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考えるための道具箱

Thinking tool box

◎見城徹の警句。

2011-07-27 23:22:05 | ◎読
『憂鬱でなければ、仕事じゃない』から、少しだけ。

「こと仕事においては、小さなことでくよくよしなければ、相手の心は掴めない。ましてや大きな仕事など、できるはずがない。」

「そもそも電話をかけるというのは、非情にぶしつけな行為だ。
相手は何をしているかわからない。何か重要なことをしている最中かもしれない。それを中断させてしまうのだ。受話器を取らせたうえで、否が応でも話させる。
僕などは、作家に電話をかけることも多い。相手が執筆中のこともあるだろう。筆は一種の流れに乗って運ばれるものだ。流れを切ってしまうのではと、いつも冷や冷やする。」

「僕は、断言する。パーティを好きな人に、仕事のできる人はいない――と。パーティ好きない人は、要するに、そこに出席している自分に酔っているか、有力な人物と知り合って、それを武器にしようとする人である。」

細心。想像力。他者に対する臆病ともいえる畏れ。強引なマッチングへの懐疑。ここでは引いていないが、精神的に踏みとどまるための身体の鍛錬。勘違いしそうだが、どう考えても、ストイシズムとかマチスモではない。

◎学習の要諦。

2011-07-18 13:20:14 | ◎読
センゲ博士の『学習する組織』(改訂新訳版) http://t.co/cK8Lb63 で紹介されている晩年のデミング博士の言葉。こういった認識が学習とか組織を持続可能にしていく要諦だと思うんだけどなあ。

「私たちのマネジメントの一般的体系は職場の人たちを破壊してきた。人は生まれながらにして、内発的な動機づけ、自尊心、尊厳、学びたいという好奇心、学ぶことの喜びを備えているものだ。しかし、それらを破壊する力は、幼児期に始まり――ハロウィーンの仮装大賞、学校の成績、そして「よくできました」の金星シールなど――、大学卒業までずっと続く。職場では、人もチームも部門も、ランクづけされ、上位なら報酬がもらえ、下位なら罰が待っている。目標管理制度(MBO)やノルマ、奨励金や事業計画は、部門ごとにばらばらに積み上げられ、わからないものやわかり得ないものまで含め、ますます多くのものが破壊されていく。(デミング博士)」

後から知ったのだが、デミング博士は「総合的品質管理(TQMまたはTQ)」というほとんど使わなくなっていた。ツールやテクニックのうわべだけのラベルになってしまったと考えていたからだ。本当にやるべき仕事は、短期的な業績改善ばかりを求める経営者のざめざすところを超越したところにあるのだ。この変革には、現代の組織ではほとんど活用されていない「深遠なる知識」が必要だとデミング博士は考えていた。


この「深遠なる知識」が、センゲ博士の言う、学習する組織の5のディシプリン(①システム思考 ②自己マスタリー ③メンタル・モデル ④共有ビジョン ⑤チーム学習)に、ほぼ直接的に対応しているということらしい。

◎内田樹、ご存じですか?

2011-06-26 16:07:50 | ◎読
ご存じですよね。もちろん。えっ?ご存じない?。じゃ、以下、『最終講義 生き残るための六講』(技術評論社)より引用。

「人間は私利私欲を追求するときに潜在能力を最大化する」とほとんどの人が信じている。だから、努力した人間には報償を与え、努力しなかった人間に処罰を与えるというシンプルな賞罰システムを導入すれば、すべての人間は潜在能力を開花させると思っている人がたくさんいます。文科省の役人なんか、ほとんど全員そう信じている。そんなわけないじゃないですか。そういうシンプルな人間観で教育政策を立案してきたから、日本の教育制度はここまで崩壊しちゃったわけですよ。人間というのは自己利益のためにはそんなに努力しないんです。だって、どんなに努力しても、それで喜ぶのが自分ひとりだったら、そもそも努力する張り合いがないじゃないですか。(……)知性のパフォーマンスを向上させようと思ったら、自分以外の「何か」を背負った方が効率的であるに決まってます。」

小林秀雄、桑原武夫、鈴木道彦と続く伝統があったわけですけれども、この人たちは本業のフランス文学研究とは別に、そのつど政治経済の問題、文化の問題に関して、鋭い批評性を発揮してきた。どうしてそんなことができたのか。知識があるからじゃないです。(……)にもかかわらず適切な知見を語ったというのは、彼らに自分たちは「生もの」を扱っているというはっきりした意識があったからだと思うんです。医療の現場と同じです。目の前にこれまで見たことも聞いたこともない「現実」が出現した。そういうときにそれを既知に還元して、「ああ、これはいつもの『あれ』だよ」と「想定内」に織り込んで安心しないで、これは一体何だろう、どういう「未知のパターン」を描いているのか、どういう法則性に従って生起していることなのか、それを考える。そして、そういうときに難しい問題であればあるほど、それについて十分な情報がない現象であればあるほど、オープンハーテッドな気分で、控えめな敬意とあふれるほどの好奇心を以て、それに向かってゆく。

新型ウィルス患者だけは発熱外来という別の窓口で受け付けて、医療資源を分散することには何の合理性もない。その話をうかがって、僕はどきどきしたんです。ああ、これは「現場の人」からしか出てこない言葉だなと思いました。これまでの来歴の物語ではなく、視野が未来に向けられているから。「何でこうなったか」よりも、「だから今どうするのか」の方に身体が前のめりになってる。もちろん、感染経路や疾病歴だって大事な医療情報です。でも、「原因がわかった」ということを「治療する」ということの間には千里の逕庭があるんです。そして、医療者の主務は「治療すること」なんです。


ごくごく常識的なことを語っているため、「そうそう、それそれ!」と納得性も高く、それが多くの読者に選ばれている理由だと思うが、逆にみればそこで思考を停止させてしまう語りでもある。だから、これらテキストは、もうひとひねり敷衍して深みにはまる必要がある。たとえば、先の引用を、いまの仕事や組織に当てはめて考えてみたら?「自分以外の何か」って何だ?とか、「生もの」ってどういう事?とか、言葉を出せる「現場の人」ってどうやって見つける?とか、「想定内に織り込んで安心」するためにシステムを作っちゃうんだよな、とか。

こういう読み方ができる人と、いっしょに事を成したいものだ。そうじゃない?

◎たとえばこんな小説ならどう?―『こちらあみ子』今村夏子

2011-06-15 23:34:21 | ◎読
[A]たしかに「あみ子」は愛おしい。恐怖や悪意はひらりとかわされ、すぐに忘れられてしまう。世の中には楽しいことが多いし、工夫のしがいがある。おかしもおいしいし、TVもおもしろい。そんなふうにばかり考えているあみ子は健気だ。

[B]しかし、このあみ子の世界を現実的な視座から見渡すなら、いうまでもなく非情で悲惨な毎日の連続である。きっと平野啓一郎の言うようにだれもが「まず医療や社会福祉を通じての救済を考えるだろう」。あみ子が覚えているかぎりの家族の来歴においてすら、犯罪といっても過言ではない社会的病理のオンパレードである。実際に、無垢なあみ子の目を通じてすら、最悪の暴力は漏れだしてしまう。

<父が布団をかぶって眠る母を一度見た。「お父さん?」それからあみ子に近づいてきた。右腕を伸ばし、その先の手のひらで父はなにも言わずにあみ子を押した。左の鎖骨あたりをとん、もう一度同じ場所をとん、とやられたら、体はもう両親の寝室の外にあった。>

これはキツい。断言するが親が子に絶対にやってはいけない暴力である。たんなるフィジカルコンタクトであるだけでなく、疎隔の申し渡しなのだ(実際にこのあと家族は解体する。それも「引越し」という希望のある言葉に洗浄されて)。どれだけあみ子のフィルターでぼかそうとしても、そしてその意味は決してあみ子には理解できなかったとしても、事実は表現を抑制できない。
だから、平穏で幸福にみえるあみ子の現在は、私たちの現実の目からみるとかなり残酷なものに違いないし、未来になんの展望もない。確実に助けが必要である。

