(早雲寺つづき)
福住正兄翁墓
早雲寺の北条氏五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の墓の傍らに福住家の墓所があり、そこに福住正兄(まさえ)の墓がある。
福住正兄は文政七年(1824)、大名主の末子として生まれた。少年の頃、近郷の俳人森百亀、歌人原久胤に学び、また巡歴の儒学者千賀桐蔭にも経書の手引きを受けるなど、早くから学問文学の道に入る素養をつくった。父兄の勧めに従って弘化元年(1844)、二宮尊徳の塾に入り、嘉永三年(1850)十月まで七年間、報徳の教訓と鍛錬を受けて帰った。衰運に向かっている親戚の復興こそ報徳の道の実践であるとして、自ら選んで箱根湯本の温泉旅館福住家の養子となり、家名九蔵(十代目)を襲名して、以後大いに努めて一家の復興を完遂した。家業の傍ら、報徳の教えの紹介と指導家の実践のために多数の報徳の書を著述したが、「二宮翁夜話」「富国捷径」は世に聞こえ、富田高慶、斎藤高行、岡田良一郎と並んで尊徳門下の四大人と称された。また嘉永四年(1851)、小田原藩の国学者吉岡信之に入門し、その翌年より鎌倉円覚寺の東海和尚に師事して参禅し、元治元年(1864)には平田篤胤の没後門人となり、鈴木重胤、権田直助にも師事して国学と神道を修めた。この間に、湯本の名主となって村の再興に励んで、慶応元年(1865)、小田原藩から苗字帯刀を許され、小田原藩校集成館の教職にも挙げられ、藩士に列して国学一等助教となった。明治以降は同好とともに歌道の発展に努めて自らも多くの詠草を残した。道路の改修、史跡の保存、観光書の著述などによって、箱根観光の高揚に努めると同時に、各地の報徳社の結成と実践を指導し、尊徳を祀る二宮神社の創建を企図するなど、多彩な生涯を送った。明治二十五年(1892)、年六十九で没。正兄が再興した旅館萬翠楼福住は、今も箱根湯本で営業を続けている。
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