリス』が面白いのは、長崎尚志の原作とプロデュースに拠るところが大きいのだろうが、これはすぎむらしんいちの力を最大限に引き出しているということなんだろうと思う。まったくの憶測にすぎないけれど、久保塚や阿さんのキャラクター造形にはすぎむらの発想がずいぶん活きているのではないかという仮説をたたせることも可能だろう。長崎のヒントを核としてすぎむらが想像をどんどん拡げて人間としての幅をもたせている、もしくは長崎があらかじめつくったフレームをすぎむらが具体的なアイデアでジグソーパズルのようにひとつずつ埋めていっている。そんなイメージだ。まあ、長崎の名義が「脚本」なので、そんなことはまったくない、といった話かもしれないが。

あくまでも想像の話として、もし、そのような原作者(≒プロデューサー)と作家の関係であるとしたら、これは『あしたのジョー』におけるちばてつやと高森朝雄/梶原一騎の関係に近いものだろう(もちろん、ちば/梶原の場合は、それほど平和的・協業的ではなかった)。

これは『巨人の星』の川崎/梶原の関係とは真逆だ。よく、往年の名作マンガとして『あしたのジョー』と『巨人の星』は対等に並べられることが多いが、原作マンガを読めば、あきらかなように2つのマンガのクオリティの差は歴然としている。アニメーションのインパクトにより、世間的には『巨人の星』のほうが人気は高く、それに伴ってレベルも高いように過大に評価されているようだが、原作マンガのほうは、言ってみればかなり稚拙で粗雑である。そこまでは言い過ぎかもしれないが、それでも、とりたてて入り組んだストーリーもなく、なにかと事大できまりの悪い感動を暴力的に押し売りされているような印象はいなめない。言ってしまえば、これが梶原一騎の原作をいっさい変えずにそのまま絵にした結果ともいえいる。

それに比べて、『あしたのジョー』は、ぼくごときが言うまでもなく、抑制の効いたリアリティのある物語で、それこそ、大人が何度でも読み返せるマンガとなっている。もっとも、それも力石徹との対戦のあと、つまり物語の後半(矢吹丈のフィジカル/メンタルな成人化にともなって登場していくるカーロス・リベラ、金竜飛、ハリマオ、そしてホセ・メンドーサとのカード)のほうが格段に味わい深いところをみると、ちばてつやが、矢吹というキャラクターを自分のものとして動かしたくなり、(三顧の礼をつくして)原作者の縛りから解き放たれたことが重要だったんだろうと思える。ちなみに、このエントリーを書くために『あしたのジョー』を読み返し始めたら、もう何十回も読んでいるにもかかわらず、あっと言う間に1時間ほどが過ぎてしまった。

クリエイティブにおいては、やはり複眼の視点と多元的なアイデアを、弁証法的にかぶせあうというプロセスは大切だ。浦沢-長崎の場合は、いくつかのTVプログラムや雑誌の対談記事をみている限りでは、そういった対話が活発であることが予想できる。そもそも長崎の出自が編集者ということもあって、これはごく当たりまえの話かもしれない。少なくとも、原作者から玉稿を拝読するといった隔絶感はないんだろう(この際、長崎のややこしい噂話はおいておく)。

現在、連載中の『ディアスポリス』では、8巻でお披露目のあった新しいキャラクターが新しい対立要素となっているようで、これも楽しみだ。単行本を心待ちにする漫画が少なくなってきているので、長崎/すぎむらにはぜひ蜜月を続けてほしいもんだ。あ、心待ちといえば、『海街diary』はどうなってんだろう?さすがに1年待ちはきついな。

◎『死神の精度』。

2008-05-06 01:57:54 | ◎読
解説の沼野充義ほど内輪褒めはできないけれど、それでも、『死神の精度』は面白いと思えた。どちらかというと、エンターテイメント(系と仮に定義されているジャンルのもの)は、それなら映画とか漫画でいいじゃんということで後手に置くことが多かったし、そもそもリアリティとか心理・思考の機微へのラフさに馴染めないことが多く、いくら話題といわれている物語でも、最後まで読み通すことができなかった。

これはストーリーが先行することを宿命づけられている、そしてブロックバスターが期待されているエンターテイメントではいたしかたのないことで、ジェットコースターの速度を淀ませるようなノイズは誰にも求められていない。だからノイズこそ味じゃないか、と感じたとたんに、これはテキストとして読まなくてもよいなあ、と思えてしまうわけだ。

伊坂幸太郎のこの物語も、きっと無理だろうなと思いつつも、ページを捲り始める。確かに、冒頭は地の文における不要とも思われる比喩や、会話の文における過剰な説明要素が少し気になり挫けそうになった。しかし、読み進めるうちに、これは主人公である死神の千葉が書いている/語っている文章なんだな、と思えた瞬間に、その違和感は消えていった。

物語のメインストーリーは死神が人々の終焉を判断・認定するための調査員として人間に化身し下界におりてくるというもので、対象者の生活へのコミットとそこで起る事件の解決に面白さがある。そこで繰り広げられるアイデア・絆の話こそが、『死神の精度』が多くの人に読まれている理由だろう。しかし、それだけならぼく自身は読み継ぐことはできなかった。読了を支えたものはなにか?

「事件の解決」とは書いたが、正確には事件はただ成り行くだけで、平和的な回収という視点ではほとんど解決しない。死神・千葉の存在が事件の落着の決定的な鍵を握るというわけでもない。彼はただ、そのいきさつを「人間のような」感情と了解をもたずに見つめるだけだ。この楳図かずおの『おろち』のような傍観者的な狂言まわしの眼差し、そしてその眼差しの人間との微妙なズレ。この妙味が読了を支えた。死神が感じる人間存在への違和。とりわけ、人間が普段なにげなく使っている「言葉」に対し(とくに比喩的表現)、千葉がいちいちクエスチョンを投げかけるところは面白い。自動化への戒め、つまり沼野も指摘するこのちょっとした異化のような表現の試みに惹かれた。
そして、テキスト上のおおげさな比喩表現は、それが死神の調査報告書であると考えたときに、彼の言語トレーニングの一環ということになる。そう思えた瞬間に、違和感が解消された、ということだ。

伊坂の比喩表現は確かに巧みではあり、多くの例で、正しく喩えられているという点では死神の一人称の物語のなかで多用されることのリアリティのなさを指摘するべきなのだろうが、それは完成度の問題だ。もし、すべての小説表現が、死神の異化された言葉で書かれていたなら、『死神の精度』はまた違った位相の小説となり、より興味深いテキストになっていたに違いないとも思える。しかし、そうなってくると、どこの書店でもたやすく手に入る小説ではなくなってくる。少なくとも平積みはされないし、重版は待望されない。

伊坂幸太郎の小説には、こうした人間の能力の増幅/減退により異化を与えることをサブストーリーとしているものが多いらしい。それがあまりにも荒唐無稽でない限り、読み続けることができそうだ。と思って、早速『陽気なギャングが地球を回す』と『陽気なギャングの日常と襲撃』を入手してみた。