[A]でも、ほんとうにそうなのだろうか。虚構上のファクトとしてあげられたあみ子の日常だけ、まさに「それだけ」をみたとき、あみ子はとても幸せそうだ。嫌なことは1日たてば忘れてしまえる世界。わからないことはわからないとスルーできる世界。すべての隣人を好意をもって迎えられる世界。他者との本質的なかかわりから隔絶した世界はこれほどまでに心地よい、とも捉えられる。手を差し伸べることで、この世界が壊れゆく可能性があることは否めない。「どういう名であれ、人々が現実に幸福な社会ならいい」という考えに沿うなら(見田宗介)、この小説の表層におけるあみ子の捉え方は正しい。この幸福は、これはこれで尊重しなければならないという観点で正しい。

[B]ただし、(話がジグザグで申し訳ないが)もちろん彼女の幸福感を免罪符に蓋を閉じてしまうことは、社会(市民)的に正しいわけはない。

[C]が、そもそも[A]と[B]を比べる以前に、[A]にしろ[B]にしろ、『悲しき熱帯』で立てられた問題に通じる不遜と傲慢だ、という発想もあるかもしれない。愛しいとか切ないとか[A]、救わなければ[B]、なんて、いったいどこの誰の立ち位置なんだろうか(これはちょっと高度な問題。『こちらあみ子』後半に登場する男子の対応が近いのかもしれない)。

正義は、[A]か[B]か。それとも[C]か。そしてそれは善か?小説の技術が巧みなため、軽くさわやかに見えてしまうこの小説は、やっかいで深い問題をこっそりわたしたちの前に立てた。そして、立てるだけではなく、物語をつむぐプロセスにおいて、おそらく無意識のうちに問いへの回答のヒントも提起した。これこそが『こちらあみ子』の非凡なんだろう。

[D]そのヒントは「好きなように生きな。でも何かが損ねられたら私が助けてあげるよ」、という全人的で他我的な語り手の立ち位置である。この悲惨な小説が安心して読める理由もここにある。もちろんすべてを与えることなど肉親でなければできないし、肉親であっても危ういのはこの小説でもあきらかだ。口ではいえるけれど、いざ問題に直面したときに敢然と立ち向かえる人間なんてだれもいない。きっと、この語り手だってそうだろう。あくまでも小説内のジェスチャーに過ぎないかもしれない。
この非現実な夢想をどうみるか?語り手(作者)には、社会的弱者を見る目が足りないとみるのか?それとも、ここに救済のための、ひとつの「目標値」が打ち立てられたとみるのか?

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この「立ち位置により正義は変わる」「善意は偽られる」という構造は、単行本に併録されている『ピクニック』でも貫かれている。

[B]言うまでもなく『ピクニック』は、ルミ「たち」の七瀬さんに対するひどい「集団」イジメの話である。しかも、複数形で首謀者をあいまいにしてしまう、典型的にタチの悪いイジメの話である。七瀬さんを他者と認めているのは唯一「新入り」だけであって間違っても、ルミたちが七瀬さんを新入りから守っているという構図なんかではない。暇つぶしの手なぐさみがいなくなってしまわないように、新入りに「余計なことをするな、空気読め」と凄んでいるだけなのだ。

[A]これを、たとえイジメられていても集団のなかで承認を受けることがその人の生きる力につながる。人とのかかわりが楽しいならそれは「仲間」だよね、と見るのが、『ピクニック』のsurfaceである。実際に、愚人の七瀬さんは、(まるで自らの意志で続けているかのように、誰も手伝わない)ドブさらいを楽しむ。(犬に与えるご褒美のように投げられた)ピーナッツをおいしいと喜ぶ。(嫌がらせのような)誕生日プレゼントを嬉々として受け取る。

[B]じつは、ルミたちの笑顔が嘲笑であるということに、気づかすに/あえて気づこうとせずに。

七瀬さんがいいんだからそれでいいじゃん[A]という考え方もあるし、もはやそうとはいえないほどの悪意(いじめ)を糾弾することで社会正義を問うべきだ[B]という考え方もある。もっとも『ピクニック』においては、七瀬さんは最終的には不全におちいるという点で必ずしも[A]というわけでもないし、彼女の抱える問題は(他者に実害をあたえる可能性のある)虚言癖であるため、ルミたちの行為は懲罰・矯正であり必ずしも糾弾すべき悪意ではないという[B]を横滑りさせる考え方もあり、答えを簡単には記入させてくれない。『こちらあみ子』と同様に、十分に議論が必要なテーマである。多勢が「ひとかたまり」になってしまい楽しむピクニックを中止できるのは誰なのか?サンデル教授ならうまく解説してくれるのだろうか?

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2つの小説において、何かを書かないことで、悪意をカモフラージュするその表現技術・計算は入念である。きっと、今村夏子は、悪意の本質がよくわかっているのだろう。場合によっては体得されたものかもしれない(イジメっ子の一方的な証言などから)。カモフラージュされた悪意を見抜くスキルの逆算が表現のスキルを向上させたのかもしれない。視点を変えよ、つねに言葉を疑え、という誰かのささやきにみちびかれて。

わたしたちは言葉と物語の中に生きている。そして、必ずしも言葉と物語はわたしたちを庇護し、慰安するためだけに機能するわけではない。ときにわたしたちをひどく傷めつけ、だまし、たぶらかす。だから対抗できる言葉、緩衝材になる言葉を準備しておく必要がある。心ある小説家は、このことに自覚的であり、つねに言葉との騙し合いに苦闘している。そして、よれよれになりながら様々な答えの出し方を提起している。だから、ビジネスマン諸君、小説なんて意味がない、ことはない。



◎やっぱりキリスト教だ。

2011-05-28 21:12:17 | ◎読
橋爪大三郎と大澤真幸の『ふしぎなキリスト教』がたいそう面白かった。いくつも重要なことが議論されていたが、それとは少し違う、掛け合いや考え方・表現が面白かったところを抜き書きしてみた。人類にはとんでもないトレンドが主流となっていた時代があったんだとあきれる反面、人間の想像力とそれに加え構造力といえるような思考と思弁のパワーにあらためて驚かされる。

大澤:最初にうかがいたいことは、ユダヤ教とキリスト教はどう違うか。違いのポイントはどこにあるのでしょう? 
橋爪:議論のはじめなので、ユダヤ教についても、キリスト教についてもよくわからないという前提で、ふたつの宗教の関係を端的にのべてみましょう。では、その答え。ほとんど同じ、です。

橋爪:さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。それには三通りのやり方があった。第一は、儀式を行う。……第二は、預言者に従う。……第三は、モーセの律法(聖書にまとめられている)を守って暮らす。……ところが、この三つのやり方の中心となる人びと(祭司、預言者、律法学者)がお互いに仲が悪いのです。

橋爪:ユダヤ教の律法は、ユダヤ民族の生活のルールをひとつ残らず列挙して、それをヤハウェの命令(神との契約)だとする、衣食住、生活歴、刑法民法商法家族法……、日常生活の一切合切が、法律なのです。
もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところで拉致されたとする。百年経っても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。それには、日本人の風俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。そして、法律にしてしまえばいいんです。正月にはお雑煮を食べなさい。お餅はこう切って、鶏肉と里イモとほうれん草を入れること。夏には浴衣を着て、花火大会を見物に行くこと。……みたいなことが、ぎっしり書いてある本をつくる。そして、それを、天照大神との契約にする。

橋爪:偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なので、もう一回確認しておきます。偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。

