(悠久山公園つづき)
戊辰刀隊戦没諸士碣銘碑
戊辰槍隊戦没諸士碣碑
北越戊辰戦争で戦死した長岡藩の刀隊、槍隊の追念碑である。長岡藩軍はフランス式の近代的武器で装備したが、一方で刀や槍で戦った小隊が大いに前線で活躍した。刀隊の碑は小林虎三郎が撰文を寄せている。
鵜殿団十郎碑
鵜殿団十郎(春風)は、天保二年(1831)長岡城下に生まれた。幕府の開いた蕃書調所の教授に招聘され、「万国奇観」を著すなど博識を謳われた。春風と親交があり、才を惜しんだ勝海舟が碑文を寄せた。
三島億ニ郎碑
悠久山公園の中でも、もっとも奥まった場所にあるのが三島億二郎の顕彰碑である。
三島億二郎は、戊辰戦争後の混迷した長岡藩の大参事を引き受け、藩債を整理し、殖産興業、教育の振興、北海道移民等の施策を実行に移し、長岡復興の礎を築いた。没後、その人格を敬慕する人たちにより、昭和二年(1927)この地に追念の碑が建立された。
長岡市郷土資料館
悠久山にかつて城があったわけではないが、どういうわけだか、郷土資料館は城の姿をしている(長岡城を再現したものではない)。本来、城があったところに駅舎を建ててしまったので、その罪滅ぼしにここに城を築いたということかもしれない。
昭和二十九年(1954)、長岡駅の地下道掘削工事中に地下四メートルの地点から城塁の礎石が発見された。この石が郷土資料館の礎石の一部として移されている。
舊長岡藩総督河井君碑
郷土資料館に行く道に河井継之助の顕彰碑がある。
(普済寺)
普済寺
普済寺には、牧野家初代忠成の墓がある。本堂裏手の苔むした石段を登ると、殉死した二人の家臣の五輪塔に守られるように、忠成の墓が立っている。
少年隊士在銘碑
戊辰戦士供養塔
牧野忠成の墓へ行き着く途中に、戊辰戦争で犠牲となった長岡藩の少年隊士を弔った墓標がある。戊辰戦争の少年兵というと、会津の白虎隊や二本松少年隊が有名であるが、人数は少ないながら長岡にも若くして散った命があったのである。
妙見(榎峠近く)での戦争で負傷 生家で死亡
西郷勇(十六歳)
新保村で負傷 会津城下にて戦死
三間豊蔵(十八歳)
片田村にて戦死
牧野金太郎(十七歳)
戊辰刀隊戦没諸士碣銘碑
戊辰槍隊戦没諸士碣碑
北越戊辰戦争で戦死した長岡藩の刀隊、槍隊の追念碑である。長岡藩軍はフランス式の近代的武器で装備したが、一方で刀や槍で戦った小隊が大いに前線で活躍した。刀隊の碑は小林虎三郎が撰文を寄せている。
鵜殿団十郎碑
鵜殿団十郎(春風)は、天保二年(1831)長岡城下に生まれた。幕府の開いた蕃書調所の教授に招聘され、「万国奇観」を著すなど博識を謳われた。春風と親交があり、才を惜しんだ勝海舟が碑文を寄せた。
三島億ニ郎碑
悠久山公園の中でも、もっとも奥まった場所にあるのが三島億二郎の顕彰碑である。
三島億二郎は、戊辰戦争後の混迷した長岡藩の大参事を引き受け、藩債を整理し、殖産興業、教育の振興、北海道移民等の施策を実行に移し、長岡復興の礎を築いた。没後、その人格を敬慕する人たちにより、昭和二年(1927)この地に追念の碑が建立された。
長岡市郷土資料館
悠久山にかつて城があったわけではないが、どういうわけだか、郷土資料館は城の姿をしている(長岡城を再現したものではない)。本来、城があったところに駅舎を建ててしまったので、その罪滅ぼしにここに城を築いたということかもしれない。
昭和二十九年(1954)、長岡駅の地下道掘削工事中に地下四メートルの地点から城塁の礎石が発見された。この石が郷土資料館の礎石の一部として移されている。
舊長岡藩総督河井君碑
郷土資料館に行く道に河井継之助の顕彰碑がある。
(普済寺)
普済寺
普済寺には、牧野家初代忠成の墓がある。本堂裏手の苔むした石段を登ると、殉死した二人の家臣の五輪塔に守られるように、忠成の墓が立っている。
少年隊士在銘碑
戊辰戦士供養塔
牧野忠成の墓へ行き着く途中に、戊辰戦争で犠牲となった長岡藩の少年隊士を弔った墓標がある。戊辰戦争の少年兵というと、会津の白虎隊や二本松少年隊が有名であるが、人数は少ないながら長岡にも若くして散った命があったのである。
妙見(榎峠近く)での戦争で負傷 生家で死亡
西郷勇(十六歳)
新保村で負傷 会津城下にて戦死
三間豊蔵(十八歳)
片田村にて戦死
牧野金太郎(十七歳)
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