◎『ディアスポリス 8』。

2008-05-02 00:54:08 | ◎読
俺が『ディアスポリス』を、しばらく読み続けようと思ったのは、当時、裏都庁の助役だった阿さんの活躍により、影の警察(Shadow of Police: SOP)の強力な使者を打ちのめしたエピソードを読んだときだったと思う。もし、そのエピソードがなければ、たとえ、主役の久保塚がどれほど魅力的だったとしても、ここまでこの物語にしがみつくことはなかっただろう。

そのころ阿さんは、害虫駆除を表の職業としていたわけだが、SOPを粉砕する手段として仕事の成果物であるスズメ蜂の巣を起用した。なんだ、このどうしようもない男(実際に、やる気もなんの甲斐性もない冴えない中国人?)は、丸腰で久保塚が拉致された敵のアジトに向う気か?しかもスズキのマイティボーイなんて80年代丸出しのどうしようもない車に、同じくさえない久保塚の部下・鈴木だけを従え乗り込むなんて!その無謀さを案じていたところに、極厚のビニル袋に包まれた生きたスズメ蜂の巣が登場した。そして、阿さんはスズメ蜂の習性を巧みに利用しながら、久保塚を奪還し、それだけでなく敵のボスキャラとやり手の部下を一掃する。この普段は体たらくで、やるときはやるといいつつも、なかなかやらず、でも最終的にはやるキャラクターの知恵と勇気にひとかたならぬ魅力を感じた。

もちろん、久保塚だって同じようなキャラクターともいえる。しかし、システマを修得して以降の久保塚はちょっと格好良すぎる。もうどんな強敵にも負ける気がしない。だいたい、主人公である以上は、いくら無気力を気取ったところで、規定を裏切る予想外のことなんてめったにないだろう。それに引き換え、阿さんはあいかわらず、邪悪な側面を前面に出し続け、このたびも裏都庁の都知事選において権力におもねるいやな異邦人を演じ続けた。いや、演じ続けたというより、本気で裏都庁による覇権と利権を手に入れようとしていたのだろう。

しかし、この男は、情と正義に限りなく弱い。弱すぎる。その理由が、今回の、例によって前都知事奪還の暗躍の中で明らかになっていく。これまでも、いずれかのタイミングで、阿さんの過去の影は見え隠れしてはいたが、その壮絶なまでの正義感、そして故郷に残してきた家族への慈愛と情愛は、ここまでのものだったのか、というエピソードだ。俺はその一部始終を知って、心が震えた。本を読む手がしばらくとまった。阿さん、おまえはなんという男だったんだ、と。

もちろん、今回の事件-裏都庁と影の警察の総力戦-を解決に導いたのも阿さんの機知と胆力だ。前都知事のコテツだってすばらしい男に違いないが、しかし、いまとなっては阿さんにこそ、裏都庁の新都知事を任じたい。『異邦都民は……全員あたしの家族よ!その命を脅かすおまえらに人の道 説かれる筋合いない!!』と、涙を流しながら本気で叫べる男はほかにいないだろう。

しかし、残念ながら阿さんは、その想いを手に入れることができなかった。無念で非業だ。悲しすぎる。ただひとつの救いは、朦朧とした意識のなかで、阿さんのどうしようもない祖国に残してきた、しかし場合によってはもはや不帰の人となっている可能性もある秀麗を迎えにいけたことかもしれない。阿さん、安からかに。

◎また、今日も飲むか。というか飲んでます。

2008-04-27 17:31:06 | ◎読
少し時間の余裕はあるけれど、バイタリティが低下しているので、ほぼ記録メモ。

[01]『不可能性の時代』大澤真幸(岩波新書)
もちろん岩波新書だから『恋愛の不可能性について』なんかに比べるとはるかにわかりやすい書き方であるし、面白い。「不可能性の時代」まで、あと数ページ。こんなの書いているよりも、一刻も早く読書に戻りたい、というくらいの面白さがある。もし、学生の頃に、これが(日本の)社会学というものです、と紹介されていたら、きっとそっちの方向にはまっていただろうし、社会学が参照しなければならないものに文学があるということに気づいて、たとえばそれが『九十九十九』のようなものであれば、いく道がすいぶん変わっていたに違いない。というか、見田宗介のような先生にあっていたら、ということか。

[02]『巨匠とマルガリータ』ブルガーコフ(河出世界文学全集)
文学全集では、『オン・ザ・ロード』に続いて2冊目。ブルガーコフは始めて。この本で名前を知った。比較的、本を読んでいるほうだとは思うけれど、まだまだ知らないことが多い。あたりまえだ。

<焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告通りに首を切断される。やがて、町のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から〈巨匠〉の物語が奇跡のように蘇る……。>

なんてことを言われたら、クリックするしかないじゃないか。しかし、夜中の0:00前にクリックしたものが翌日の昼の12:00に届くなんて、みんな働きすぎだな。

[03]『名もなき孤児たちの墓』中原昌也(新潮社)
[04]『死神の精度』伊坂幸太郎(文春文庫)
[05]『子どもは判ってくれない』内田樹(文春文庫)
ブックオフ江坂で。伊坂は当家の書棚に初お目見え。なんか読まないような気もするけれど、題名のかっこう良さだけがずっと気になっていたので。中原と内田は、買ってから、あれ?すでに読んでいたっけ、と不安になってザッと本棚を確かめたけどどうやら買ってはいないようだった(もっとよく確かめたらあるかもしれない)。内田は多筆なので、きっとかぶることもあるだろうけれど、中原はなあ、と思うも、よく考えれば、細かい短篇掌編を相当書いているので読んだ読んでないなんていいだすと混乱する。きっと『名もなき孤児たちの墓』に収められた短篇も半分以上はどこかで読んでいると思うが、いちいち覚えていられない。

[06]『AERA 08.5.5 創刊20周年記念』
まあなんちゅうかいやらしい記事が多いな。「昭和上司カイゼン計画」とか「グッとくる上司の部下への気配り」とか。人間というものをすぐに分類したがるのはAERAの悪いくせだ。奥田民生の「現代の肖像」が面白かったので『記念ライダー1号 ~奥田民生シングルコレクション~』『記念ライダー2号 ~オクダタミオシングルコレクション~』を自宅のPCからipodに吸い上げておく。あと数曲で4000曲。一連のパフィのプロデュースはELOがアンダーレイだったんだ。

[07]『少女ファイト 4』日本橋ヨヲコ(講談社)
バレーボールのようにきわめてミニマルで、かつ観戦に耐えないスポーツを描いてここまで面白くかけるものか、と思う。もちろん、場外の物語に負うところが多いわけだけれど、合間合間にはさまれてくるバレーボールの技術論がかなり的を射ているところ、そしてバレーボールという6人+αのチームを運営していくための組織(配置)論のプロバビリティが『少女ファイト』を支えていて、ずっとバレーボールをやってきた人間がじゅうぶんに楽しめる。あと、トータルなクリエイティブコントロールがうまく行えているのも、このマンガが気持ちいい理由のひとつだろうと思う。