橋爪:神がもともと姿もなく、世界の外にあって、世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。これを矛盾なく受け取るにはどうしたらいいか。私の提案ですが、人間は神に似ているが、神は人間に似ていない、と考えればいい。

大澤:救いの規準はっきり出せと神には言いたい。状況証拠的には、あんまりお金を持っていると合格はしにくいのかなとか、なんとなく微妙に暗示はされてはいるんですけど、はっきりとした規準も示されずに一部だけ救うというのは、やっぱり変な感じがします。
橋爪:「透明性」が足りませんか?
大澤:そう、とんでもないと思う。
橋爪:情報公開をしてほしい?
大澤:そうなんです。説明責任を果たせ、みたいな(笑)。
橋爪:ここが本質なんですね。もしそういうことを求めたら、一神教にならない。簡単に言うと、救うのは神で、救われるのは人間なんです。(……)救うのは神だから、人間は自分で自分を救えないんですよ。

橋爪:(……)隣人愛のいちばん大事な点は、「裁くな」ということです。人が人を裁くな。なぜかというと、人を裁くのは神だからです。人は、神に裁かれないように、気をつけていればいい。神に裁かれないためには、自分がほかの人を裁かないということです。愛の中身はこれなんです。

橋爪:これは、アブラハムが、神のために自分の一番大事なもの(一人息子)を犠牲にするのをためらわなかったことに、ヤハウェが満足したという意味だと思う。ここでヤハウェは人間に、言わば「借り」ができた。ヤハウェはこのことを覚えていて、人間が困ったときに、あべこべに彼の一人息子のイエス・キリスト(一番大事なもの)を犠牲にしよう、と思いついたのだと思う。そして今度は、未遂ではなくて、本当に犠牲になってしまった。

大澤:もし人類の歴史の中で最も影響力の大きかった出来事を一つ挙げろと言われたら、ぼくは、イエスの処刑だと思うんです。

橋爪:救済予定説は、キリスト教の論理を純粋にしたものなんです。すると、そのつぎに、人間は、以上のことをわきまえた場合に、勤勉に働いても無駄だから怠けるとか、それともかえって勤勉に働くか、どちらかという問題がある。
ゲーム理論を使って、考えてみましょう。
プレーヤーは、神と人間の二人。神は、救済する/救済しない、人間は、勤勉に働く/自堕落に暮らす、という選択肢があります。救済予定説なので、神が先に救済する/救済しない、を選択し、あとから人間が、勤勉に働く/自堕落に暮らす、を選択する。人間は神が何を選択したか知ることができない、というのがゲームの設定です。
さて神が、人間を救済すると決めている場合。人間は、勤勉に働いても自堕落に暮らしても、いずれ救済されるのですから、勤勉に働くだけ無駄。よって、自堕落に暮らしたほうがよい、いっぽう神が、人間を救済しないと決めている場合。その場合も人間は、勤勉に働いても自堕落に暮らしても、どうせ救済されないから、勤勉に働くだけ無駄。やはり自堕落に暮らしたほうがよい。結論として、どちらの場合も、自堕落に暮らしたほうがよいことになります。自堕落に暮らす、が「支配戦略」になる。
そうすると、人びとが救済予定説を信じる社会では、だらだら自堕落に暮らす人ばかりになってしまいそうです。でも、そうならない。
どこに秘密があるかというと、自分はこのゲームからはみ出していることを証明したいから。地上の自分の利益を考えて行動すると、自堕落に暮らすことが支配戦略になる。そういう状況で、もしも勤勉に働いている人がいたら、それは神の恩寵によってそうなっているのです。勤勉に働くことは、神の命じた、隣人愛の実践である。この状況で、勤勉なことは、神の恩寵のあらわれです。となると、自分が神の恩寵を受けていると確信したければ、毎日勤勉に働くしかない。

橋爪:しかし、同時に、この定言命法というのは、カント流の隣人愛だと思うのですね。キリスト教が説いた隣人愛を、カントのやり方で哲学的に正当化していると見なすことができる。意志の格率を普遍化するというのは、すべての人を人格として尊重する、ということと同じです。カントは、他人を、自分の道具や手段として(のみ)扱うことをたいへん悪いことだと考える。どんな他人であれ、相手が嫌な奴や悪人であったとしても、独立の人格として尊重しなくてはいけない。それが定言命法の核です。

大澤:いわゆるグローバリゼーションというのは、ぼくらがここまで論じてきた「ふしぎなキリスト教」に由来する西洋文明が、それとは異なった宗教的な伝統を受け継ぐ文明や文化と、これまでになく深いレベルで交流したり、混じり合ったりするということです。

『切りとれ、あの祈る手を。』

2010-11-20 23:08:38 | ◎読
佐々木中の、このモノ/ダイアローグからは、いくらかの言葉をtwitterで引用してきたけれど、少し長い一文を引用、というか書き写したくなったので、久しぶりにブログというシステムを利用することにした。以下、同書の116ページからの引用。

〈原理主義者は本を読んでいない。本が読めていない。本の「読めなさ」「読みがたさ」に向き合う勇気も力もない。惰弱な連中なんだということです。われわれは長く長く語ってきましたね。テクストを読むことは狂気の業であると。本を読めば、読んでしまえば、どうしても―――私が間違っているのか、世界が間違っているのか、この身も心を焦がす問いに命を賭ける他はなくなると。連中は知らないのです。読めるわけがない本をそれでも読むということ、そのなかにあるテクストの異物性、その外在性、そのなまなましい他者性というものを知らない。その過酷なまでの無慈悲さを知らない。それに対する恐れを知らない。あの驚くべき「読め」という命令の熱狂を知らない。逆に、非常に自堕落なかたちで「俺が言っていることが聖書であり、俺が言っていることがクルーアンであり、俺が言っていることが仏典である」という、もう見も無様なあり方に自足し切って飽きることを知らない。ゆえに、テクストに向き合うという残酷な体験に、自らの死と狂気を賭けて身を晒すことができない。そのような奇蹟が世界であり得るということすらも感じとれない。ゆえにテクストというものと自分の区別がつかなくなってしまっている訳です。〉

言うまでもなく、世の中の成り立ちは言葉/他者である。それは、本来的には人文系の教育の核心であるはずなのだが、世界史であれ現代国語であれ英語であれ、そればかりではなく一般教養においても、そのことは気づくかたちでは明示されない。この重要なフレームワークを教育の早い段階で明らかにすることが、理系に対する人文系の重要な役割ではないだろうか。言葉/他者の存在が空気であるかのように黙視されている世界では争議がどうも摺りあわない。

◎濫漫な読書。

2009-07-29 23:32:50 | ◎読
どこの書店に行っても、カズオ・イシグロの新刊が平積みになっている。アマゾンでもたいていはベスト10以内。『1Q84』に隠れて見えにくくなっているけれど、意外な出現率。この現象はいったいなんなのだろう。というのは、『夜想曲集~音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』は、平積みのポジションを獲得している他の小説と比べ、いっさいエキセントリックなところも、アクロバティックなところも、スキャンダラスなところもなく、もちろんスリルもどんでん返しもほぼない、おだやかな落陽の日常を切り出しただけの小説だからであり、その小説が、『1Q84』や『告白』や『ダ・ヴィンチ・コード』や『東京タワー』やら『ハリーポッターと死の秘宝 上下巻セット』などコントラストのはっきりした小説と陣取りを興じている様は、どう考えても解せない。感動気狂いと呼ばれるだれかが、『夜想曲集』を求めているのだろうか。『わたしを離さないで』の勢いをかった、本屋大賞の中の人たちどうしの企て、というのは、ひとつの仮説としては成り立つが、たとえそうだとしても、この小説が万人に受け入れられるとは信じがたい。居ても立ってもいられなくなった俺は、書店員にちょっと訊いてみることにした。そうだ、いつも行く青山ブックセンターで、ずっと気になっていたあの娘だ。いっさいの疚しさがないきわめて正当な理由で、声を掛けられるまたとないチャンス。
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おお『Number #733』はジャイアンツ特集!なんて雑誌コーナーを横目にみながらたどり着いた文芸書の平台のあたりをぶらぶらすること5分。予想外の早いタイミングで、彼女が近づいてきた。NEW BALANCEのあまりみたことのないタイプの、センスのよいデザインのスニーカーをはいた、いつもどおり精悍なしょうゆ顔の彼女だ。あくまでしゅっとしてる。
アップダイクの『クーデタ』を入荷しだした彼女の横で、俺はあわてて『夜想曲集』を手に取り、いかにもカズオ・イシグロの愛読者です、これまでの作品は全部読んでます、といわんばかりのゼスチャーでページを開く。そして、あわや「モールバンヒルズ」を再読しそうになるのを抑えて、中空の視線でつぶやいてみる。「これって、どうなんですかねえ」。

