史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「東京・横浜 激動の幕末明治」 安藤優一郎著 有隣新書

2024年07月27日 | 書評

ペリーは、当初幕府から条約交渉の場として提案のあった浦賀を拒否し、江戸もしくはその近くを主張して譲らなかった。幕府はその圧力に屈し、横浜村での交渉を提案した。半農半漁の寒村であった横浜が歴史の表舞台に登場したのは、嘉永七年(1854)二月十日、日米和親条約の交渉がこの地で開始された場面からである。その後、三月三日に条約が調印される。

安政五年(1858)、日米通商修好条約が締結された。交渉の結果、江戸、品川、大阪、平戸は開港場から外され、箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の五港が開港されることが決まった。ハリスは神奈川と横浜の両方を開港地として条約に明記するよう主張したが、幕府は神奈川だけで良いと応じたため、条約では横浜は開港地とされなかった。

神奈川は街道上にあって陸上交通の要衝であっただけでなく、神奈川湊を備えていたため水上交通でも要衝の地であった。人の往来の激しい神奈川に開港場を設置すると、外国人とのトラブルが起きることは明らかであった。神奈川に開港場を置くことは、攘夷の志士にその機会をわざわざ与えるようなものであった。そこで横浜開港案が浮上し、幕府は「横浜は神奈川の一部」という論法で強行突破を図った。

当然、欧米の外交団は横浜開港に猛反発し、神奈川の開港を強く要求した。特に通商条約締結の先鞭を切ったハリスは強硬であった。横浜のことを「出島」とまで表現し、憤激のあまり「自分の目の黒いうちは横浜開港を認めない。」と言い切っている。

この勢いに幕府は腰砕けになり神奈川における居留地設置を受け容れたが、一方で日本との貿易のために横浜に来た外国商人たちは、続々と横浜の居留地に住み始めた。横浜は大型船舶が停泊できる天然の良港を備えていたことに加え、もともと農村であったため未開発の土地が広がっていた。住居だけでなく倉庫にも転用可能な土地が、人口密集地であった神奈川と比べてまだまだ残されていたのである。ついには商人たちの方から「横浜を開港地にして欲しい」と懇願されるに至り、外交団も横浜居留地として認めざるを得なくなる。

安政六年(1859)六月に開港となった横浜であるが、勅許を得られないまま通商条約を締結したことで朝廷から厳しく責め立てられることになった。そこで幕府は、七、八年から十年以内に条約を破棄して攘夷を実行すると約束してしまう。文久三年(1863)には横浜・箱館・長崎の鎖港をイギリスに申し入れる。その後、鎖港交渉は横浜に絞られるが、いずれにせよ欧米列強は相手にしなかった。その年末、幕府は横浜鎖港を目的として使節団(正使池田長発)をヨーロッパに送ったが、もちろんそのような無茶な交渉がうまく行くはずもなかった。

最終的に横浜が貿易港として朝廷から認められたのは、慶應元年(1865)九月、四か国連合艦隊が兵庫沖に集結して威嚇し、これを受けて将軍慶喜が強く勅許を求めた結果、ようやく正式に開港地となったのである。実際に開港されて六年の歳月が過ぎていた。その間、横浜は常に政争の具となったが、たくましく発展を続けた。

横浜は自由貿易の舞台として、日本の経済に大きな影響を与える存在となったが、欧米人が居住地に住んだことにより、同時に西洋の生活文化の発信地になった。現代に生きる我々にとっても、横浜といえばお洒落でハイカラなイメージが強いが、そのイメージは明治から続いているのである。たとえばガス灯やアイスクリーム、テニス、競馬などは横浜が発祥の地となっている。

明治に入って東京築地にも居留地が設けられ外国人がそこに居住したが、その規模は横浜居留地と比べるとはるかに小さかった。築地居留地の面積は約二万八千坪にとどまったのに対し、横浜居留地は明治七年(1874)の段階で約三十七万八千坪に達した。築地には貿易商人はほとんど居住しておらず、公使館や領事館のほか、宣教師や医師、教師が多く、彼らが設立したミッションスクール(明治学院大学や立教大学等)や病院が置かれたが、横浜のような文明開化の発信地とはならなかった。

明治十年代に入ると、東京に貿易港を築き、横浜の貿易業務を東京に移管しようという計画が浮上した。事実上の横浜廃港につながりかねない計画であり、横浜としては看過できない議論であった。激しい反対運動が展開された結果、東京築港案は頓挫したが、対照的に横浜港の改良事業は進展を見せた。今日に続く横浜発展の基礎はこの時期に築かれたのである。以来、わずか百五十年ほどの間に、東京の発展とともに横浜にも人口が集中し、現在では人口三百七十万人超と大阪、名古屋を抜いて全国一の巨大都市にまで成長を遂げている。