[08]『大日本人』
wowowでやっていたので。おおむね不評のようだけど、そんなに悪くはないんじゃないかと思った。同時代の原風景がうまく映像として具体化されていると感じたところがひとつ。もちろん、これは昭和の時代の話を描いているわけではないのだけれど、それでも絵の端々に、僕が子供の頃に見たような記憶のあるなつかしい情景を感じることができた。もうひとつは、オチについて、さまざまな解釈ができるところ。くわしいレビューを読んだわけではないので、どんな解釈がされているのかわからないけれど、なんか面倒になったとかお金なくなったといったようなどうでもよいネタ的な見方から、やっぱリアルなほうが痛いやろう、といったベタ的な見方まで。数多くの解釈ができ、観たあと本意についてあーだこーだとあれこれ話し合いができるという時点で、それは映画として成立していると思う。あとはUAの喋り方がよかったなあ。
wowowでは『大日本人』放映の前日に『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』も流していたが、これはもう凄まじい出来なので、その天才的な発想についてのデフォルトがあったから贔屓目ができたのかもしれないけれど。

大型連休が始まったようで、月曜日は休もうかなあとチラリと思ったりもしたけれど、やっぱり出社することにした。なんせ昭和上司ですから。

◎『monkey business』と野球。

2008-04-23 13:07:37 | ◎読
『monkey business』が、予想していたよりも格段によかったと感じたわけは、「野球」だ。言うまでもなく。野球のことを真摯に、もしくはファナティックに書いた言葉は、なにものにもかえがたく面白い。だから、ぼくは、もし通勤のために毎日50分間電車に乗っているんです、といったような人ならきっとスポーツ新聞は欠かさず買うと思うし、もし一週間のうち三日ぐらいは17:30にタイムカードを押せるような余裕のある立場の人であれば、きっと帰りの電車用に、たまには『週刊ベースボール』や場合によっては『月刊GIANTS』なんかも買っているかもしれないと思う。(※)

そこに書かれた言葉に、ちょっとしたトリビアやアイロニー、さらにあのときはこうだったよねえといった少年時代の昭和の思い出なんかがはいってくると、こんなの読んでる場合じゃないなあと思いつつもやめられなくなる。だから、小川洋子と柴田元幸の対談は、たとえ小川洋子が圧倒的な虎だとしても充分に面白かったし、詩人が語る野球へのコンセプトはその詩人の野球に対する方針がいっさいわからなくとも、かなり楽しく読めた。

残念ながら、現実のプロ野球は、今日現在そのセントラル・リーグの順位表を見る限り、(きわめて個人的に)あまり喜ばしい状態ではなくなっていて、しかも、そういった残念な姿をスタジアムやテレビの前でそれこそ浴びるようにビールを飲みながら、そして悪態をつきながら観戦できるような時間的余裕もないため、まことに遺憾である。そう考えたとき、野球観戦こそが幸福の尺度のひとつであり、その後の予定や気にするべき重大な問題などをいっさい抱えていない心持ちで観戦に臨める状態をいかに創り出していくかということに、もっと心血を注がなければならないと思う。

今日たまたまスポルトをみながらその思いをますます強くしたわけだけれど、一方で、ああそういえば例年この時期はだいたい信じられないくらい調子がよくて、シーズンが終わりに近づくにつれてだんだんグダグダになっていって、あまつさえいったんは優勝していながら最終的に優勝できないなんて、ふつうでは考えられない体たらくなシーズンもあったよなあ、と思い返せば、四位といったポジションはバランスがとれた良い状態なんじゃないかとも思える。同時に、往年のタイガースファンの気持ちに少しでも触れることができているんじゃないかとも思う。

言うまでもなく、これはジャイアンツのことを書いていて、そしてもうひとつ言うまでもなく、近頃はどうもジャイアンツを推すことがあまりスマートではなくなってきた。そうでなくても、じつはスワローズファンですとか、ホエールズ時代から横浜ですなんて言えるほうがなんとなく野球をよく知っているような格好良さがあり、逆に、野球のことをよく知らない人間がにわかでジャイアンツファンをやっているような印象があることも否めないわけで、ますます分が悪い。じっさいに、禁煙ファシズムに対して抗う言葉は山ほど繰り出せたとしても、ナベツネバッシングに対して抗う言葉はあまり見つからない。いち巨人ファンとしても確かにそう思う、としか言いようがない。

そこで、自虐的で極私的なジャイアンツ改造計画なんかを考えてみるわけだが、そういったことを往年のタイガースファンのように飲み屋で談義できるのは、見方を変えれば野球の愉しみがひとつ増えたともいえるかもしれない。そうでも考えないとやってられないじゃないか。しかし、いくら考えてみても、鳥谷が欲しいなとか、ダルは巨人向きだなといったアイデアしか思いうかばない自分の発想の貧困さというか、巨人思考にあきれてしまうわけだ。

ところで、『monkey business』は野球の話だけではなく、柴田訳の『バートルビー』をはじめとして、かなり面白い文章を集めている。とりわけ、岸本佐知子のちょっとした言葉遊び-「二月-三月 分数アパート」-にあるアイデアとワーディングにいたく感心してしまった。たとえばこんな感じ。

<二月四日
「分数アパート」なるものの噂を聞く。二階建てで上下に五個ずつ部屋が並んでおり、たとえば上の階に警官が住んでいて下の階にも警官が入ると、相殺されて両者が消える。上の階と下の階で赤ん坊が生まれれば、赤ん坊だけ消える。山田と山田、もちろん消える。一見何の共通項もない三十五歳のアルバイト店員の男と十六歳の女子高生が消えて、二人が共に靴下の匂いフェチであることが判明。いつなんどきどういう共通項で消されるかわかったものではないので住民は戦々恐々として気が休まる暇がない。そんなアパートが都内のどこかにあるという話。>

<二月十五日
必死ちゃん失踪。私が名前をつけて愛するものはみな消える。
夜焼酎。人からもらった「乾燥ドリアン」を開封、二秒で密封。>

<三月十五日
何が面白いのか、腰の弟が上機嫌ではねている。びたんびたん。>


日記の絶佳。


(※)ちなみに『週刊ベースボール5月5日号』の特集は「出る! つなぐ! 走る!一、二番最強ツープラトン」。タイトルだけでも垂涎。いっぽう『月刊GIANTS』は「待ってたぞ NEW HERO 2008年 飛び出した19歳 坂本 勇人」と、当然だけれど、かなり閉鎖的というか、どこ吹く風的というか。これしか、純度の高いネタがないということなんだろう。グライシンガーなんか特集してもなあ(小特集はあります)。

◎ストレスがたまっているようです。

2008-04-19 22:20:46 | ◎読
飲みすぎ。なにかイベントがあって飲むのはよいとして、なにもなくても飲んでいる。なにかあって飲むときは、それこそ記憶がなくなるまで飲んでる。自転車でぶっこけたりもしてる。それでもいちおう家には帰ってきているし、吐いたりはしないので、まだまだ飲めるってことだろう。べろべろになっても蒸留酒なら半永久的に飲み続けられます、ってなもんです。これまで、酒は強いし好きですとどちらかというと豪語していて、さすがにずいぶん弱くはなってきたけど、嗜好のほうはますます強大化して、目の前にあるそいつをいっさい拒むことはできない。鹿児島の焼酎天国にでも行って、2日ぐらい入りびたりたいもんです。どうですかSOUさん?