「?……ああ、カズオ・イシグロの短篇ですね。いいですよ。ぜひ、読んでみてください。刺激とかそんなのないし、エンターテイメントとも違うんですけど、なんかいい小説なんですよお」

その的を得た、しかもなんともいえないチャーミングな回答を聞いた瞬間、俺はもうカズオのことなんかどうでもよくなって、彼女とならきっと『1Q84』とか、『ヘブン』とか『ドーン』とか『終の住処』の話ができるんじゃないか、場合によってはどこかでお茶でも飲みながらパワーズの話なんかも……と足も体も浮きそうになったわけだが、そこまでの関係を一足飛びに詰めるのはどう考えても無理やり感がある、と冷静さをとり戻し、まずは、とりあえず、当初のミッションを全うすることにした。

「どこの本屋さんでも、だいたいプッシュされて平積みになっているようなのですが、そんなに人気があるのでしょうか?」
「ああ、そうなんですか。ほかの本屋さんのことはよくわからないんですけど、ここでは、お買い求めになるお客さまは多いです。イシグロは、そもそも人気はあるんですけど、たぶん『わたしを離さないで』で、裾野が広がったんじゃないですかね。もしかしたら、最近の村上春樹さんの影響とかかもしれないです…」

「なるほど…」村上春樹か。それにちなんでチェーホフ?そういえば、エッセイに書いていたなあ。カズオ・イシグロのこと。あれ、なんだったっけ…『monkey business』だった?あ、『monkey business』といえば、そろそろ「箱号」もでているはずだ、たしかパワーズがなんか書いてるんだよなあ、なんて思いをめぐらせていると、彼女の言葉が続いた。

「でも……」
「でも?」
「そう、ベストセラーになるような小説じゃないかもしれませんね。うちのような本屋で、2日とか3日に1冊ぐらいのペースで、だけど1年ぐらいはずっと誰かが買っていくような、そんなちょっと地味な小説。わたしは好きなんですけどね、おすすめしますよ」

……この小説をまだ読んでいないことになっている俺はつらかった。ほんとうのところは、「いやあ、僕もカズオ・イシグロはずっと読んでいて…」とかなんとかいいながら、今回のやつはインパクトこそないけど巧みな状況設定とか面白いですよねえ、文章だけで翳りのイメージを見せるなんてさすが、でもこの手の話ならひょっとしたら堀江敏幸のほうがうまいかもしんないですねえ、読んでます?『おぱらばん』とか?なんて話を発展させて、次の展開に持ち込みたかったのだが、いまさらそんなことはできない。痛恨の作戦ミス。
だから話はここで終わる。まるで、イシグロの短篇のように。

ということなんで『ニッポンの思想』『はじめての言語ゲーム』『偽アメリカ文学の誕生』『村上春樹『1Q84』をどう読むか』『費用対効果が見える広告 レスポンス広告のすべて』『AERA english』『Web PRのしかけ方』『技術への意志とニヒリズムの文化―21世紀のハイデガー、ニーチェ、マルクス』『思考する言語〈上〉』『Newton 太陽光発電』『ディアスポリス#13』なんかをみつくろってABCを後にする。
今度、会ったとき、「あ、どうも」ぐらいは言えればよいのだけれど。


◎『1Q84』。とりあえず。

2009-06-02 22:02:00 | ◎読
ふらふらしないでまっすぐ歩け、って言われちった。点取りうらないに。でもまあ、じっさいのところ、ふらふら本と本のあいだ、音楽と音楽のあいだを漂泊しているわけなので、もっともでございます、としか言いようがないのも事実。

『1Q84 Book1』村上春樹
『1Q84 Book2』
発売されるまでの慣らし運転で『ねじまき鳥クロニクル』を『予言する鳥編』から再読し始め、やっぱり面白くて一気に『鳥刺し男編』に突入したわけだけれど、ちょうどなかばにさしかかったあたりで、島田雅彦の『徒然王子』の第二部が出たので、「うわ、まだ一部も読んでねーや」と思い出し、急いで挟みこんだところ、これはこれで『ねじまき鳥』を中断に値する面白さで、こちらも第2部の前半までぐいぐい読み進んだところで、『1Q84』の発売となったため、再度中断。つまり{ ねじまき鳥 { 徒然王子 { 1Q84 } } }、という入れ子構造になっている。いやじつは、その外には、小説だけでもあと5~6は重なっていて、もはや如何ともしがたい「ふらふらするな」状態である。



ところで、『ねじまき鳥』の物語は、1984年の6月に始まっていて、これはちょうど『1Q84』のBook1の終わりあたりということになる。ちょっと調べたぐらいでは、このバブル前夜の年が村上春樹にとって個人的に重要な年なのかどうかはわからないが、少なくとも彼の小説世界においては、この年に、東京で面倒くさそうな物語が2つ進行していて、そのふたつがふれあうかどうかは別にして、またどちらが正史でどちらが偽史といったような話を脇に置くとしても、やっかいで不穏な年ではあることに変わりはない。と、もっともらしく言ってみたものの、『1Q84』の舞台が1984年って、どっかに書いてたっけ?ああ、あった、あった。

と、そんな具合に、肝心の物語のほうは、青豆と天吾の話を1章ずつ読んだ程度。だから、すでにウィキに記されているような物語の経緯や要素はいっさいわからない。しかし、その程度の早い段階でも驚くのは、たとえば「芥川賞」なんてフレーズがけっこう明確にでてくることだ。突然わきたつ、この異様なリアリティ、俗っぽさは、これまでの村上春樹の物語運びと照らし合わせたとき相当な違和を感じざるをえない。いうまでもなく、「新しい波」のようなものをうまく処理できなかったそのころの芥川賞(ほか文壇)について考えがおよぶ。ちなみに1984年の上半期の芥川賞は、「受賞作なし」。この周辺、具体的に言うと、83年上、83年下、84年上、85年上、86年上、86年下には、島田雅彦の作品が集中的に候補にあがったものの結局は受賞できなかった。もちろん、村上春樹も「風」が79年上、「ピンボール」が80年上でエントリーされるが受賞はしていない。これまで、なんとなく不可触になっていた文学賞(文壇)の話を、持ち出してくるなんて……

