(東禅寺)
平安時代末、多古は桓武平氏の流れをくむ千葉氏の荘園「千田荘」の中心地であった。千葉氏の中興の祖千葉常胤は、源頼朝を援け、鎌倉幕府の成立に貢献し、千葉氏が下総最大の武士団となる礎を築いた。以来、勢力は全国におよんだが、千葉氏一族の内乱がたびたび起き、千田荘もその舞台となった。
享徳四年(1455)には、千葉宗家の千葉胤直は千葉城を追われ、子供や弟を引き連れて千田荘まで逃れた。胤直と側近は多古城に拠って応戦したが、敢え無く陥落し、胤直らは東禅寺で自害した。この地は千葉宗家終焉の地となったのである。東禅寺墓地に並ぶ七基の五輪塔は、千葉胤直らの墓と伝わる。(多古町寺作117)
東禅寺
千葉胤直らの墓は、本堂から少し離れた丘の上にあり、その周りに狭い墓地がある。ほとんどが並木姓の墓石であるが、その中に並木栗水(りっすい)の墓がある。
配中村氏 並木栗水翁 墓
並木栗水は、文政十二年(1829)の生まれ。幼名は左門。のちに栗水と号した。二十一歳で大橋訥庵の門に入って勉励し、思誠塾の塾長となった。在塾七年で佐原に帰り、螟蛉塾を開き、慶応二年(1866)、郷里久賀村に移った。志士的な動きはせず、郷党の子弟の教育に専念し、御所台先生と称された。大橋陶庵、楠本碩水らと交遊があり、経学・詩文に優れ、書も巧みであった。時流の外にあって学者、教育者としての生涯を貫いた。北総地区の名士で、その門から出た者も多い。大正三年(1914)、年八十六で没。
(螟蛉塾跡)
東禅寺から県道120号に戻り北上して、最初の交差点(台作バス停がある)を左折して六十メートル行ったところに並木栗水の顕彰碑が建てられている。ここが螟蛉塾跡である。螟蛉(めいれい)とは青虫のことであるが、「詩経」にあるジガバチが螟蛉の子を背負い、七日間で化して自分の子とした故事に因んで「養子」の意味もある。弟子は師の後ろ姿を見て育つという教育指針のもと、師と弟子が日々生活をともにした。希望者は、何年でも学ぶことができたという。(多古町御所台171)
栗水並木先生之碑
石碑の題字は徳富蘇峰。
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