▶音楽
[01]『ACCELERATE』REM
[02]『My Dear Friend /The Very Best of Curly Giraffe』
[03]『ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"』浜田省吾
[04]『CORNERSTONE』styx
[05]『Breaking Hearts』Elton John
[06]『Too Low For Zero』Elton John
[07]『The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle』Bruce Springsteen

[01]REMを新譜で買うのはきっと『Out Of Time』以来のこと。「Supernatural Superserious」とか「Accelerate」が耳について離れないのは、きっと身体が気に入っているということだ。こういうのを聴くとやっぱりギターはかっこういいなあと思うわけです。
[02]うちの奥さん推薦。音楽の嗜好が天と地くらい違うので、まあいつものようにどうかねえと思って半信半疑で聴いてみたところ驚愕。とまでは言い過ぎだとしても、そうとうなもんです。掘り出しました。iTunes界隈をはじめ、知る人ぞ知る、ということらしい。一説によると、ジャック・ジョンソンが好きな人にはおすすめ、なんてことを言う人もいるそうですが、全然違います。むしろザ・ビートルズとかじゃないですかね。「Gentle Tree」とかね。こういうのを聴くとやっぱりギターはかっこういいなあと思うわけです。
[03]買ったはいいけれど、忙しくてなかなかフルで見る時間がとれない。ちゅうか時間があれば飲みに行っているからなんだけどね。センターステージ編、「My Hometown」が聴きどころ。「初恋」は悪くはないんだけれど、3バージョンもいれるくらいなら「On the Road」がほしかった。フェスのパフォーマンスはけっこうよかったと思うんだけどなあ。特典映像とか細かくみたらどっかに入っていたりするのかね。でもそんなヒマねーか。
[04]なんだかんだ言っても、Styxは、『Paradise Theater』と、この『CORNERSTONE』だけ。たまたま入ったタワーレコードでようやく見つけた。ようやく、といってもこれまでとりたてて必死になって探していたというわけでもないので、まあ、どこにでもあったということだろう。「BABE」なんてくだらないヒットチューンはどうでもよくて、「BOAT ON THE RIVER」そして「LOVE IN THE MIDNIGHT」を聴いて、古き良き80年代の産業ロックに歓喜。
[05][06]80年代といえばElton John meets MTVということで、この2枚も忘れられない。ちょっとよくわかんないですが、一般的にイメージされているエルトン・ジョンとはいささか異なる名曲がたくさん収められているような気がする。それこそ20年ぶりぐらいに聴いてみたけれどかなり面白い。エルトン・ジョンものりのり。もし、こういうのだったら、それ以降の音も聴いてもいいかなと思うけれど、どうなんだろう。きっとだめなんだろうな。そんな気がする。
[07]ほんとうに残念なことだけれど、E-Street BandのDanny Federiciが亡くなってしまった。癌だそうだ。彼のオルガン、そしてアコーディオンがなければ成立しない曲がたくさんある。「Point Blank」や「Wreck on the Highway」を寂しく美しく支えたのもきっと彼の音だろう。彼の泣きのオルガン、キーボードがあったからこそ、「夜」のブルース・スプリングスティーンがあったともいえ、それがブルースの魅力の大きな部分を占めていたと言えるかもしれない。ほんとうに残念だ。
#
ところで、6月にはコールド・プレイの新譜『Viva La Vida or Death and All His Friends』(これがなんで『美しき生命』なんて邦題になるんだ?)、そして8月にはなんかようわからん斉藤和義のベスト『「歌うたい15」SINGLES BEST 1993~2007』が予定されている。音楽は何かを乗り切っていくためのマイルストーンになりえる。じゅうぶんに。今年は、どっかの夏フェスにでも行ってみようか。サマソニ?コールド・プレイもでるようだし。


▶本・雑誌
[01]『衆生の倫理』石川忠司(ちくま新書)
[02]『ACADEMIC GROOVE』(東京大学出版会)
[03]『monkey business 2008 Spring Vol.1 野球号』(ヴィレッジ・ブックス)
[04]『真夜中 No.1』(リトルモア)
[05]『小説論 読まれなくなった小説のために』金井美恵子(朝日文庫)

[01]石川忠司には全幅の信頼をおいているが、そのピンスポットな博学につき、今回の話はよくわからん。ただ、現代の事象をなにか幕末になぞらえてみようといった中途半端なトンデモをやろうとしているのではないことはわかるので、もう少しつきあってみようと思う。もちろん、お楽しみ「俺の注釈」つき。しかし、西郷隆盛や大久保利通を最大限に尊敬していると言い切るなんて、石川はやっぱり面白い。ちょうどこのクールは大河『篤姫』もみているのでなんか関係してくるか。いやしてこないだろうな。
[02]まあ、せいぜいあんな本だろうなあと、思っていたらこんな本ででたので驚いた。東京大学創立130周年記念出版、東大が世に贈る「学問のおもしろさ」を伝える本。ものすごい衒学的なビジュアル・グラビア誌。手に取りやすそうにみえて、その実、あたりまえだけど難しすぎる話もふんだんに。日本語翻訳ライブと称して、自身の小論文に詳解を加えていくページがあり、その哲学編として「フッサールの後期時間論における生き生きした現在への反省について」を榊原哲也という准教授が語り解題しているのは、わからんなりに面白かった。もちろん柴田教授も「趣味と学問」なんてテーマで対談しています。
[03]その柴田元幸が責任編集の文芸誌。それだけならスルーするところだけれど、「野球号」というテーマ、そして柴田による『バートルビー』の抄訳でなく全訳が掲載されているので抑えました。結果的に、うちには『バートルビー』の訳が3つもあることになる。しかし、柴田教授、こんなことに全面的に首つっこんでいて『Mason & Dixon』の訳は大丈夫なのか。
[04]こちらもいちおう文芸誌。微妙なところだけれど、堀江、保坂、古川、小野、福永、宇野邦一で、いちおう買う気になる。しかし、こんな文字ばっかりの、しかも完全にエンターテイメントではない文芸誌ばかりだして売れるんだろうか。いずれにしても、たとえ敗北であったとしてもそこにある出版社、雑誌編集者の気概を感じる。やっぱり、行動がすべてだ。
#
ところで、先週、大西巨人のNHKの特番(『神聖喜劇ふたたび~作家・大西巨人の闘い~』)をみてから、『神聖喜劇』をふたたび読み返している。言うまでもなく面白い。なんというか東堂の超人的な記憶力というのは、かっこういい。西島秀樹が、東堂のイメージとうまく一致していて、そういう視点で読むとなお面白い。ちゅうか他にも読まなければならないものいっぱいあるのに。真剣に、集中・選択戦略を策定しなければならない。といいつつも、NODA MAPの「キル」とか観てる。あと、『巨匠とマルガリータ』もなんとかしたい。いま注文しよ。

