史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

巣鴨 Ⅷ

2022年12月24日 | 東京都

(染井霊園つづき)

 

松野勇雄墓

 

松野勇雄君碑

 

 松野勇雄(いさお)は、嘉永五年(1852)の生まれ。父は芸州藩郡奉行の属吏松野重大夫尚志。幼少より国学を父に、漢学を宇都宮竜山、岡田聿山らに受け、剣、弓、銃、砲の諸術を学んだ。元治元年(1864)、十三歳で藩の大砲方を命じられ、慶応二年(1866)、藩校明善堂授読となり、明治三年(1870)以降、矢野郷校、三原郷校、竹原皇学校、三津皇学校にて教授した。明治五年(1872)、志を立てて上京、平田銕胤の学僕となり、翌年教導職一四級試補を皮切りに、教部省少講義、同権中講義、宇佐神宮禰宜などを歴任。かたわら大教院より編輯兼務を命じられ、明治十年(1877)、皇大神宮権禰宜に任じられ、中講義に補せられた。同年本居豊頴の養子となり、その女みな子に配されたが、間もなく同家を去り、また本官を辞した。上京して神道事務局に入って漢学を講じ、かねて神原精二の共慣義塾に出講した。明治十五年(1882)、皇典講究所の創立に尽力し、のち幹事となり、また「古事類苑」の編纂に従事し、明治二十三年(1890)には国学院の創立に携わり、国学の研究普及に努め、また皇典講究所が出資した共立中学の校長を兼ねた。明治二十六年(1893)、年四十二で没。【1種イ3号15側】

 

青山直道之墓

 

 青山直道は、弘化三年(1846)の生まれ。父は苗木藩主青山景通である。平田篤胤の皇学に帰依し、維新後明治二年(1869)十月、苗木藩大参事となり、諸藩に率先して王政復古の実を示そうと、士族の禄を奉還させて帰農させた。守旧派上流士族の反対にあい、青山邸の焼討騒動へと発展した。明治三年(1870)正月、藩中の総出仕を命じ、暴挙に関与した反対派十名を捕らえ、藩政擾乱、反逆の罪名をもって八名を入牢、二名を閉門に処した。さらに藩内で廃仏毀釈を徹底的に行い、二十四ヶ寺を廃し、住僧を還俗させた。同年閏十月、大参事を辞して帰農し、明治四年(1871)、官途につき、栃木、静岡に勤務した。西南戦争鎮定後は、警視庁少警部となり九州に赴いた。明治十二年(1879)、岐阜県大野郡、池田郡の初代郡長に任じられ、明治十四年(1881)一月、しばらく富山県吏となったが、薩長の背景なくして容易に官界で驥足を伸ばすことの困難を知り、俗吏に甘んずることを望まず、職を辞して民間に下った。のち東京に出て易を学び、一家を成した。明治三十九年(1906)、年六十一で没。

 

従二位勲一等男爵辻新次之墓

 

 辻新次は天保十三年(1842)の生まれ。文久元年(1861)、江戸に出て蕃書調所で蘭学、仏学を学び、開成所教授手伝となった。慶應三年(1867)、同志とはかって「遠近新聞」を発行して新時代の啓蒙運動に参加した。維新後文部省に出仕すること二十五年。その間、学制の制定やその改正など、草創期の教育制度確立のために努力し、能吏の誉れ高かった。明治十九年(1886)、文部次官、ついで貴族院議員となった。大正四年(1915)、年七十四で没。

 

近藤瓶城の墓

 

 近藤瓶城(へいじょう)は、天保三年(1832)の生まれ。幕末岡崎藩儒員に登用され、維新前後は藩の公用人であった。勤王思想家でもあり、版籍奉還にも尽力した。また彼の編輯した「史籍集覧」は、「群書類従」の逸漏を補い、それ以後の著書を収録したものとして名高い。明治三十三年(1900)から同三十六年(1903)にかけてその子圭造により改訂されている。明治三十四年(1901)、年七十で没。

 

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