……と、書き出したものの、いったん起草を中断している1日の間に、一気に「Book 1」を読み終えることになる。今度ばかりは一語一句逃さないようにじっくり読む、と誓ったにもかかわらず、結局は、配分を制御できないペースメーカーの導きに抗うことができず、かなりの速度で読み進めてしまった。そういったことからも明らかなように、結論から言うと、あいかわらず村上春樹はすごい、といったような話にとどまることなく、そのすごい村上春樹すら追い越してしまった、愕然とする小説。しかも、「「長めに書くことができる」というメリットを利用して、一つの作品の中に、登場人物たちの創作とか対話、書簡などの形で、韻文、戯曲、短編小説(Novelle)、伝説、警句、文芸批評、学術論文……など他ジャンルのものを挿入(※)」したという点で、完璧に思える長編小説であり、そのゴールは、村上春樹自身が言うところの「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」総合小説にきわめて近いものになっていくんじゃないだろうか。たしかに『徒然王子』も相当なものだとは思うが(『1Q84』までいかずとも、もう少しは話題になってもいいと思う)、その緻密さ入念さにおいて、すべてのテキストに隙がないという点で、やはり比べることはできない。まだ、「Book 1」なので予断はできないが、もし「Book 1」で終わったとしても、それはそれでいいんじゃないかと思えるような物語構築だ。

もちろん、「芥川賞」のような話や、ちょっと強引で下種でしかし優秀な編集者の話、父親とのかかわりあい、そしてなにより、1971年に破綻した「理想」と「夢」のあと1995年まで続く「虚構」に埋まる同じ根元など、村上春樹がこれまでためこんでいた個人的な澱のようなものに、次々にきわめてスマートな形でケリをつけていく、といった点で、集大成といった言い方は間違ってはおらず、まさに「物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題を別のかたちに置き換えることである(P.318)」という点では、申し分ない。

しかし、この際、そんな個人的な話はどうでもよい。そういったことはいっさい抜きにして、次々に訪れる物語の驚き、ギリギリの予定不調和、ギリギリのリアリティで描かれる(善悪を問わず魅力的な)人物造詣、技術的な工夫と挑戦、それらをすべてまとめる膨大ではあるが無駄のない密度の高い文章は、小説の魅力から逃れられない人間に、大きな幸福を与えてくれる。

残念ながら、ケリのつけ方がスマートにすぎるという点で、あいかわらず玄人に受けが悪いだろうし(きっと大きな批判を呼ぶだろう)、逆に「わけのわからない密度」という点で、『カフカ』のときに喧伝されたような「村上春樹らしさ」に期待する多くの人からも、大きな共感を得ることはできないかもしれない。そうではない、なにか人間のステインのようなものの正体についてただただシンプルに知りたいと考えているような人にとっては、本当に良い小説だ。「Book 2」を読み終えてもこの気持ちはきっと変わらないと思う。
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というわけで「ふらふら読書&音楽」日記を書こうと思っていたのだけれど、また機会を改める。それまでにふらふらが増幅しなければよいのだけれど。『思想地図 Vol.3 アーキテクチャ』とか『国文學 増刊 小説はどこへ行くのか 2009』なんかを眺めていると、そんなわけにはいかないような気もする。

(※)『「分かりやすさ」の罠 ―アイロニカルな批評宣言 』での仲正昌樹の定義

◎『経済成長という病』。

2009-04-29 19:02:47 | ◎読
いまこの時間の帯のうえに自分がいるということを認め、その位置を少し俯瞰して眺め、歴史の教科書を記述するようにクールにドライに理解する必要があるんじゃないだろうか。平川克美氏の『経済成長という病』を読んで、そんなことを考えた。

これはいま私たちのおかれている状況をうまく評論してみようとする企みでもないし、もちろん人ごとのように客観視するためでもない。いっぽうで、この危機の因果を分析して来るべき未来に備えようとか、まことしやかにささやかれているチャンスをしっかり見極め、掴むために、といった不遜な動機でもない。そんなことの不毛さは、平川氏が明示している。

<なにごとであれ、それが将来どうなるのかについて確定的に語ることなどできはしない。それは、世界が複雑にできているからだということではない。現在の世界を導いてきた原因と考えられるものを拾い出すことはできても、それが確かに原因であったと証明することが原理的にできないような世界に私たちが生きているからである。
事故であれ、紛争であれ、戦争であれ、それらに至るまでにはいくつかの相関する出来事が先行して起こったと述べることは可能である。しかし、どこまでいってもこれらの相関関係が、因果関係に変わりうることはない。ましてや、未来の出来事を予想するために参照すべき過去の事例を見出すことなどできるはずもない。>


有史においては、このたびの経済と世界の危機は、たとえそれが100年に1度の大事であったと認められたとしても、わずか一瞬の泡沫に過ぎない。通史の記述という限られた字数のなかでコンパクトにまとめられたとき、この時代の日本や世界はどのように語られるのだろうか。主観や意見が省かれたとき、一連の事象はどう記述されるのだろうか。そして、捲られたページに書かれた、次の時代への接続詞は「しかし」なのか「さらに」なのか「よって」なのか。そして、クールに時代の意味をとらえ、浮き足立つのでもなく、立ち止まるのでも引き返すのでもなく、自分が信じるものをくっきりとしておきたい。
こういったことに思いをめぐらせる必要があるんじゃないか、ということだ。

先の引用に続き、平川氏は語る。

<要因と結果の間の相関関係を決定付けるのはロジックの精度ではなく、信憑性の強度である他はない。私が信憑というのはそういう意味であり、語りえないことを語りうるには、どこかで信憑を味方に付ける必要がある。>

信憑を支える信を明確に腹に持つ。そして、「本当のことを言うと殺される。けれども俺はこれからは本当のことしか言わない」。この決意が大いに後押しされた。

『経済成長という病』に与えられた達観は、もうひとつある。先の話を受けることにもなるのだけれど、それは、自分がほんとうに信じない言葉、自分のものではない言葉や考え方を、イージーに使わないということだ。とりわけこの20年の間、時代のムードにあおられ、そんな言葉を幾度となく使ってきた。たとえば、こんな言葉だ。

<多様性。国際性。市場性。実効性。自己責任。自己実現。これらは一連のマインドセットであり、グローバル化する世界の中で、市場競争に打ち勝つために必要な経済合理性を担保する思考方法を構成する特徴的なワーディングなのである。>

これらの言葉を金輪際使わない、ということではない。共同幻想に身をおいている以上は、物事を動かすために避けられないことも多いだろう。しかし、そういった局面においても、これらの言葉を使う不面目と含羞を自覚しておきたい。たかが言葉、の問題ではない。言葉についての軽率と不確かさによる累は、古井由吉が小文「言葉の失せた世界」で指摘するとおりだ。

<おそらくその道のエキスパートたちが集まって、なぜ、初めから破綻ふくみと知れるはずの信用拡大へ走ったのか、といまさら呆れる人がいる。……つられて、言葉のはたらきも失せる世界があるのかもしれない、と私は考えた。
端的な話、初めにサブプライムローンなる言葉があり、信用貸しの危険度を示す用語であるらしいが、これを低所得者向けの高利金融という実の見える名で呼んでいれば、それ自体すでに破綻ふくみであり、膨張によってのみ維持され、いずれ限界に至るということは、意識からはずれかなかったのではないか。このように実体をむしろ塞ぐ用語の、しかもつぎつぎの新造に、実業と言われる世界が描きまわされたその結果が、このたびの破綻ではないか。(『図書』5月号)>

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『経済成長という病』には、他者、多様性、人間分類への戒めについても、きわめて道理になかった議論が展開されている。つまり「本当のこと」だ。それについては、また別途……と言っても約束は果たせそうもないので、いくつかの寸鉄を引いておく。

<人間はもともと多様でわけのわからない存在だと、常々私は思っている。自分のこともよくわらかない。わけのわからない人間を異人として排除するのが日本の社会のひとつの特徴である。……どうしてか。そうでないと、人物判断の処方箋が書けないからである。評価ができない。標準化しないと、生産性が上がらない。標準化の名の下に、効率化の名の下にこの傾向に拍車がかかる。>

