史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊豆大島

2016年01月16日 | 東京都
 一年前の新島以来の伊豆諸島渡航である。前日の午後十時、新島のときと同じ大型客船サルビア号に乗り込む。前回と変わって乗客は少なく、二等船室でもゆったりと寝ることができた。
 伊豆大島到着は午前六時。てっきり元町港に着くものと思い込んでいたが、サルビア号は伊豆大島北端の岡田港に入った。念のために「元町港には行かないのですか?」と聞いてみたが、その乗員は、さも当然といった風で「今日は岡田港です」というだけであった。私が見落としただけかもしれないが、岡田に着くということはどこにも(少なくとも目に触れるところには)掲示されておらず、これは少々不親切と言わざるを得ない。
 事前に路線バスの時刻表を調べていたが、岡田港からは一時間半も待たなくてはならない。「弱ったな」と思案していると、元町港方面のバスが発車しますとのアナウンスが流れた。岡田港到着の船に合わせて臨時便が出るようである。これ幸いとこのバスに飛び乗った。
 大島にはレンタサイクルもあるが、岡田から元町まで六キロメートル、元町から波浮まで十二キロメートルあるので、自転車で移動するには無理がある。レンタカーか路線バスを活用するのが良いだろう。

 そのバスが動き出してから分かったことであるが、少し前に波浮港行のバスが発車したばかりという。運転手さんが波浮港行のバスに無線で連絡してくれ、途中で乗り換えをさせてくれた。おかげで、岡田から三十分ほどで目的地である波浮港に行き着くことができた。
 バスの車窓からは時々海が見える。遠く新島と利島の姿も見える。「伊豆」という名称がついているくらいだから、静岡県でも良さそうだが、ここも東京都である。自動車のナンバープレートは品川である。
途中、「地層切断面」というバス停があって、その付近では切り立った崖に鮮やかにバウムクーヘン状の地層が現れていた。地層マニアには堪らないだろう。
岡田が島の北に位置しているのに対し、波浮は南端にある。つまり伊豆大島を縦断したことになる。早朝からこのバスで波浮まで乗っていたのは、私一人であった。

(波浮港)
 波浮港はもともと火口湖であった。往時、波浮の池と呼ばれていたが、承和五年(838)の水蒸気爆発と元禄十六年(1703)の大地震、大津波により、東南の岸壁が崩れ、海に通じた。寛政二年(1790)、田村玄長の薬草調査に案内者として来島した上総の人、秋広平六は、幕府に願い出て工事の一式引受人として港口の開削に当たった。五か月の歳月をかけて、寛政十二年(1800)に竣工した。この後は波浮の港と呼ばれ、沿岸漁業の中心地として、また嵐の避難港として各地から船が集まり、隆盛を極めた。


波浮港

 波浮の街には「文学の道」が整備されている。波浮には、幸田露伴、林芙実子、与謝野鉄幹、与謝野晶子ら、多くの文人が訪れている。彼らが残した文章や詩歌が石碑となって出迎えてくれる。


与謝野鉄幹歌碑(波浮港見晴台にて)

 山めぐり 波浮の入江の青めるに
 影しぬ船と片側の町

(旧甚之丸邸)


踊子の里 甚の丸邸

 文学の道に沿って階段を上って行くと、「踊子の里 旧甚之丸邸」がある(大島町波浮港1)。
 この近辺は江戸末期から昭和初期にかけて、港町として全盛を極めた波浮港を支え、活気の原動力となった。網元の家々が立ち並ぶ石蔵の街である。石蔵は大谷石で造られ、なまこ壁を持つ家が並んでいた。網元の屋号には、港町特有の「丸」がつけられていた。現在も当時のままの姿を伝えるのは甚の丸屋敷のみとなっている。


踊子の里 旧甚之丸邸

(妙見山墓地)
 四基並んでいるうち、右から二番目が秋広平六の墓で、その左が夫人のものである。
 秋広平六は宝暦七年(1757)、上総に生まれた。寛政二年(1790)、幕府医官田村玄長の薬草調査案内人として大島を訪問。その頃、良港のなかった大島で、噴火口跡の崖を切り崩し、波浮港を開いた。その後も多くの殖産事業を行い、開拓者として伊豆大島の発展に功績を残した。文化十四年(1817)、没。六十一歳。


