(平尾霊園)
平尾霊園には番号の付いた区画のほかに「特別区」と名付けられた一角がある。そこが玄洋社墓地である。そこに福岡の変の慰霊碑や玄洋社社員の箱田六輔や松浦愚らの墓碑がある。
福岡の変慰霊碑「魂の碑」
「魂の碑」は、明治十二年(1879)、頭山満らの手により、福岡の変の殉難者を慰霊するために、建立された石碑である。
福岡の変碑
福岡の士族が蹶起すると、萩の乱に連座して獄に繋がれていた頭山満、箱田六輔、進藤喜平太ら、堅志社の若者たちに激しい拷問が加えられた。堅志社のほとんどが武部の門下生であったことから、これを知った武部小四郎は自ら名乗り出た。これにより、頭山満らは九死に一生を得た。
福岡の変の首謀者、越智彦四郎と武部小四郎とは明治十年(1877)五月、処刑された。福岡の変による戦死者は五十四人、刑死五人、獄死四十三人、懲役囚は四百二十二人を数え、その多くが二十歳前後の若者だったという。
清水正次郎の碑
清水正次郎は玄洋社の社員というわけではない。一介の鉄道員である。
明治四十四年(1911)十一月十日、明治天皇が筑紫野で開かれた陸軍大演習統監のために西下。門司桟橋で休息した。その際、御召し列車を入れ替える最中に脱線する事故が起きた。このため当初、五分という予定であった明治天皇の休憩時間が一時間に及び、沿道の予定が全て変更となってしまった。鹿児島本線門司駅の構内主任清水正次郎は、鉄道員総裁に宛てて「お召し列車を脱線した責任をとる」という遺書を残して、翌日下関の幡生トンネル付近で列車に身を投じて自殺した。三十三歳。
玄洋社系の日刊紙「九州日報」の社説で「清水氏の自殺は国民の精華なり」と絶賛され、顕彰碑建立計画を発表した。このことを当時の玄洋社社長進藤喜平太が知り、顕彰碑建立を買って出た。
この顕彰碑は、戦後博多の東公園に破棄されかけていたものを、昭和五十二年(1977)、筥崎宮宮司田村克喜らの発起によって現在地に再建したものである。
(興宗寺)
興宗寺
興宗寺(こうしゅうじ)は、別に穴観音と呼ばれる。この付近一帯には多くの古墳があったが、福岡城築城の際に石垣の石として抜かれ、古墳は壊滅したといわれる。興宗寺境内に残された古墳は横穴式の石室で、巨大な岩を用いた市内屈指の巨石墳である。石室内に阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩が彫られていることから、いつしか穴観音と呼ばれるようになった。
明治十年(1877)三月十九日、「西郷発つ」の報を受けて武部小四郎や越智彦四郎らが密かに集まり、この穴の中で謀議を交わした。
平尾霊園には番号の付いた区画のほかに「特別区」と名付けられた一角がある。そこが玄洋社墓地である。そこに福岡の変の慰霊碑や玄洋社社員の箱田六輔や松浦愚らの墓碑がある。
福岡の変慰霊碑「魂の碑」
「魂の碑」は、明治十二年(1879)、頭山満らの手により、福岡の変の殉難者を慰霊するために、建立された石碑である。
福岡の変碑
福岡の士族が蹶起すると、萩の乱に連座して獄に繋がれていた頭山満、箱田六輔、進藤喜平太ら、堅志社の若者たちに激しい拷問が加えられた。堅志社のほとんどが武部の門下生であったことから、これを知った武部小四郎は自ら名乗り出た。これにより、頭山満らは九死に一生を得た。
福岡の変の首謀者、越智彦四郎と武部小四郎とは明治十年(1877)五月、処刑された。福岡の変による戦死者は五十四人、刑死五人、獄死四十三人、懲役囚は四百二十二人を数え、その多くが二十歳前後の若者だったという。
清水正次郎の碑
清水正次郎は玄洋社の社員というわけではない。一介の鉄道員である。
明治四十四年(1911)十一月十日、明治天皇が筑紫野で開かれた陸軍大演習統監のために西下。門司桟橋で休息した。その際、御召し列車を入れ替える最中に脱線する事故が起きた。このため当初、五分という予定であった明治天皇の休憩時間が一時間に及び、沿道の予定が全て変更となってしまった。鹿児島本線門司駅の構内主任清水正次郎は、鉄道員総裁に宛てて「お召し列車を脱線した責任をとる」という遺書を残して、翌日下関の幡生トンネル付近で列車に身を投じて自殺した。三十三歳。
玄洋社系の日刊紙「九州日報」の社説で「清水氏の自殺は国民の精華なり」と絶賛され、顕彰碑建立計画を発表した。このことを当時の玄洋社社長進藤喜平太が知り、顕彰碑建立を買って出た。
この顕彰碑は、戦後博多の東公園に破棄されかけていたものを、昭和五十二年(1977)、筥崎宮宮司田村克喜らの発起によって現在地に再建したものである。
(興宗寺)
興宗寺
興宗寺(こうしゅうじ)は、別に穴観音と呼ばれる。この付近一帯には多くの古墳があったが、福岡城築城の際に石垣の石として抜かれ、古墳は壊滅したといわれる。興宗寺境内に残された古墳は横穴式の石室で、巨大な岩を用いた市内屈指の巨石墳である。石室内に阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩が彫られていることから、いつしか穴観音と呼ばれるようになった。
明治十年(1877)三月十九日、「西郷発つ」の報を受けて武部小四郎や越智彦四郎らが密かに集まり、この穴の中で謀議を交わした。
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