<影のない人間を、私は信じない。いや、影のない人間がいるこということが信じられないのである。ほんとうは、軽薄も貪欲も、高貴も下劣も、馬鹿も利巧も、一人の人間の中に棲んでいたものである。自分が自分であることを確認するということは、他者の中にあるこういった要素と対話することに他ならない。そうやって人間は、自分の中の多様性を発見する。
「わけのわからなさ」には意味がある。ひとりひとりが、分割されて、お互いに交通することをしなくなるということを称して「多様化の時代」というなら、それは人間の本質的な多様性というものの価値を断念した時代という他はない。>

<リアルなものとは時間的・空間的に無限の多様性をもつ世界である。時折相手はえもいわれぬ表情をする。この表情には形容する言葉がない。それでも、それが何を意味しているのかについて、私たちの感覚は補足することができるのである。受話器の向こう側から届けられる声にも、この変化の残滓を聞き分けることはできる。しかし、多くの場合それは声が大きいか小さいか、高いか低いか、ノイジーかクリアかといった二分法的な差異でしかない。それはほとんど音声データのカテゴリーであり、現実の縮減モデルなのである。
問題はこの先にある。この習慣を繰り返しているうちに、人間は往々にして、縮減化されたモデルによってしか、表現することができなくなる。あるいは他者をカテゴライズすることに慣れきってしまう。>

◎地下鉄の叙事詩。

2009-04-18 02:31:23 | ◎読
昔読んだ小説をもう一度、とかなんとかいいながら、いささか脱力したかったので、先週末は散歩に出て、公園で津村記久子の『アレグリアとは仕事はできない』を読み始めて、日曜日には読み終えた。もともと津村の小説は、文章がこなれているだけではなく、笑わせる要素も炸裂していて、気軽に読み始めることができるため、散歩とか通勤には最適なんだけれど、だから気軽に読み飛ばせるのか、忘れられるのか、というとそんなことはいっさいなく、おおむねのところ、ドタバタ・エンタメとは一線を画す読後感を与え、記憶に楔を打ち込む。

あまり褒めるのもなんなのだけれど、津村記久子は、現段階の作品に限っていえば「小説」を書くことにむいていると思える。その策を弄する態度はあまりにもベタなので、たとえば、綿矢りさのように高橋源一郎に保坂和志に褒められたりすることはないだろうけれど、あいかわらず他者という得体の知れないものを暴いてやろうと、手を変え品を変え格闘し続けている点ではたいへん好ましく、たとえその方法が稚拙であったとしても共感してしまう。

その最たるものが『アレグリアとは仕事はできない』に収められた「地下鉄の叙事詩」じゃないだろうか。満員の通勤電車に押し込められた幾人かの人々の事情といらだちを、章ごとに主体・視点を変えながら、そこで起きている他人同志のささやかな関係性を含めて表現していくという点では、まったくよくある形式といわざるをえない。大学生の兄ちゃんが不快に感じていた隣に立つ険しい顔立ちのOLは同じように大学生の兄ちゃんの態度を不遜に感じていて、コミュニケーション不全のなか互いに怒りの想像力を限りなく膨らませていく、という具合。

また、電車でみかける人たちのここではない日常や思考回路をあれこれ想像して書き付けてみるというのも、小説家のトレーニングとしては常套で、それを作品として発表してしまうというのも安易といえば安易ではある。

まさに「よくある形式」。しかしここで書かれた、つまり地下鉄のなかに蠢いている憤懣と暴力と諦念の具体の描写はかなりリアルで面白いし、着地のさせ方も、言ってしまえば「かっこいい」。そこには、これまでの津村の作品にはみられなかった、爽快感やハードボイルド感が急に湧き出てきて、なんとなく彼女の本質をみたような気がした。たしかに、『ミュージック・ブレス・ユー!!』のアザミの粗雑で男気のある言動なんかには、その片鱗はあった。ふだんはうじうじ、ぐずぐずしているが、いざというときには人をグーで殴るような女性に眠っている切れ味のかわいい、そして鋭い暴力性がなんとも言えず魅力的だ。

男性への憑依については、そのいやらしさについても、結構がんばって近いところまできているかなあ、とは思うけれど、地下鉄のなかでそこまで酷いことを妄想する人は、根本的に気がふれている人であると思えなくもない。ちょっと妙な性エネルギーが充満しすぎ。そういったところは、山田詠美が『風味絶佳』なんかで描いているセクシャル・バイオレット№1のほうが、ありえないとしてもありえると思いやすいし、思いたい。

◎Up-to-date me! -小説について。

2009-04-08 23:44:17 | ◎読
ブームのようなものが起こっているわけではないとは思うけれど、小説のことを語る本が、たて続けに出版されている。

●『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎
●『小説の読み方~感想が語れる着眼点』平野啓一郎
●『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』
●『小説作法ABC』島田雅彦
●場合によっては、佐藤友哉の『クリスマス・テロル』に付記された25頁の愚痴も含まれるかもしれない。

これらは、いずれも保坂和志のように小説の本質めいたもの、本質めいた技術論について語るものではないため、未知の発見はなく予定調和ではあるし、思考の手順もシンプルだ。だから、なにか壮大で新たな決意のようなものが生まれるわけではない。しかし、読書生活のUp-to-Dateを誘発するちょっとしたコミットメントのようなものは立ち上がる。

ひとつは、小説を読み返そうという、思い、というか宣言、というか願い。最近は、日常がストレスフルなこともあって、その解消のために新しい小説をたくさん仕入れてはいるが、そのほとんどが通読できていない。通読できていないにもかかわらず、とどまるところなく、ちょっとした書評に乗せられて、まったく予備知識もない海に視界を広げてみたりしている。たとえば、フィリップ・クローデルの『ブロデックの報告書』といったような小説がこれにあたる。

まあ、古本が発見できて安かったという理由があったり、実際に面白かったりするのだけれども、上にあげたような「小説の本」を読んでいると、新入荷はいったん休止して、昔のものを読み返してしっかり馴染ませる、というプラクティスがあってもいのではないか、と思えてきた。インプットのUp-to-Dateではなく、アウトプットのUp-to-Dateということだ。そういえば、小説というものがよくわかっていない時期に読んだものも多い(もちろん、いまでもよくわかっていないが)。内容だってほとんど忘れている。再読することによって、目に見えないなにかがupdateされるかもしれない。たとえば、次のような小説。

●いくつかの高橋源一郎の小説。とりわけ『日本文学盛衰史』は、しっかりと咀嚼したい。逆に、『ゴースト・バスターズ』の失敗を自分なりに解釈しておきたい。あと、彼自身がすすめる『君が代は千代に八千代に』。だいたい、どんな話だったかまったく覚えていないし。
●初期のポール・オースター。ただただ面白いという勢いだけで読み飛ばしていた。じつは『偶然の音楽』がいちばん好きなんだけれど、ほんとうはニューヨーク・トリロジーを超えるものは書かれていないような気もする。確か、『幽霊たち』は、1986年ごろの小説だったと思うが、いつのまにか「現代文学」と呼びにくくなっているオースターの小説が、いまどう見えるのか。
●『リブラ 時の秤』。結局は、さほど熱中することができないような気もするけれど。デリーロを読むには、カウントダウンを気にする必要のない時間が必要かもしれない(『堕ちてゆく」男』も、頓挫ぎみ)
●『ねじまき鳥クロニクル』。例の「壁と卵」の話があったり、それを受けてのインタビューを読んだり、原書とつきあわせながら『The Elephant Vanishes』を眺めたりしていた。『The Elephant Vanishes』の冒頭は、「The wind-up bird and Tuesday's women」であり、
そこにある物語の予感は、ヤスケンには申しわけないが、やはり期待できる。そんなこともあって、気軽に雑に読むためにあらためて文庫の『ねじまき鳥クロニクル』を購入した。『1Q84』までに、「鳥刺し男編」ぐらいは再読できたらと思う。


