史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長岡 悠久山 Ⅰ

2011年05月28日 | 新潟県
(悠久山公園)
悠久山は、長岡市の東側の小さな丘陵である。第三代藩主牧野忠辰(ただとき)によって、佐渡杉や吉野の桜、京都嵐山の楓などが集められた。この山を悠久山と名付けたのは九代藩主忠精である。大正六年(1917)、牧野家入封三百年の記念事業として公園化された。

私が悠久山公園を訪ねた時、雨が降り出した。花見客を当て込んで露店が出ていたが、さすがにこの天気では花見客はまばらであった。桜も既に盛りは過ぎており、散り落ちた花びらが、まるで雪のように芝の上に積っていた。


蒼柴神社

蒼柴神社は、九代藩主牧野忠精が建立したものである。祭神は、中興の祖と称される三代藩主忠辰と事代主命(ことしろぬしのみこと)である。安永八年(1779)に起工して、三年を要して完成した。


山本帯刀碑
(ピンボケです)

悠久山公園にはたくさんの石碑が建てられている。全て見て回ると結構時間がかかる。
山本帯刀は、長岡藩士安田家に生まれたが、家老山本家を継ぐ。槍刀弓馬いずれも練達の武士だった。戊辰戦争では大隊長として奮戦したが、会津飯寺で濃霧のために判断を誤り敵軍に捕えられ、家臣渡辺豹吉とともに斬首された。二十四歳であった。篆額榎本武揚、撰文三島中州。


小林病翁(虎三郎)碑

小林虎三郎は、病弱だったため自ら病翁(へいおう)と号した。維新後、長岡の復興に尽くした。ことに「米百俵」の逸話は有名である。篆額は子爵牧野忠篤、撰と書は高橋翠村。


招魂社

蒼柴神社の社殿の裏手に招魂社がある。北越戊辰戦争と西南戦争の長岡藩犠牲者を祭祀している。


山本帯刀 河井継之助の墓

招魂社の一番奥まった場所に、総督河井継之助と大隊長山本帯刀の墓が並べられている。


戊辰戦争戦死者の墓

戊辰戦争における長岡藩の犠牲者は、三百五十余名。会津藩、旧幕臣に継ぐ数となっている。


西南戦争殉死者の墓

西南戦争の徴募に応じて殉じた池田九十郎一等少警部以下、十八名が慰霊されている。


長岡藩歴代藩主御霊廟


第九代藩主 牧野忠精の墓

牧野家歴代の江戸における墓所は、港区三田の済海寺であった。昭和五十八年(1983)、寺の事情により墓地が整理されることになり、十七基の墓石が当地に移されることになった。

牧野家は、三河以来の譜代の家であるが、明君と呼ばれる藩主を何人か生んだ。牧野忠精もその一人であろう。
九代藩主忠精は明和三年(1766)七歳のときに藩主となっている。西丸大手門勤番、内桜田門勤番を経て、天明七年に寺社奉行、さらに大阪城代、享和元年(1801)には老中となって幕政中枢に参画している。藩政においては、儒者高野栄軒、余慶父子を登用して、三河以来の「常在戦場の精神」を根付かせた。また、新田開発に力を注ぎ、干拓事業を推し進め、増収をはかった。また、余技として雨龍(あまりょう)の絵を描くことを得意とし、将軍家や大名のほか、家臣や庶民にまで頒布したため、現在までたくさんの作品が伝わることになった。郷土資料館でも現物を見ることができる。忠精は天保二年(1831)に江戸で亡くなっている。このとき河井継之助は五歳に過ぎないが、忠精の存在は彼の精神にも甚大な影響を及ぼしたと言われる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 長岡 北部 Ⅲ | トップ | 長岡 悠久山 Ⅱ »

コメントを投稿

新潟県」カテゴリの最新記事