史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

都城 Ⅰ

2022年09月03日 | 宮崎県

(東墓地)

 都城市の東墓地には、前賢の墓地と呼ばれる一画がある。「前賢」とは、幕末から明治初期に活躍し、都城の近代を開いた先覚者のことである。藤崎公寛、坂本正凭(まさたか)、坂元正衡(まさひら)、大河原義軌(よしのり)、荒川元、曽我祐臣、肥田景粛、立山時常、清水晴国、木幡栄周、隈本棟貫、山下盛徳、古垣俊雄といった前賢者の墓が北西の一角に集められている。

 

正七位隈元棟貫大人之墓

 

 隈元棟貫(むねつら)は、文政十二年(1829)の生まれ。日向都城の生まれ。通称は仲介、苔の屋と号した。人となりは沈毅にして精悍、決断力に富んでいた。嘉永二年(1849)、歩行横目。勤王の志があり、都城誠忠組の一人として肥田景正、大館四郎(晴勝)らと事を謀ったが、保守派のために禁固された。戊辰の役には奥羽に転戦。帰途、明治二年(1869)、東京府観察を命じられた。明治六年(1873)、宮崎県少属、明治十年(1877)、鹿児島臺百五大区長。西南戦争では思うところがあって薩軍に投ぜず、ために郷党の反感を買い、斬られそうになったが、棟貫の人物を惜しんだ桐野利秋のとりなしで事なきを得た。その後、二十四年に渡って、田野村ほか七か所で総段別千九百五十町歩の開田をし、そのために借財に苦しんだ。明治三十一年(1898)、年七十で没。

 

荒川家(荒川元の墓)

 

榕斎藤崎伯裕之墓

 

肥田景粛之墓

 

鶴水木幡先生墓(木幡量介の墓)

 

贈従五位木幡榮周先生榮錫記念碑

 

 木幡量介は、文政八年(1825)の生まれ。諱は栄周、雅号は鶴水。木幡家は、代々修験道の家で、慶応末年、還俗して量介と号した。長じて儒学を篠崎小竹に、国学を八田知紀に学び、京・江戸において諸藩の志士と交遊し、大いに郷党にも尊王論を鼓吹した。文久三年(1863)五月、誠忠派幽閉の難に遭い、元治元年(1864)六月、宗藩主の審問により蟄居を解かれた。同年十二月、家格も旧に復した。慶應四年(1868)、戊辰戦争では、奥羽に出陣して功あり、明治二年(1869)、近習役、領主島津久寛の傳となり、また宗藩造士館の都講に挙げられた。明治四年(1871)の廃藩後、宮崎学校、鹿児島女子師範学校の監事、明治九年(1876)、都城学校長となり、宮崎県教育界のために尽瘁した。明治十三年(1880)、年五十六にて没。

 

大河原家先祖代々之墓

雲松軒瑞山一豫居士

 

 大河原義軌は天明六年(1786)の生まれ。義軌は諱。通称は隆作。雅号は霧洲。幼時貧困のうちにあって学に励み、文政二年(1819)、頼山陽の門下となり、文政四年(1821)、帰国。邑校稽古館の学頭となった。速見晴文、肥田影正、木幡栄周、大館四郎らはその門下であって、都城に尊王論を主唱したのは、大河原隆作であった。文久三年(1863)、都城誠忠組幽閉の事件にあたり、「訴衷篇」を当局に提出、これを弁護した。また経済にも長じ、土木にも精通していたといわれる。慶應元年(1865)、年八十で没。

 

坂元旭先生墓

 

 坂元正衡は、都城島津家の家臣で漢学者。高山彦九郎が都城を訪れたときに交流した。

 

清水晴國大人之碑

 

山下盛徳之墓

 

 山下盛徳は、都城の養蚕業の発展に尽くした人。次女の山下ムラも父を継いで養蚕業に尽力した。

 

(神柱宮)

 

神柱宮

 

 都城市街地のほぼ中心部に鎮座する神柱宮は、長く島津荘総鎮守として崇敬を集めたが、明治六年(1873)市内梅北町から現在地に遷座した。遷座にあたり、周辺は神柱公園として整備されている。

 

高山彦九郎遺跡

 

 寛政四年(1792)六月、高山彦九郎は都城を訪れている。年見川のほとりで、坂元正衡と酒宴を開き、痛飲歓談した。彦九郎が飫肥に旅立つにあたって、両者は和歌と漢詩を交換した。この石碑は、高山彦九郎歌碑と呼ばれている。

 

桂久武寄贈の手水鉢

 

 明治六年(1873)、神柱宮が遷座した際、時の都城県参事桂久武が寄進した手水鉢が残されている。

 

戊辰之役 戦死者

 

 この石碑には都城から戊辰戦争に出陣した従軍者名と、戦死した十二名の名前が刻まれている。戦死者の先頭に名前のある肥田景直(雄太郎)は、肥田景正の長男。小銃第十二隊小頭。慶應四年(1868)一月五日、鳥羽伏見の戦いにおいて、淀川堤で戦死したといわれる。享年二十六。

 

 

(都城招魂塚)

 

招魂塚

 

 都城郷招魂塚は、明治十年(1877)の西南戦争で、薩軍に従軍して戦病死した都城郷一番隊々長東正胤以下、百三十四柱の御霊を祀る慰霊碑である。薩摩からの援軍要請を受けて、都城から千五百五十六名が出陣し、田原坂、隈本、八代、人吉を転戦した。

 明治十二年(1879)、戦没者遺族と従軍生存者が協力して招魂塚建立を企図し、翌年四月竣工した。

 招魂塚の題字は、川口雪蓬の書。

 

勝海舟詩碑

 

 勝海舟詩碑は、東京在住の従軍者一同の懇請により、海舟が作詩した漢詩である。その掛軸も都城市教育委員会に保存されている。

 

 惨丁丑秋 階層一酸辛

 屍化故山土 凛乎存精神

 

 辛巳仲秋者南州翁死後五周之秋也

 思往時不堪疇昔之感也

海舟勝安房

 

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