もうひとつは、かなり具体的だけれど「綿矢りさ」だろう。高橋、保坂はもとより平野まで。なんだか「You can keep it.」が、すごいらしい。いまさらながら。現段階では佳作なので、一気に読破してもいいかもしれない。ぼく自身は初読だけれど、これも、どちらかというと既知の再読、振り返りということになる。

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そんなようなこと思っていながらも、『群像 5月号』の「海外文学最前線」なんかを読んでいると、なんだかんだいっても未知の世界も捨てがたい。たとえば、都甲孝治が紹介する、「現代」アメリカ文学はかなり魅力的だ。たとえば、ジュノ・ディアスという作家の『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』。

<主人公オスカーは『アキラ』など日本のアニメやアラン・ムーアなどのアメコミ、SFやゲームなに狂う、デブでもてないドミニカ人移民の青年である。なぜ、彼を主人公にしたのか。それは、トルヒーヨという独裁者に支配されたドミニカを書くのにオタク的な想像力がどうしても必要だったからだ。……ディアスにとって、アメリカの支援を受けながらアメリカ人には想像もつかない絶対悪の支配する世界を作り上げたトルヒーヨと文学的に立ち向かうための武器こそポップカルチャーだった。>

そのほか、ミランダ・ジュライの『あなたよりここにいる人はいない』、ジョージ・ソウンダースの『パストラリア』など。前者2つは今年新潮社から翻訳がでるらしいので、きっととりあえず買ってしまうんだろう(もっとも、新潮社は、ほかに翻訳刊行をアナウンスするものがあるんじゃないか)。

また、申し合わせたように、『群像』と『新潮』が、シンクした安藤礼二の『光の曼荼羅 日本文学論』なんかも興味深い。

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小説の見方については結局のところ、読む量を増やす、ということでしかupdateできないか。もしくは、こういう着地のない文を書きつらねるか。

◎行って、逃げて、去った、その間の蕩尽。

2009-03-11 21:51:41 | ◎読
あほなIME 2007が生産性を著しく低下させるためなかなか仕事が終わらず、読んだ率はきっと2%以下。ひでえな。イライラ。

◎『STUDIO VOICE 400号記念』:当然だけど、400号うちのほとんどは読んでいない。80年代は80年代なりにいいのがあったようだ。もちろん90年代は90年代なりに。
◎『文藝春秋 4月号』:村上春樹のためだけに買うなんてバカだ。でも団塊世代は、彼の団塊世代の総括を読んだほうがいいんじゃないか。
◎『AERA 2009年3月16日』:「2億円に業界ドン引き 孫正義社長が仕掛けたお笑いコンテスト」「中鉢外しの真相「外国人支配」でものづくり危機」「物別れ一転させた翌朝のトップ直電独占 ローソン新浪社長が語る「am/pm買収」の全内幕」「公立東大脳の集中力大学の実力」の順に読んだ。
◎『新潮 4月号』:文芸誌がたまる一方だ。とりあえず、ハスミンのひねた連載エッセイだけは読んだ。やっぱりひねてる。
◎『AERA English APRIL』:かなりオバマに関心がある。就任演説の訳が味気ない。
◎『現代思想 オバマは何を変えるか』:かなりオバマに関心がある。就任演説の訳に味がある。
◎『文學界 08年11月12月』:例によって@100円で。とりあえず柄谷の蟹工船対談だけ。
◎『No Line On The Horizon』:これはあれだな。聴けば聴くほど、ってやつだな。
◎『PLUTO #007』:008で完結するらしい。そろそろ001,002をブで買っておこう
◎『おぱらばん』:ようやく文庫になった。堀江の原点。まったくもって同世代。
◎『堕ちてゆく男』:もはや買った日にちも忘れた。しかし、買ったことは忘れない。なんといってもドン・デリーロだ
◎『西洋哲学の10冊』:娘に読んでほしいような、読んでほしくないような
◎『RAINBOW』福原美穂@T:これは買ってもよかったかも。
◎『君は永遠にそいつらより若い』:@ブ 完全にツムラにはまってるな。
◎『大人にはわからない日本文学史』:いったい何年待たせんだ。
◎『マーケティングとPRの実践ネット戦略』:PRについてまじめに考える
◎『戦略PR  空気をつくる。世論で売る。』:そういやこれも買ってた
◎『八番筋カウンシル』:これはいい感じだ。
◎『WORKING ON A DREAM』:やっと買えた。これは本来は、アンプラグドverのはずだったんだ、と思う。
◎『人間の未来』:ちょっと手ごわいな。
◎『大阪人 3月号 続々・古本愛』:おれが古本を買うのは愛ではなく、ほんとにたくさん本を買ってしまうので古本でないとやっていけないからです。
◎『新潮3月号』:絲山、津村。どうかんがえても女性のほうがすばらしい。すでに「とにかく家に…」は感想ずみ。
◎『ポトスライムの舟』:感想は書いた。表題作はなんてことはないが、12月のなんちゃら、っていうほうはまあまあよかった。
◎『ベンジャミン・バトン』:角川文庫のほうがおトク。という貧乏性。
◎『マルクス その可能性の中心』@ブ
◎『木曜日だった男』@ブ
◎『ミュージック・ブレス・ユー』津村記久子@ブ
◎『愚者(あほ)が出てくる、城塞(おしろ)が見える』
◎『ディアスポリス #11』
◎『ユリイカ 2009年2月号 特集*日本語は亡びるのか?』
◎『フッサール・セレクション』
◎『AERA 09.2.2』
◎『ガラスの仮面 #43』:ついていけていないです。
◎『ポスト戦後社会〈日本近現代史 9〉』:よい本だな。
◎『オバマ・ショック』
◎『探求Ⅰ』@500
◎『昭和のエートス』@500
◎『アメリカ 非道の大陸』 多和田 @ブ
◎『コンサルティング能力 新装版』
◎『経済は感情で動く』
◎『蛇にピアス』金原 @100円
◎『また会う日まで』柴崎 @100円

◎さらに、津村記久子。

2009-02-23 00:15:48 | ◎読
いやあ『ポトスライムの舟』もおもしろかった……って、思えなかったんだよなあ。残念ながら。もちろん細かいところの表現とか、小道具の使い方とか、転調とか、百科事典好きの子どもの話とか、部分部分ではあいかわらずキマっていて、この才能はすげーなって、思うんだけど、どうもテーマに納得がいかない。これは山田詠美のいうとおり「蟹工船よりこっち」なんだろうとは思うけど、それ以上でも以下でもない。あまりにも迎合にすぎる。狙いすぎだ。なんだか、書かされた感が強い。もし、これを最初に読んでいたら、先にあげたツムラのいくつかのすばらしい小説に出会うことはなかっただろうなあ、これからこっち方向の小説ばかり書かされたらつらいだろうなあ、と思うと同時に『とにかくうちに帰ります』なら、きっと権威ある賞はとれなかっただろうから、もうそろそろ、小説についてあまり考えていない人たちは、審査の重責から解いてあげたらと思う次第である。

とはいえ『ポトスライムの舟』はともかく、ツムラへの期待はあいかわらず大きく、この書くこと好き多作のオタクに敬意を表して、『八番筋カウンシル』『君は永遠にそいつらより若い』を抑える。前者は、なかなかよさそうな感じ。
よって、次回のタイトルは、「あいかわらず津村記久子」。

◎『ミュージック・ブレス・ユー!!』

2009-02-08 00:42:27 | ◎読
たとえ箱のなかがいっぱいだったとしても、ガサガサ動かしてれば、追加で押し込みたいものが「仕事」だとすれば、なんとかあとひとつやふたつ入る隙間はうまれてくる。それ以外の些事だって、これまでならなんとか遊びはうみだせたんだけれど、いまは、よほどの熱意がない限りはちょっと難しいかなあ。しかし、バランスは大事なので、これからはフラグメントでも書き留めておく。というか書き留めておきたいよなあ。