◎『ファントム、クォンタム-序章-』。

2008-04-07 23:41:51 | ◎読
パラレルワールドとか、2つの世界の時空を超えた交信、ちょっとした結界による双方の干渉がもたらすインシデントなんていうのは、これまでも相当なバラエティをもって物語化されてきた。もちろん、パラレルワールドの起源や、交信ができる理屈についても様々な持論が用意されてきた。
例えば、こういうのもそのひとつだろう。手を開いてそして握ってみる。1秒にも満たないわずかな時間におこなわれたこの行為は、この世界では1つのパタンしか確認されなかったけれども、じつは、開閉の間に∞の「かもしれないバリエーション」をもっている。小指が微妙に遅かった、人差し指の入射角が0.003°ほど右よりだった、そのとき欠伸をしていた……、といったバリエーションだ。1/∞の秒数の間に∞の行為パタン。そしてそれぞれのパタンがまた∞の選択肢をもつ。0or1だけならわかりやすいのだが、そうではなく、0と1の間にある選択肢が無限に自動的に生成されている。そして、そのそれぞれが並行世界でありうる。

東浩紀の新しい小説『ファントム、クォンタム-序章-』(「新潮」5月号)は、いってしまえば、そんな今となっては古典とでもいわれてしまいそうなSFであるかのようにみえる。だいたい「量子の亡霊」なんてハリウッドの題材だ。だから、面白いか、面白くないかといえば、面白くないわけがない。先を急がせる物語も、工夫のある表現も、流れを淀ませない形式もしっかり組み込まれている。多少なりともリアリティのある博覧強記も披露されていて、騙されている気がしないでもないが、なるほどとも思わせる。メタフィクションとまではいかずとも、自己キャラクター化が垣間見え、メタフィクション的な楽しみの余地もある。文体にも企図がみえる。インテリジェンスと通俗が横溢している。

ある意味で、ウケる要素を組み込んだ、マーケティング小説、小説マーケティングといえなくもない。しかし、あくまでも長篇小説のほんのさわりの部分なので、そのからくりに結論をだしたり、東浩紀がこれを書く意味は何なのか?と問うのは不毛だ。

ただなんとなく思うのは、小説を書き出した東が小説を書くという行為の虜になりつつあるんじゃないか、ということだ。真摯にかつ楽しんで書いているようにみえる。語弊があるとしたら、苦労を楽しんでいるようにみえる。もちろんいまはまだ、「小説という表現技法だけが伝えられることもあるんじゃないか」といった事大なことは毛頭考えてもいないだろう。あいかわらず、小説とか文学への距離はおいていて、おいているけれどもまあ本気で書く気があるなら誰でも書けるものだから四の五の言わずに一度書いてみたら?と、四の五の言っている文芸批評家を牽制しているだけなのかもしれない。ひょっとしたら、小説というものを骨抜きにしてやろうと思っているのかもしれないし、逆に「どう?小説って死なせたり生き返らせたりするもんじゃないでしょう」と本作のキャラクター・葦船のデビュー作を選考した文芸評論家にベロを出したいだけなのかもしれない。

しかし、この序章から想定されるだけの分量のテキストを書き終えたときに、いったんは東浩紀は小説家になる。その後は、そのエクスペリエンスをもとに、徹底的に小説家・東浩紀を相対化するかもしれない。一方で、倒すために腹に入った鯨に飲み込まれてしまうことだってある。いずれにしても、ひとつ言えるのは、東のこの行動は、確実に小説の蘇生に加担しているということだ。これは、けっして悪いことじゃない。

◎ピンチョン、その2。

2008-04-05 17:18:25 | ◎読
id:BaddieBeagleさん、ココロさん、そしてピンチョンの威勢はすごいっす。なので、もう少しくわしい情報を。
「トマス・ピンチョン コンプリート・コレクション(仮)」。あくまで(仮)のようだけれど、これが全集の正確なタイトル。2009年春刊行開始で、その発刊ペースなどは不明で「順次刊行」。元訳があるのも多いし、ずいぶん前から翻訳にかかっていたといわれているものもあるので、マルケス全集ぐらいのペースでは出て欲しいところ。

■『V.』:小山太一訳[新訳]
■『競売ナンバー49の叫び』佐藤良明訳[新訳]
■『重力の虹』佐藤良明訳[新訳]
■『スロー・ラーナー 』佐藤良明訳[新訳]
■『Mason & Dixon』柴田元幸訳[訳し下ろし]
■『Against the Day』木原善彦訳[訳し下ろし]
■『ヴァインランド』佐藤良明訳[新装版]

『ヴァインランド』は、池澤夏樹の「世界文学全集」とかぶるので、時期によっては同じ佐藤訳の3種類が書店に並ぶ可能性もある。一挙にインフレ。
『Against the Day』の木原善彦は、あまり聞かない名前かもしれないけれど『トマス・ピンチョン 無政府主義的軌跡の宇宙』という本を京都大学学術出版会から出していて、これは一応論文っぽいんだけれども、『メイソン&ディクソン』までの批評というか分析がかなり巧く賢くまとめられているので、コンプリート・コレクションの前に読んでおくと、その読み方が正しいかどうかは別としても、かなり有効なガイドブックになるんじゃないかと思う。なにより読み物として面白い。もっとも木原は『UFOとポストモダン』なんて、いかにもトンデモっぽいけどそうじゃない本なんかも出しているので、訳したものを読んだことはないけれど、そういった離れ業には充分に期待できるような気がする。ちなみに『Against the Day』は、有名な山形浩生のレヴューとか、散見するあらすじを読む限りでは、もう滅茶苦茶に面白そうなんだけれど、実際に本物を読んでみるときっと、エキサイティングでも、面白くもなく、それどころか、やっぱりわけがわからないんだろうなあと思うので(だからここであらすじをまとめることもできない)、こういったところも木原がなんとかしてくれたらなあ、と思う次第。まあ、それよりまず柴田&佐藤の共訳といわれていた『メイソン&ディクソン』だな。しっかり併読栞ひも2本つけてね。しかし、ちゃんとでるんかなあ。


