(伊能忠敬記念公園)
伊能忠敬は、延享二年(1745)二月十一日、上総国山辺郡小関村の旧家小関五郎左衛門の家に生まれた。父は上総国小堤村(現・横芝光町)の神保貞恒であった。貞恒は小関家の婿養子に迎えられ、妻ミネとの間に二男一女をもうけた。次男三次郎がのちの忠敬である。三次郎七歳の時母は病死し、父貞恒は長男と長女を伴って神保家に帰り、三次郎だけ小関家にとどまった。小関家は漁業を経営していたため、三次郎は小関家納屋番として起居した。宝暦十二年(1762)、佐原の伊能長由の養子となって佐原に移る十一歳まで、伊能少年はこの地で過ごした。
伊能忠敬記念公園
伊能忠敬先生出生之地
伊能忠敬像
(妙覚寺)
妙覚寺

布留川家先祖の墓石
妙覚寺には、伊能忠敬の祖母や養子(忠敬の娘婿)の生家であり、姻戚でもある飯高家や神保家とも関係がある布留川家の墓所があった。故に伊能忠敬ゆかりの寺と呼ばれている。
布留川家は転居のため、先祖代々の墓を廃墓とすることを決めたが、伊能忠敬ゆかりの資料として、忠敬の生家でもある小関家菩提寺である妙覚寺に移設されることになった。

處士乾君墓表
處士乾君墓表とあるが、本名を長沼祐達といい。四代にわたり三春藩主に侍医として仕えた。のち脱藩して江戸に奔り、林大学頭の下で儒学を究めた。終生仕官せず、小関に隠遁後は自己研鑚と子弟の教育を続け、生涯を処士として生涯を終えた。この墓誌は、三春藩の高名な儒者である朝川鼎(善庵)の撰文、署は巻高任(菱湖)の筆による。
自琢先生墓表
父藤代道琢は、幕府医学館の教官で、のちに将軍家斉に召された名医である。藤代自琢は道琢の二男で、幼時から広く群暑に通じていたが、磊落な性格から世事に疎く、煩わしい宮仕えを嫌って、子供の自謙に医業を継がせ、自らは江戸を去って、下総・常陸に遊び、晩年の六年間は小関に住んで近隣の子弟を教育した。天保四年(1833)、五十三歳で没。墓表は門人藤代毅(昌琢)の撰文である。
翰海先生墓
西山翰海は元文五年(1740)対馬の生まれ。壇ノ浦でほろんだ平家の末裔という。七歳にして上京し、以後二十年間、儒学、医学、仏教、国学、法制を学び、さらに江戸で学ぶこと十八年に及んだが、小関村に退隠し、子弟の教育と著述に没頭した。文化十一年(1814)、七十五歳で永眠。
李園藤代先生墓表
藤代昌琢は、初め目黒自琢に医学を学びその奥義を究め、のち儒学を篠崎司直に学んだ。文久年間の真忠組事件にも昌琢の名声を聞いた首領楠音次郎から参加を要請されたが、応じなかった。戊辰の戦役後、本町小関に身を潜めていた勝海舟とも親交があったと伝えられる。学制改革に至る過渡期の村塾の師として最後を飾った。明治二十一年(1889)、七十二歳で没。墓誌は門人の成川尚義の撰文。篆額は勝海舟の筆になる。
伊能忠敬は、延享二年(1745)二月十一日、上総国山辺郡小関村の旧家小関五郎左衛門の家に生まれた。父は上総国小堤村(現・横芝光町)の神保貞恒であった。貞恒は小関家の婿養子に迎えられ、妻ミネとの間に二男一女をもうけた。次男三次郎がのちの忠敬である。三次郎七歳の時母は病死し、父貞恒は長男と長女を伴って神保家に帰り、三次郎だけ小関家にとどまった。小関家は漁業を経営していたため、三次郎は小関家納屋番として起居した。宝暦十二年(1762)、佐原の伊能長由の養子となって佐原に移る十一歳まで、伊能少年はこの地で過ごした。

伊能忠敬記念公園

伊能忠敬先生出生之地

伊能忠敬像
(妙覚寺)

妙覚寺

布留川家先祖の墓石
妙覚寺には、伊能忠敬の祖母や養子(忠敬の娘婿)の生家であり、姻戚でもある飯高家や神保家とも関係がある布留川家の墓所があった。故に伊能忠敬ゆかりの寺と呼ばれている。
布留川家は転居のため、先祖代々の墓を廃墓とすることを決めたが、伊能忠敬ゆかりの資料として、忠敬の生家でもある小関家菩提寺である妙覚寺に移設されることになった。

處士乾君墓表
處士乾君墓表とあるが、本名を長沼祐達といい。四代にわたり三春藩主に侍医として仕えた。のち脱藩して江戸に奔り、林大学頭の下で儒学を究めた。終生仕官せず、小関に隠遁後は自己研鑚と子弟の教育を続け、生涯を処士として生涯を終えた。この墓誌は、三春藩の高名な儒者である朝川鼎(善庵)の撰文、署は巻高任(菱湖)の筆による。

自琢先生墓表
父藤代道琢は、幕府医学館の教官で、のちに将軍家斉に召された名医である。藤代自琢は道琢の二男で、幼時から広く群暑に通じていたが、磊落な性格から世事に疎く、煩わしい宮仕えを嫌って、子供の自謙に医業を継がせ、自らは江戸を去って、下総・常陸に遊び、晩年の六年間は小関に住んで近隣の子弟を教育した。天保四年(1833)、五十三歳で没。墓表は門人藤代毅(昌琢)の撰文である。

翰海先生墓
西山翰海は元文五年(1740)対馬の生まれ。壇ノ浦でほろんだ平家の末裔という。七歳にして上京し、以後二十年間、儒学、医学、仏教、国学、法制を学び、さらに江戸で学ぶこと十八年に及んだが、小関村に退隠し、子弟の教育と著述に没頭した。文化十一年(1814)、七十五歳で永眠。

李園藤代先生墓表
藤代昌琢は、初め目黒自琢に医学を学びその奥義を究め、のち儒学を篠崎司直に学んだ。文久年間の真忠組事件にも昌琢の名声を聞いた首領楠音次郎から参加を要請されたが、応じなかった。戊辰の戦役後、本町小関に身を潜めていた勝海舟とも親交があったと伝えられる。学制改革に至る過渡期の村塾の師として最後を飾った。明治二十一年(1889)、七十二歳で没。墓誌は門人の成川尚義の撰文。篆額は勝海舟の筆になる。
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