史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

稲城 Ⅲ

2022年12月03日 | 東京都

(ありがた山つづき)

 

従五位五島盛徳之墓

 

「但馬の殿様」の著者吉盛智輝氏より、東京に行くのでありがた山を案内して欲しいとの電話があり、喜んでご一緒させていただくこととした。土曜日の朝、最寄駅である京王線のよみうりランド駅で待ち合わせた。これまで何度も電話ではお話しているが、実際にお会いしたのは今回が初めてであった。但馬に限らず殿様(大名家から旗本に至るまで)に関する知識があふれ出そうなほど豊富な方であった。早速ありがた山を訪れた。

前回訪問時から二年が経過したが、その時よりも宅地造成はさらに近くまで迫っており、さらに背後の山は削り取られて新しい道路が通じていた。吉盛氏は

「あらゆる時代の墓石が一同に集められた珍しい場所で、これを維持保存するのは稲城市の義務だ」

と力説されていたが、そもそも稲城市はありがた山の存在(あるいはその存在価値)に気が付いているのだろうか。

雨が降り続け、時には猛烈な勢いになった。一旦傘をとりに自動車に戻る一幕もあったが、二度三度と山頂まで往復して、墓石を調査した。

吉盛氏によれば、かなり貴重な発見もあったようだが、私としては取り敢えず五島盛徳(しげのり)の墓石を発見することができて、満足であった。

 

 五島盛徳は天保十一年(1840)の生まれ。父は五島藩主盛成。安政元年(1854)、初めて上京し、翌安政二年(1855)、元服して十二月、従五位下近江守に叙任された。安政五年(1858)正月、襲封して翌年入部した。元治元年(1864)、勅を奉じて上洛し、殖産(漁業、新田開発)・倹約により海防を厳にし、兵制を改革した。慶應三年(1867)十月、上洛を促されたが、病気を理由に家老太田秋之助を先発させた。慶應四年(1868)、勝手不如意につき江戸藩邸の引き払いを願い出て、上京して海防上冨江藩三千石の吸収を図った。明治二年(1869)六月、版籍奉還により五島藩(のちに福江藩と改称)知事となり、明治四年(1871)、廃藩によりこれを免じられた。明治八年(1875)、年三十六にて没。

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によれば盛徳の墓は、文京区の吉祥寺にあることになっているが、経緯不明ながらありがた山に移送されたようである。

 

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3 コメント

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Unknown (掃苔趣味の若人)
2022-12-07 22:49:08
おそらく五島家の墓を一つの墓石に合祀し、魂抜きとなり不要となった墓石だと思われます。旗本の溝口家や松前家もそうだと思います。これらの墓石が放置されていたものを日徳会の人たちが荷車に積んで、この地まで運んだのでしょう。非常に貴重な墓石の数々だと思います。
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有り難うございます (Unknown)
2022-12-07 23:44:06
掃苔趣味の若人様

なるほど、そういうことなんですね。既に魂を抜かれているんですね。それにしても、こうして保存されているのは、大変貴重だと思います。
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Unknown (掃苔趣味の若人)
2022-12-10 12:36:51
駒込吉祥寺の五島家の墓所には、一基だけ古い墓石を改造したものが残っているので、こちらにあるのは無縁になったものでなく、不要になったもので正しいと思われます。吉祥寺には本当に無縁になった墓石が多く並べられています。この中には旗本の丹羽家や小浜家も含まれています。麻生藩主の新庄家の墓所はありがた山に改葬されず全ての墓石が残されていますが、残念ながら無縁のようです。
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