◎ピンチョン。

2008-04-04 18:12:56 | ◎読
『考える人』の春号の特集は「海外の長篇小説ベスト100」。重い荷物がある移動のことを考えてその場では買わなかったけれど、これは抑えておいてもいい。教条的ではあっても面白いものは面白い。
立ち読みしていて、意表をつかれたのは本編ではなく、新潮社の広告。なんでも、ピンチョン全集の刊行を開始するらしい。2009年春から。すべての著作、といっても『ヴァインランド』以外の6冊---『V.』、『競売ナンバー49の叫び』、『重力の虹』、『スロー・ラーナー 』、『Mason & Dixon』、『Against the Day』---が、佐藤良明を中心とした新訳で登場する。とりわけ、『Mason & Dixon』は、10年以上の待望だし、そんなことだから『Against the Day』なんかは死ぬまでに読めないんじゃないか、と危惧していただけに、うれしい限りである。これで、将来の愉しみができた。そのために、脳老化防止を怠ってはいけないと思う次第である。しかし、あいかわらず文学が活性化している。これは、ちょっとしたブームじゃないだろうか。なんだろう。体が無自覚に求めているのかな。

◎雑誌。

2008-04-04 00:37:15 | ◎読
たとえば、新幹線にのると、ものすごい春休み感とそれにともなう多幸感が充満していて、ずっとその世界の違いを感じ入っていたわけだけれど、此岸もようやく少しだけ状況が沈静化してきたので、いろいろと吐き出していけるようになりそうだ。東京もすいぶんあたたかくなってきたし。

[01]『PLANETS VOL.4』第二次惑星開発委員会

近頃の雑誌のありようについて、まるで通り魔のように、しかし鈍い刃を振りかざしている人がいるが、そもそも、ダメな雑誌はダメで、いいものはいい、という状況は、それこそ、ずっと昔から続いているわけだから、そんなに直情的にならずもっと悟性をもって批評したほうがよいんじゃないか、と思う。それ以前に、いいものを探してきて、褒めるほうが、気持ちいい。この通り魔がもつようなちっぽけな原理主義が、売り言葉に買い言葉みたいな感じで、きっと戦争とか抗争のトリガーになっているんだろうなあ。くわばらくわばら。
そういった事態のなかで見つけることができた「PLANETS」。同人誌とかミニコミ誌というカテゴリーにあたり、配架されている書店も限られているようで、ぼく自身も、この「vol.4」で、存在を始めて知った。文学特集。多分露出もそれほど多くないと思われるので、コンテンツを列挙してみると…

□東浩紀の功罪 インタビュー
□川上未映子 インタビュー
□前田司郎  インタビュー
□特集 「文学」なんて、知らない
・惑星開発文芸MAP2008  宇野常寛
・大森望インタビュー
・前田塁:市川真人インタビュー 
・文芸評論家ミシュラン
□追悼・小阪修平 ――思想家と表しうる希有な存在の死
・小阪修平氏を偲んで ――竹田青嗣、橋爪大三郎、加藤典洋
□東京ストレンジウォーク
□自主映画人{ハチミリアン}たちの想いをのせて ~『虹の女神 Rainbow Song』
□2010年代の想像力たち
・漫画家・シギサワカヤ
・映画監督・岡太地
□がんだむ講談顛末記
□サブ・カルチャーとしてのV系入門
□PLANETS SELECTION 2008
□愛と青春の惑星開発すごろく2008
□巻末鼎談 サブ・カルチャー最終戦争リターンズ2008
・中森明夫×宇野常寛×更科修一郎  
□その他、評論&コラム

ということで、かなり読みどころがある。玉石はあるとしても、全体としての「雑」感は絶妙なバランス。主宰の主観が横溢しているから、彼が聞き手となっているそれぞれのインタビュー記事も、メジャー雑誌にありがちな木で鼻をこくったようなのになっておらず、ゆるさと危うさを楽しめる。なにより、小説とか文芸への情熱、そしてそれらを相対化できる諦念とが同じレベル漲っているし、それがゆえのシーン・状況の把握度合いも正しく、そういったものが「文芸評論家ミシュラン」とか「惑星開発文芸MAP2008」に確度高く現れているところをみると、ここで書かれていること(というより宇野常寛は)じゅうぶんに審級のひとつとなりえると思えてしまう。いずれにしても、好きなことを、一定の倫理観をもって好きにやっている姿をみるのはやはり気持ちいい、よきベンチマークになる。

[02]『早稲田文学1』(早稲田文学会/早稲田文学編集室)
[03]『WB vol.012_2008_spring』(早稲田文学会/早稲田文学編集室)

「PLANETS」の難点は、アートディレクション。少なくとも、老眼の兆しが見え始めた人間にとって、タイポグラフィのリーダビリティがあまり勘案されていない。編集デザインも、ミニコミということで、あえてベタにしているのかもしれないが、もう少しはアイデアがあってもよかったかもしれない。それに比べると、今回、グラビアなんかもついちゃった、一年ぶりの「早稲田文学」はフリーペーパーの「WB」とのプチ・クロスメディアも企図されていたりして、その設計も含めた「デザイン」の完成度はずいぶん高い。

●side A
□Kishin×WB 篠山紀信
□戦争花嫁 川上未映子
□ちくわのいいわけ 田中りえ
□第22回早稲田文学新人賞受賞作
牢獄詩人 間宮緑
□新人賞選考後インタビュー
「誇りを持って引き籠れ!」中原昌也
□切腹の快楽 伊藤比呂美×星野智幸
□センチメンタル温泉 萩田洋文
□青之扉漏 向井豊昭
□農耕詩(冒頭)クロード・シモン 【訳・芳川泰久】
□追悼 アラン・ロブ=グリエ特集
・生成装置の選択について アラン・ロブ=グリエ
・秘密の部屋 アラン・ロブ=グリエ 】
・追悼のような、少し私的な解説 芳川泰久
・タキシードの男 蓮實重彦
・新宿のアラン・ロブ=グリエ 中森明夫
・ロブ=グリエの死の報道から 小林茂
・ロブ=グリエについて(再録)平岡篤頼
●side B
□批評の断念/断念としての批評 蓮實重彦
□快楽装置としての身体――バルト/ウエルベック 福嶋亮大
□「当座のところ殺さない力」に関するいくつかの見解 水谷真人
□「ロボット工学三原則」と日本国憲法
――「日本人」の条件(1)大杉重男
□ぷふいの虚体 島田雅彦
□ロリータ×チェス=? いとうせいこう×若島正

いうまでもなく、市川真人/前田塁の手腕がフルに発揮された、批評空間とのミクスチャー。なにより、イン歯ーで川上を捕まえられたのが大きく、また、中原を一人選考委員にすえるといった工夫が、ぼくのような野次馬の購買意欲を喚起する。といいつつも、いまだ1行も読めていないので、この週末なんとか時間をとりたいところだ。あ、未来の約束は果たせたためしがないなんて最近言ったばかりだったわ。

