史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

三宅島 Ⅰ

2018年05月12日 | 東京都
 伊豆諸島の旅も第四弾となった。今回は三宅島である。昨秋に渡航の計画を立てたが、結局宮太柱の墓の場所が分からず、直前になって行先を八丈島に変更した。今回、手を尽くして調べてみたがやはり分からないまま、現地で歩き回って探すことになった。会社の創立記念日を利用して、日曜日の夜、竹芝を出発して、三宅島には月曜日の午前五時に到着する。船は八丈島行と同じく橘丸である。八丈島のときと同じく、ほとんど一睡もできないまま朝を迎えた。風向きや天候によって、橘丸が着く港は変更される。限られた時間内に効率的に島内を移動することを考えてレンタカーを手配した。早朝にもかかわらず到着港まで迎えに来てくれる(ただし有料)。


橘丸

(浅沼稲次郎生家)
 神着(かみつき)地区に浅沼稲次郎の生家がある。生家跡は公園として整備され、銅像が建てられている(三宅村神着)。ここを起点として、島内の史跡を回ることとしよう。三宅島には全長三十五キロメートルの島内一周道路が通じており、史跡も概ねこの道路沿いに点在している。反時計回りで走ることにした。


浅沼稲次郎生家


浅沼稲次郎先生像

 浅沼稲次郎は日比谷公会堂で演説中、少年に襲われ死亡した。公衆の面前で起きた暗殺劇は衝撃的であった。てっきりリアルタイムで見たものと信じていたが、今回調べてみると、自分が生まれる前の出来事であった。

(旧島役所跡)


旧島役所跡

 この建物は、もともと神着村東郷にあったが、島役人を代々務める壬生氏が神官をつとめていた御笏(おしゃく)神社が、永正十三年(1516)、神託によって現在地に遷営された関係から、その十八年後の天文三年(1534)にこの地に移転したものである。江戸時代には伊豆代官配下の手代が三宅島に派遣され、御蔵島と合わせて支配していた。ほどなく島内で有力な神官であった壬生氏が島方取締役に任命され、寛永十五年(1638)には地役人と呼ばれるようになった。天明三年(1783)には伊ヶ谷村の笹本氏も地役人となり、幕末まで両氏による支配が行われた。
建築年代は不明ながら江戸後期の建築と推定されている。建物の面積はおよそ四十六坪で、現存している木造建築では伊豆諸島の中で最古最大の規模を誇る。材質はすべて椎の木が使われており、一切カンナが使われず、主として手斧で仕上げられた貴重な建築である(三宅村神着60)。


「篤姫」ゆかりの蘇鉄

 役所建物の前に樹齢百五十年という蘇鉄が植えられている。この蘇鉄は、安政三年(1856)十二月、島津斉彬の息女敬子(のちの篤姫、天璋院)が、十三代将軍家定公に輿入れの折、国元から持参した盆栽が船で江戸に向かう途中、事故のために大久保浜に漂着し、その時に移植されたものと伝えられている。

 前庭の柏槙(ビャクシン)の巨木に目を奪われた。この木は、御笏神社がこの地に移った直後に植えられたものといわれ、樹齢はほぼ五百年ということになる。高さ二メートルほどから二股に分れ、高さ二十六メートル、幹の太さ約七メートルという堂々たるものである。


ビャクシン

(小金井小次郎の井戸)
 侠客小金井小次郎は、武州小金井(現・東京都小金井市)の名主関氏の二男で、本名を関小次郎といった。安政三年(1856)、喧嘩の罪で三宅島に流され、慶應四年(1868)四月に赦されるまで十三年間を島で過ごした。在島中、水に悩む村民の姿を見て、大きな井戸を掘ってこれを救い、「小次郎の井戸」と名付けられた(三宅村神着1054)。赦されて江戸に帰るとき、伊豆村出身の娘を養女として伴い、その子孫は今も小金井に居住しているという。
 小次郎は明治初年、再び三宅島を訪れて、木炭の製造を指導奨励した。


小金井小次郎の井戸

(普済院)
 「小金井小次郎の井戸」の近くに所在する普済院に、小金井小次郎ゆかりの地蔵がある(三宅村伊豆)。


普済院


小金井小次郎の首切り地蔵

 小金井小次郎は普済院境内に住んでいたが、元治元年(1864)正月、境内で若者たちとさまざまな業を競った時、向う気の強さを丸出しにして地蔵尊の首を斬り落としてしまった。時の住職智道和尚は、小次郎の粗暴な振る舞いを堅く戒め、その代償として曽里川墓地に無縁供養の地蔵尊を建立することを勧めた。首を落とされた地蔵尊は、今も境内に現存している。


小金井小次郎の地蔵尊

 普済院から少し離れた曽里川墓地に小金井小次郎が建立した地蔵がある。背後には武州小金井産、小次郎の刻名を確認できる。

(善陽寺)


善陽寺

 普済院の向いに位置する善陽寺に、巡査二木金次の墓がある(三宅村伊豆284)。
 二木金次は鹿児島出身で、明治二十六年(1893)、警視庁から最初の警察官として三宅島に派遣された。赴任以来、精根を傾けて島のために尽力し、島民からも敬愛を集めていた。明治三十年(1897)、全国的に猖獗を極めた腸チフスが三宅島にも及び、多数の死者を出すに至った。金次は罹病者救助や防疫業務に挺身したが、不幸にも自ら感染し、同年十月殉職した。


巡査二木金次之墓

(伊豆岬)
 伊豆岬には珍しい角柱型の灯台が見られる。この灯台は、明治四十二年(1909)に設置点灯されたもので、昭和二十六年(1951)まで石油が使われていた。現在は電力に切り替えられている。
 周囲の海岸線は見渡す限り芝生状の草原が続き、海の向こうには伊豆諸島の島々や富士山まで遠望できるらしい。残念ながらこの日は富士の雄姿を拝むことができなかった。


伊豆岬灯台
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