まえに、津村記久子の『婚礼、葬礼、その他』を読んで、そのスラップスティックスの加減と、ふと差し込まれる「自分-他者」のきわめて正しいパースペクティブ、そのことにしじゅう頭を抱えていなければうまれないような見様にいたく感心したことがあった。これはいいなあ、もっと読んでみようとずっと思っていたのだけれど、ようやく『ミュージック・ブレス・ユー!!』を押し込む隙間を見つけることができた。

『とにかく相手の言うことを肯定することは大事だと、アザミは十七年の人生で体得していた。否定されるために発言する人というのはあまりいない。』

『アザミが彼女たちの言うことに一方的に納得させられてしまうのは、実は言語と文化の距離あってのことで、……その距離が立てる戸にもたれかかることは楽だった。同じ言葉を使う女の子ことがわからないのはとても辛かったが、違う言語で書く女の子の考えを理解できないことは仕方がないと思えるのだ。……
もどかしかったが、自分の言いたいことを言葉にできないのには慣れっこだった。そういう時は何も考えずに何も内容ないことを喋りまくればいいのだ。』

『さっきまで泣いていたナツメさんはすっかり消沈し、ただえずいたり、目をこすったり、やたら豪快な音をたてて洟をかんだり、なかなか人間としてのスタンバイ状態にならなかった。アザミはどうしよう、これ食べ終わったらすぐに出よかな、もうそのほうがいいよな、などと考えながら、それ自体は非常にぱりぱりして好みであるパニーニをかじった。』

『「音楽について考えることは、自分の人生について考えることより大事やと思う」』

『再び、アニーのことを思い出した。だいじょうぶなわけはないけれど、それでもだいじょうぶかと訊きたいと思った。文面ではなく、たどたどしくつっかえるであろう自分の声で。そうするためには、いったい何をしたらいいのだろう。
車窓の向こうに世界が見えた。畏れが胸を通りすぎて息をのんだが、やがて頭の中で鳴っている音楽がそれをさらっていった。』

あらすじを書くのはめんどうくさいので割愛するけれど、『ミュージック・ブレス・ユー!!』は、かなりうまい小説だと思う。雑駁が魅力な女性描き方、ドタバタの構成力(とりわけ、アザミがオギウエに食ってかかるところなんか)、機知に富んだワーディングなど、テクニカルな部分はもとより、上の引用でもわかるように、やはり『婚礼、葬礼、その他』同様に、他者との距離感、他者のことがうまく理解できずに浮き足立つ自分、しかしなんとかしたいという願いが、けっこう正しくかけている。正しくというと語弊があるので言い直すと、きわめてぼくに共感できる形で描けている。それだからアザミが魅力的に感じられるんであり、そういった女性の破滅的な言動にあるからくりのようなものがわかって、ああいいなあ、というつぶやきが自然とでてくる。もっとも、それは、柴崎、川上より、より自然で気負わない大阪弁に負うところが多いのかもしれない。

といことで、受賞第一作の『とにかくうちに帰ります』が掲載されている『新潮 3月号』はもとより、受賞作の『ポトスライムの舟』も一挙に落手。前者は冒頭を読む限り、また誰も思いつかないような些細な設定をもってくるよなあ、こいつは、って感じ。もっとも、もうどんだけガサガサしても、箱に隙間はうまれそうもないので、いつ感想をかけるかなんてまったく想像もできない。

◎『デンデラ』佐藤友哉

2009-01-07 00:04:19 | ◎読
小説好きで、しょっちゅう小説ばかり読んでんだろうな、と明らかに忖度できる小説キッズの書いた小説が『デンデラ』。恒例の年間ベストの季節。ほぼ確定していた暫定順位に大きく影響を与えそうな佐藤友哉の620枚。2008年に終結したり、翻訳された正統派のメガ・ノベルに比べると、いささかたくらみがわかりやすいのが難点ではあるが、同じ土俵のその末席で賛否を議論をするだけの余地は充分にあると思える。これは、同じところをぐるぐる、ぐじぐじ回り続けたユヤに脱出口を照らした編集者の力が大きいような気もするが、やはり彼自身が、これまでとってきた表現手法やテーマを客観的に俯瞰できるようになったということなんだろう。これまで、あまりにも直截的にしか活かしきれておらず、それゆえにもて余していた表現手法やテーマの行き場をうまく正しく見つけることができたと思える。

遠野物語で語られた姥捨て山「デンデラ」や楢山節考などでは、一般的には捨てられた老人たちがただ死を待つのみ、という厳しい話になっているが、一方で、じつは生き延びた老人たちが新たな共同体を開拓し、自然な死を迎えるまで「デンデラ」で暮らしていたという話もある。佐藤友哉の『デンデラ』は、この説を受けたもので、物語の中心は、『お山参り』という間引きの儀式により、七十歳を迎え『村』に捨てられた老人たちが、新たな共同体を形成して生き延びるとすれば、どのような過酷が待っているのか、どのように生や死を目標とするのか、寸前のところで命を救い、落としていくのか、どのように自分たちの置かれた立場/やるべきことを感覚として理解していくのかといったことがゲームのようにシミュレーションされている。

したがって、登場人物は、すべて七十歳以上の老婆(+雌羆)ではあるのだが、言うまでもなく、佐藤友哉にとって必要なのは知力と体力・財力をもたぬ弱者を象徴するためだけの老婆という状況だけであり、だから、人の一切を老婆風にかかない。生真面目に考えると、このリアリティの欠如は大きな瑕となるが、角度を変えて見れば、じつはその無気力、行動力のなさ、どこからも真のリーダーがうまれない井戸端のような集団性、全体的にあんまりロジカルに考えてない風は、帰納的に導き出された老婆群のコンセプト(構造-肉を落とした骨)を確かにあらわしていて、中途半端にリアルな表現に拘泥するより、よっぽどリアリティがあるともいえる。

いってみれば、(具体例から構造を見抜く)ビジネス企画書風のプレゼンテーションということになるのだが、シャープな打ち手を導き出せなかったという点で、言い換えれば現時点では簡単に打ち手が見つからないノックアウトファクターといわれるような事象に取り組んだという点で、これはいちおう文学的であるとはいえる。これを書く/読むことによって、作者/読者が、とりあえず状況を分別できるだけの俯瞰的な視点は整理できる。整理できたところで、作者も作中人物も読者もなんら具体的行動の指南を得られるわけではないけれど、思弁のサイクルが少しだけ決壊し、外に広がる。

それはたとえば、これまでであれば[往生際]よくあきらめていたところ、そこからさらに[袋小路]に追い詰められ、[終止符]が間近に迫った、[土壇場]寸前に、[断末魔]を絶叫し、その先の[修羅場]を潜り抜け、さらに雪崩くる[瀬戸際]を迎えたとき、まだ[不退転]の「意志」をもてるのであれば、[大往生]を迎えられる。人からみれば滑稽な落命なのかもしれないが(実際に斉藤カユ(70)が往生に向かう結末の疾走は滑稽)、自分にとっては、安らかで、満足のいく瞑目だ。もっとも、そんなに簡単に諦めるつもりはないけれど。といったような思考かもしれない。

一方の動機に、例によってオマージュ&ブリコラージュがあり、書きたいことをいま自分が書くことのできる書きたい方法で書いた、というのがよくわかる。にもかかわらず、これまでのように生硬にもならず、滑稽ではあるがおふざけにもならず、脱キャラクターも成功し、その点でようやく作品論として語られる小説にランディングできた。一度、そのあたりのことをちっとはまじめに分解したいと思う次第である。
とかなんとか言っている間に、もう文芸誌の2月号がでる。時間ちょっと加速してねーか?