[04]『ユリイカ 4月号 詩のことば』(青土社)

3月号の「新しい世界文学」特集も冒頭の若島正らの鼎談くらいしか読めていないのに、もう4月号がでちまった。いまでは2ヶ月連続で『ユリイカ』を買う、なんてことはめったになくなってしまったけれど、最近すこしだけ「詩」がわかりかけてきたので(=詩を書くための言葉の選び方のようなもの、なぜそういったことに詩人はドライブされるのかといったようなこと)とりあえずおさえてみた。
しかし、まあここまでの3冊すべてに川上未映子が登場しているというインフレ感はどうだろう。人手が足りないとみるのか、文学界があほなのか、異能の登場に沸き立っているのか。この消尽で、川上の持ち味が枯渇しないことを祈るばかりだ。もっとも、いま現在では、そんな兆しはみられず、テンション高くがんばっているようではある。『アスペクト』の連載の一回休みは残念だけれど。
いずれにしても[01]~[04]まで、まじめに読もうと思ったら優に3ヶ月はかかるな。
じつはこれからも、柴田元幸責任編集の『monkey business』や、リトルモアの『真夜中』とか、文芸誌の創刊がひかえていて、ある特定の趣味嗜好の人にとっては、雑誌はまだまだ捨てたものじゃない。その役割を充分に果たしている、と思う。と、同時に、文学界隈のこの賑わいはなんだろうとも思う。


[05]『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』村井 則夫(中公新書)
[06]『芝生の復讐』ブローティガン(新潮文庫)

雑誌に塗れながらも、いちばん時間を割いているのが[05]。けっしてニーチェの核心に迫るものではないけれど、気軽な感じで面白く読める。ニーチェはどう読んでも誤読であり、その点で、このまたひとつの新しい誤読を前にして、いま一度『ツァラトゥストラ』を誤読通読してみようという動機にかられる。
『芝生の復讐』は、とりえず表題の掌編だけを読んでみたけれど、喜劇的な描写が楽しく、ブローティガンって、こんなに愉快なのも書くんだ、と感じ入る。芝生の復讐によって、車が家に激突する、その音が、まるで寸劇の効果音のように聞こえてくる。

◎決壊の決壊。

2008-03-08 23:44:03 | ◎読
▶平野啓一郎の『決壊』が完結した。いや「決壊」した、という言い方のほうがあっているかもしれない。期待を裏切ることのない劇的な結末だった。まだ、なんらかの体系な感想は書けるとは思えないので、この最終話“permanent fatal error”の最終章が、とりあえず、読者としてのぼくにあたえた現象だけを書きとめておく。

▶予定では、品川-新大阪の道中のうちの1時間くらいで読めてしまうだろうとたかを括っていたのだけれど、結果的に、完全に読み終えるまで、京都に着く少し前までかかってしまった。昨夜の睡眠が浅かったため途中で睡魔の手に落ちてしまったということもあるが、それ以上にそもそも魔と闘わなければならないほどの、「読みがたさ」があったというのが大きな理由だろう。最終章にもなっているにもかかわらず、まだ登場してくる新たな他者たち。誰も聞いていないよ、とでもいいたくなるようなエピソード(壬生実見の展覧会)の挿入。それまでの流れをスムーズに受け、話を安定したかたちで発展させていく、というところに、小説のリーダビリティがあるとすれば、とりわけこの最終章は、定石をかなり意図的に壊しにかかっていると思えた。一部には、『決壊』はリーダブルだという意見もあるようだが、部分的に、それは往々にして「会話」にみられることが多いのだが、舌を巻くほど読みがたいアーティクルがみられる。その集成がこの最終章だろう。

▶一行一行が大きな意味をもつため、それを読み飛ばしてしまうと、話が大きく転調してしまい、状況というか、わけがわからなくなり、何回も読み直しても事情と感情の変化がみえにくくなってしまうところが数箇所ある。どちらかというと精読に近いかたちで読み進めているにもかかわらず。これはいったいどうしたころだろう?最近、『ペット・サウンズ』のような超絶的に読みやすい本ばかり読んでいたからだろうか?

▶その答えは、読み進めるうちに、徐々にわかってきて、結末において確証となる。これは、精神が破綻した人間の言動を活写しているからなんだと。そこまでいかずとも、自刎の予兆にとらわれてしまい、そのために精神がズレはじめている人間の、ある意味で「意識の流れ」だからなんだと。数限りなく挿入される崇の場違いで奇妙な笑いはそのあかしのひとつだ。読みながらじっさいにぼくは、クエンティンのあの有名な徘徊の1日を思い出してしまった。どんどんと内に入っていって収縮していく人間の心。この錯乱を読みとこう(書き尽くそう)と思えばとうぜん難渋になる。「わからなさ」は「異常さ」だったのだ[*1]。

▶その果てにある決壊は、きわめて衝撃的な表現技術である。その瞬間を書きとめた言葉は嘘ではあるが、無上の嘘だと感じた。「そのとき」は、きっと、こういうことなんじゃないか、という蓋然性の高さが身体におちた。脈々と続いてきた大きな物語を断ち切るにふさわしい言葉だ。だからこそ、読み終えた後、しばらくの間は、これ以外のいっさいの文章に集中することができなくなってしまった。同じ『新潮』には、古井由吉の新作や宮沢章夫、小野正嗣の久しぶりの小説が掲載されているにもかかわらず、まったく頭に入らない。もうひとつ手元にあった『文學界』の十一人対談「ニッポンの小説はどこへ行くのか」もなんかムカつくばかりだ[*2]。これがぼくが受け止めてしまった2つめの現象である。

▶読むためのリハビリテーションが必要で、読み終わったあとも現世への復帰の手続きが必要になる。これが、言葉で書かれたということを、いまはとりあえず称えたいと思う。
おそらくこの大きな物語は限りない詠嘆・称賛と、とめどない攻撃・論難をもって受け止められるのだろう。今後、できる限り時間をみつけて、できる限り「作品論」として『決壊』のことを考えてみたいと思う。

[*1]このことをつめるために崇と室田の対話をもう少し読み解く必要がある。「罪と治療」「病と治療」、そしてICD-10などの考え方に、崇じしんが絡めとられてしまったということだ。
[*2]ようやく復帰できたのが、中原昌也の第一声のダルさのおかげであり、たかだか対談の言葉とはいえこれもまた凄いことではある。ちなみにぼくが連載で読んでいた小説を単行本でも落手するのはまれなことだけれど、きっと『決壊』については、手元におくことになると思うが、同時に、やはり『ニートピア2010』も買っておくべきだと最近強く思うようになってきた。