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「福沢諭吉 変貌する肖像」 小川原正道 ちくま新書

2024年07月27日 | 書評

福沢諭吉といえば、明治を代表する啓蒙思想家である。「西洋事情」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「丁丑公論」など多くの著作があるが、個人的には読み通したことがあるのは「瘦我慢之説」くらいのもので、福沢をとりまく評価の変遷を読んでも今一つピンと来ないものがあったが、その中でも「なるほど」と思ったこと2点について書き残しておきたい。

ちょうどこの本を読んでいるさなかに、一万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一へ切り替わった。福沢諭吉が一万円札の顔として登場したのは、昭和五十九年(1984)のことである。福沢が文化人の象徴として紙幣の顔に取り上げられた背景には、「学問のすゝめ」に代表される啓蒙思想家としての側面が国民一般の間に広く認知されていることがある。

しかし、一万円札の肖像に選ばれた昭和五十年代にあっても、福沢論は定まっていなかった。国権論者・国家主義的という批判もあれば、「脱亜論」(明治十八年(1885))の解釈を巡って、福沢の「闇」の部分の論評も盛んにおこなわれていた。「脱亜論」は「時事新報」上に無署名で発表されたこともあって、戦前論壇で注目を集めることはなかった。これが福沢の論説として取り上げられるようになったのは戦後のことである。左派イデオロギーの立場からは、福沢は「経済的不平等について無関心」「資本家を擁護し、労働階級の抵抗を恐れた」(小松周吉1962)「「富豪の致富」を積極的に奨励した「ブルジョアイデオローグ」」(家永三郎1963)「帝国主義的国内政策の模倣」(ひろた1962)「下流人民を切り捨て、朝鮮民衆の可能性を無視して、これを踏み台に日本の資本主義化を促進しようとした」(ひろた1976)と激しく批判された。

1977年に政治史研究家坂野潤治が「朝鮮に永続的な立脚点を構築しようと主張した福沢」にとって、清仏戦争で中国が敗北すると日本に「朝鮮改造の好機」が訪れたが、甲申事変(朝鮮の親日派勢力によるクーデター)が失敗に帰すと、福沢は「朝鮮改造論」を放棄せざるを得なくなり、「脱亜」を宣言せざるを得なくなったと解釈した。筆者によれば「これが脱亜論の通俗的解釈として、今日まで継承されていくことになる」という。これが一点目の「なるほど」。

明治六年の政変で敗れた板垣退助らが、明治七年(1874)一月、民選議院設立建白書を提出すると、俄かに民会設置に関する議論が熱を帯びた。福沢は、「文明論之概略」で人民が地方の利害を論ずる場として民会の必要性を主張して以来、民会設置の重要性を繰り返し説いた。明治八年(1875)一月には、同じ明六社に属する加藤弘之、森有礼との鼎談で、加藤が「時期尚早」を唱えたのに対し、「尚早」とは何の「時」を基準にしていうのかと疑問を呈し、民選議院が時期尚早なら廃藩置県も尚早であると反論した。福沢が民権派であることを強く印象付ける一幕であった。

ところが明治十年代に入って自由民権活動が激化すると、官民調和論を唱え始める。「官」と「民」が権力のバランスを保ちつつその相互が「調和」するというものである。このことをもって福沢を変節漢と批判する声が上がった。

幕末に鎖国攘夷論が盛んな時には開国論を唱え、文明開化が進んで西洋への心酔が進むと逆にこれを排撃した。福沢の主張がよく変わるという声は福沢の存命中からよく指摘されていた。

これに対し、慶應義塾長を務めた鎌田栄吉は、福沢の主張が変わることをコンパスに例え、「その一脚は中心に固着して毫も移動することなく之に反して他の一脚は自由自在に伸縮弛緩して大小何れにても勝手次第の輪郭を画く」と表現した(鎌田1901)。

時代は下がるが昭和四十一年(1966)に早稲田大学出身の政治学者・木村時夫が「たしかに福沢は時代によって変貌する」が、「彼は決して機会主義者や変節漢ではない。・・・一言もって評するならばナショナリストこそが、彼に冠しうる最も妥当な称号であるように思われる」と述べたのも、鎌田栄吉のコンパス論に連なる批評であろう。これが2点目の「なるほど」である。

昭和二十六年(1951)に歴史学者の遠山茂樹が「歴史上の人物を現代的関心から取り上げる場合…往々にして誤りをおかしやすい」として自分の現代的関心にとって都合の良い一面のみを強調し、無条件に持ち上げる傾向があり、「福沢諭吉の場合でも、戦時中は国権論者(国家主義者)としての福沢が説かれ、戦後には、完全無欠な民主主義者であるかのように、礼賛の辞が捧げられる。これは歴史の勝手な利用であり、不遜な冒瀆である」という指摘は福沢批評にとどまらず、歴史上の人物を解釈するときに肝に銘じなければならないことだと思う。

 

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