(観福寺つづき)
故 香取少宮司兼權少教正伊能頴則之墓
伊能頴則(ひでのり)の墓を訪ねるため、観福寺を再訪した。観福寺には、伊能姓の墓所がいくつか見られるが、頴則の墓は伊能忠敬の墓所からほんの十メートルほど進んだ場所にある。
伊能頴則は、文化二年(1805)の生まれ。下総国埴生郡飯田村の神山魚貫ほかに学び、嘉永元年(1848)、家業の呉服商をすてて、江戸本所亀沢町に居住、皇学を教授した。嘉永六年(1853)、佐原に帰住し、元治元年(1864)、香取尚古館学師となり、同年八月には香取神宮神官となった。明治元年(1868)、東京に出て、神祇官に勤めた。明治二年(1869)八月、大学大助教となり、令義解を御前にて講じた。明治五年(1872)、大講義、明治八年(1875)、香取神宮少宮司となり、ついで権少教正となった。下総地方の国学指導に神山魚貫とともに努め、また国書蒐集にも努めた。歌風は古今風であり、画は大雅堂風を好む文人でもあった。明治十年(1877)、年七十三で没。
(浄国寺)
浄国寺
清宮家墓地
常隂清宮秀堅墓
清宮家の墓所は生垣で囲まれており、その前には大きな鳥居が建てられているので、遠くからでも直ぐに分かる。(香取市佐原イ1973)
清宮秀堅は文化六年(1809)、佐原の生まれ。父は武彦といい、詩画をよくした文化人であった。秀堅は若くして父母と別れ、祖母に育てられた。幼名は秀太郎、のちに総三郎と改め、通称は利右衛門、号は常隂。幼時から学問を好み、津宮の久保木竹窓、潮来の宮本茶村に学んだ。二十七歳で名主となり、天保十三年(1842)、三十四歳のとき領主の津田氏に仕えた。以来、二十年余り、津田氏の財産を管理し、苗字帯刀を許された。明治五年(1872)、印旛県に出仕し、歴史、地理の講義、調査を行った。明治六年(1873)、新治県の地誌編集に従事し、香取、海上、匝瑳の三郡を探訪して「三郡小誌」を著わした。私費を投じて佐原村や付近十七村の道路の改修を行い、新田開拓にも貢献した。明治十二年(1879)、年七十一で没。
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