◎佐々木敦の『絶対安全文芸批評』。

2008-03-03 21:33:42 | ◎読
ちょっと最近は話がストレートすぎるな。しかも生硬だ。なんかダメだ。ほんとうは、もう一段上のところからみて、身軽にひらりとやさしくのりこなせないかな、と思う。もっと、いろいろと……って、何日か前に書いたじゃん!!しかし、このことを再び思い知らせる本が出た。佐々木敦の『絶対安全文芸批評』。装丁なども含め、「軽さ」にあふれている。しかし、その軽さは80年代の浅慮で軽薄なものとはひと味ちがう。原理に拘泥することなく、それがだめならこれ、これがだめならあれとどんどん出てくるカード。そういった意味でのフットワークの軽さだ。もちろん、これは佐々木の悟性と感性と拠り所と筆力に負うところが大きいが、いっぽうで、ゼロ年代に入って、あきらかに前世紀末とは異なる文学の「多彩な確かさ」のようなもの(もちろんすべての小説が確かさを取り戻しているというわけではないが)の影響もあるのではないか。

考えてみれば、阿部和重以降の文学について、概括した文芸批評集は、これまでトンデモ本のようなものしかなかった。そこで無理やり試みられた体系化や構造化のようなものは、キンキンになって格好はつけてみたものの、少ないファクトと独善的な誤読、網羅性の欠如により明らかに破綻していた。そんな停滞を横目に、ほんのジョークのようにだされた『絶対安全文芸批評』は(というより佐々木敦のけっして派手ではないこの数年間の批評活動は)、少なくとも、「まず大量に読む」というアプローチその一点だけでもほめ称えられるべきじゃないだろうか。そして、闇雲に非難するのではなく、まず評価してみる(褒める)という態度から、生まれる批評はこんなにも建設的で次代のヒントにあふれているのだ。

くりかえすけれど『絶対安全文芸批評』は見事であり、佐々木敦の「文芸誌好き」という趣味、というか姿勢の表明におおいに組みする。重い話を軽くさばく。しかし軽さのなかにさりげなく埋め込まれている重量級の想い。経験にとらわれることのない柔軟なパースペクティブ。しかし、経験がものをいう広角な守備範囲。そこに散りばめられた語彙は、たとえテクニカルなものであっても、けっしてスノッブにみえることはない。ときに挿入されるのは、小説への愛着のあるやさしいひとこと。文芸誌の外から書いているからという理由で「絶対安全」と称している、この相対化こそが、『絶対安全文芸批評』の確かさを担保している。いまこのよくわからない時代において、召喚の可能性が見え隠れする「文藝」を詳解する本としてその試みを手放しでほめたい。なんだかテンパって足踏みしていた(けっして文芸担当ではない)批評家がきまり悪くみえてくる。
この本についてはいずれもうすこし手厚く考えてみる。どうやら『エクス・ポ』を買わざるをえない雰囲気になってきた。

そのほか、亦候・無闇・矢鱈と本を買い込んでしまっているので、読むんの忘れんようにメモだけ。あいだに『ウェブ時代5つの定理』みたいな本が入っていくると、いちおう決めてはいる順番のようなものがよれよれになってしまう。

[01]『絶対安全文芸批評』佐々木敦(INFASパブリケーションズ)
[02]「生の一回性の感覚」加藤典洋(文芸時評・朝日新聞0227)
[03]『視点をずらす思考術』森達也(講談社現代新書)
[04]『蝶のゆくえ』橋本治(集英社文庫)
[05]『知識デザイン企業』紺野登(日本経済新聞社)
[06]『成熟と喪失』江藤淳(講談社文芸文庫)(古)
[07]『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ(集英社文庫)(古)
[08]『ヘーゲル「精神現象学」入門 』加藤 尚武(有斐閣選書) (古)
[09]『デジタル類語辞典第5版』
[10]『ペット・サウンズ』ジム・フリージ/村上春樹(新潮クレストブックス)
[11]『ティファニーで朝食を』カポーティ/村上春樹(新潮社)
[12]『ユリイカ 3月号 新しい世界文学』(青土社)

▶ときに暴走するトンデモさ加減は脇に置いといて、加藤典洋の文芸批評にまつわるコンセプトの立て方は[02]においても、あいかわらずキャッチーである。今回のテーマは「(文学とは)生の一回性の感覚」。筒井康隆の狂気『ダンシング・ヴァニティ』、穂村弘の『短歌の友人』、東浩紀の一連の(非)干渉(「小説と評論の環境問題」、『ゲーム的リアリズムの誕生』)を軸に。ちょっと思うところもあるので抜書きメモだけ。なかにある「棒立ち」の感覚というのがちょっとよくわからないので穂村の原典にあたること。
(※佐々木敦からの流れで読むと、トンデモ批評家の正体は加藤のように読めてしまうが、そんなことはない。着地は別として加藤のアプローチは信頼に足る)

「(映画ソラリスでは)死の不可能性が逆に死の意味をありありと感じさせる……」
「反復によって笑いのめし打ち消した果てでなければもはや『生の一回性』の哀切な表現は、言葉では作りえない……」
「『たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう』(今橋愛)。穂村はこんな若い歌人の歌をあげ、この歌は『殆ど棒立ちという印象』だが、その『過剰な棒立ち感』にいまは『奇妙な切実さや緊迫感』が宿っている、と言う。「棒立ち」とは想いと『うた』の間にレベル差がないこと。その背後では世界観が素朴化し、『自己意識そのものがフラット化している』。……」
「物語内での読解ではなく、物語外の関係性を含んだ環境的な読解へと進み、ゲーム的リアリズムともいうべき第三の読解のレベルを作り出さなければいま広義の文学で起っている『生の一回性』をめぐる先鋭的な試みは取り出せない。」


▶[03]は一気に読み終えた。森達也を読むのはじつは始めて。九条二項の話などは、文化遺産にするという話より、蓋然性が高いと思われた。しかし、耳を折ったのは残念ながらそこだけだった。▶[05]の考え方をもとに、ながしかのビジョンを明文化していきたいと考えている。紺野の考えとは多少なりともズレがあると思うけれど「知識デザイン企業」という、ワードは、なにかワクワクするものを想起させる。▶[07]はなにも河出の世界文学全集版がでたばかりのいま買わなくてもいいんだけどね。▶待望の[09]。これによりさまざまの遅滞がおおきく改善する模様。これほど確度の高い類語辞典は、リアルの辞典では発見できない。▶よくわからないけれど、村上春樹の訳文がとっても馴染んでいるような錯覚を受けるのが[10]。まさに村上春樹の良質な音楽エッセイのようだ。“I Know There's An Answer”と“Hang On To Your Ego”の関係なんかがわかってなかなか面白いんだけれど、でもきっと村上春樹訳じゃなかったら読まなかっただろうから、またまた彼に感謝しなければならない。▶その日たまたま『バートルビーと仲間たち』が書店で見当たらなかったので、とっても見当たりやすかった[12]を一連の村上春樹とあわせて落手。徳用が充満していて、たいへんパフォーマンスが高い。『ユリイカ』はこうじゃなくっちゃ。