史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

三宅島 Ⅱ

2018年05月12日 | 東京都
(后神社)
 伊ヶ谷港を見下ろす高台に后(きさき)神社がある。ここに禊教教祖井上正鐡の歌碑がある(三宅村伊ヶ谷)。

 あじきなき 我がねぎ事をきこし召し
 雨くだします 神そ尊し


后神社


井上正鐡歌碑


伊ヶ谷港


(大林寺)
 大林寺の直ぐ下には、江戸時代、陣屋、島牢、処刑場が置かれていた(三宅村伊ヶ谷263‐1)。
 元和九年(1623)、幕府は伊ヶ谷大船戸湾が良港であることから、御用船の取り扱いを開始した。これを契機として伊ヶ谷村は三宅島交通の要衝となり、御用船の出入港を管理監督するために享保八年(1723)には陣屋が設置された。大船戸湾普請に要する普請米や万一の事態に備えて幕府備蓄米を収納するために陣屋が設置されたが、その後、江戸からの流刑者などが増加したため、地役人が常駐するようになり、時には関所のような役割を果たすことになった。
 江戸中期になると、流人の数が増加し、中には希望を失って自暴自棄になり、喧嘩、火付、窃盗などの犯罪を重ねる者が出た。これらの犯罪者を幕府または代官の決裁が到着するまでの間、留置拘束するため、明和二年(1765)、伊ヶ谷の大船戸湾に近い場所に公儀流人牢(島牢)が建てられた。


大林寺


処刑場跡


竹内式部之像

 本堂前に竹内式部の墓と座像が置かれている。竹内式部は、江戸中期の国学者で、京都で家塾を開いて多数の門人を抱えた。式部の感化を受けた少壮の公卿が武門政治を廃して王政復古を志向したため、獄に送られた(宝暦事件)。式部は京都を追われて伊勢に蟄居となったが、京都時代の知人、藤井右門、山県大弐が幕府に対して不穏な言動をした罪によって死罪となった。同時に式部も幕府の命により八丈島に流罪となったが、船中において発病し、三宅島伊ヶ谷村に上陸し、ここで養生に努めたが、その甲斐なく同年十二月五日、五十六歳でこの地に没した。


竹内式部先生之墓


生嶋新五郎之墓

 絵島事件で有名な生島新五郎の墓である。
 生島新五郎は、徳川七代将軍家継の頃、江戸の山村座で、濡れごとの名手といわれ、当時を代表する人気役者であった。将軍家継の生母月光院に仕える大年寄り絵島との密会が疑われ、正徳四年(1714)、千五百余名が処罰されうち九十人が流刑となる大疑獄へ発展した。新五郎はこの事件により三宅島に流された。この時、四十三歳という。在島実に二十数年、享保十八(1733)年二月、配流の地三宅島伊ヶ谷村で六十三歳の生涯を閉じた。一説に赦されて江戸で亡くなったともいわれる。

(禊教三宅島分院)


禊教三宅島分院


井上正鐡霊神

 伊ヶ谷の禊教三宅島分院に井上正鐡の墓がある。
 井上正鐡(まさかね)は禊教の教祖。天保十四年(1843)六月、三宅島に流された。在島中は常に島民を教道し職業を授け、あるいは医療を施すなどしたので、人々は競ってその門に集まったといわれる。嘉永二年(1849)一月、門弟達にみとられながら、六十一歳の生涯を伊ヶ谷の地で閉じた。配流後六年であった。本来であれば、その遺体は当然のこと配流者として処置されるべきであったが、浄土宗妙楽寺の住職が導師となって葬送の儀が行われ、伊ヶ谷地区岡庭の一角に埋葬された。井上正鐡の葬儀に対して特別の配慮が加えられたのは、地役人が生前の徳を評価した現れであった。

(空栗橋)
 三宅島一周道路の空栗橋(からくりばし)の少し北側の山裾に一つの石碑が建てられている。井上正鐡が、島民の渇望する水の確保のために心を砕き、伊ヶ谷泉津の地を開発して、現在にも生きている簡易水道の源を作ったことを記念したものである。


井上正鐡大人泉津山祈雨之道

(井上正鐡の腰掛石)
 さらに島一周道路を南下して、阿古地域に入る手前に井上正鐡の腰掛石と呼ばれる石が残されている。正鐡は当初阿古に配置されたが、後に彼の才能や知識、技術が島役人の知られることになり、伊ヶ谷の役所に出勤するように、処替えを命じられた。しかし、正鐡には阿古に在住中、お初という水汲み女(現地妻のことである)が仕えており、彼女との惜別の情耐えがたく、さりとて役人の命令には逆らえなかったため、正鐡は毎日阿古から伊ヶ谷の島役所まで通った。その道すがら、海を臨むと遥か水平線の彼方に江戸が偲ばれる場所で、石の上に腰をおろして休息したと伝えられている。
 遠島処分を受けた者に対して、島抜け(脱走)と婚姻は厳禁とされていたが、水汲み女といわれる現地妻は黙認されていたという。


井上正鐡の腰掛石

(夕景浜共同墓地)
 さて、ここまで回ってきたところで時計は午前七時を示していた。帰りの船が出るまで六時間以上ある。残り時間の全て費やしてでも、宮太柱(別名大木主水)の墓を探し出すつもりであった。三宅島観光協会でも教育委員会でも「分からない」という回答だっただけに、難航が予想された。夕景浜共同墓地に着いて、意気込んで乗り込んだところ、誠に呆気なく宮太柱(たちゅう)の墓と出会うことができた。墓地中央の前列近くにある。


南無妙法蓮華経大木主水墓(宮太柱の墓)

 宮太柱は、笠岡藩出身の町医で、若い頃、岩見銀山で鉱山病対策に尽くした。当時、坑内では酸欠に斃れる者、塵肺によって死亡する者が相次いでいた。坑内で働くということは、若くして命が絶たれることを意味していた。宮太柱は通気管や防塵マスク(福面)を開発して実用化した。進歩的な医者であった宮太柱が、いつしか過激な攘夷主義者に変貌していた。明治新政府の開明的路線に反発した太柱は、新政府参与横井小楠の暗殺に関与した疑いで捕えられた。
 明治三年(1870)十月、三宅島に送られたが、到着後一週間も経たずに死亡した。獄中生活で健康を害していたと思われる。墓石に刻まれた大木主水は、宮太柱の変名。「太柱」を分解して作った名前である。

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