秋広平六の墓


徳島藩士の墓

 同じ妙見山墓地の、薄暗い一画に徳島藩士四名の墓がある(大島町波浮港16)。
 大島遠流は、寛政八年(1796)に廃止となっていたが、それから七十四年ぶりに流人船が波浮港に寄港した。その船に徳島藩士が乗っていた。
彼らは、明治三年(1870)に阿波徳島藩で起きた稲田騒動(庚午事変)で罪を得た一行であった。彼らは波浮の田中家に預けられた。付き添いの役人は、私闘の科人とはいえ、廃藩置県令に違反し、朝命に背いた藩内の分子に斬奸の刃をふるい、身命を賭して藩主の責任を代わって負った志士忠臣として丁重に遇した。手鎖監禁もなく、衣服も絹布が許され、什器も新調された。村の婦女等が交互に詰めて炊飯掃除洗濯の労に服したという。
 ところが、間もなく織田角右衛門(四十七歳)が急逝。次いで今田増之助(四十七歳)が病死。さらに平瀬所兵衛も病死。稲垣軍兵衛(五十歳)が翌年三月に病死した。彼らはいずれも当時全国的に流行していたコレラに罹患したものと見られる。


徳島庚午事変志士之墓

 今回の伊豆大島の旅の最終目的地がこの徳島藩士の墓であった。波浮港到着から三十分で行き着くことができて大いに満足であった。

(龍王岬鉄砲場)


史跡名勝 鉄砲場

 妙見山墓地から龍王岬灯台を目指して歩いていくと、途中で鉄砲場がある。この地に鉄砲場(台場)が築かれたのは、寛政年間、十一代将軍家斉の時代である。その頃、ロシアの船が北海道沿岸に出没するようになり、寛政四年(1792)には、ロシアのエカテリーナ号が根室に投錨したことが発端となり、海辺防備の令が発せられた。同年十二月には老中松平定信に房総豆相沿岸の巡視が命じられた。その後も文化三年(1806)、ロシア船が樺太で住人を捕え去ったり、翌年には択捉に上陸する事件が相次いだため、同年十二月に露国船撃払い令を発令した。この時には、島民にも防備のための任務が与えられた。文化五年(1808)には幕吏橋爪頼助一行十人が巡視した際、射撃の指導を受けた。この場所は、第二次世界大戦時にも陸軍によって陣営が置かれた。今も当時の防空壕や塹壕跡が残されている。


史蹟 「鉄砲場」

 ここに台場が設置された時、波浮は開港から間もなく、人家も少なかったため、隣の差木地村から応援を受けて、外国船に備えたという。

 岬からは遠く利島、新島を臨むことができる。この場所は朝日も夕日も見ることができる名所でもある。残念ながら、私が龍王岬を訪ねた時にはすっかり朝日は上りきった時間であったし、夕日が沈む時間まではとても待てなかった。

(波浮港見晴台)


波浮港見晴台から波浮港を見下ろす

 龍王岬を訪問した後、一旦港側に降りたが、見晴台に行くには妙見山墓地の前の道を真っ直ぐ行った方が近道だということが分かったため、再度「文学の道」の階段を昇ることになった。登山用の大きなリュックを背負って長い距離を移動するのは、オッサンにはキツかったが、何とか見晴台に行き着いた。ここに秋広兵六の銅像が建てられている(大島町波浮港見晴台)。


秋広平六翁之像

 見晴台には、都はるみの「アンコ椿は恋の花」の歌碑もある。この歌は、波浮港を歌ったものだそうだ。


「アンコ椿は恋の花」碑

 見晴台前のバス停から元町港へ向かうバスに乗る。島を出る船も、この日は岡田港から出るということなので、元町港でバスを乗り継いで岡田港に向かう。岡田港に着いたのは、午前十時半過ぎであった。十一時五十分発の高速船に乗ると、十二時三十五分に竹芝桟橋に着く。行きに八時間もかかったことを思えば、アッという間である。

(岡田港)


岡田港


力士 大島傳吉碑

 岡田港近くに力士大島傳吉碑がある(大島大岡田2)。大島傳吉は、明治期に活躍した大島岡田村出身の力士である。書は二代総理大臣黒田清隆による。

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