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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新城

2017年10月06日 | 愛知県
(勝楽寺)
 新城市川路夜燈の勝楽寺門前に巨大な岩瀬忠震の顕彰碑がある。岩瀬忠震没後百五十年を記念して平成二十二年(2010)、この石碑が建てられた。
 岩瀬忠震の父は、設楽貞丈という旗本で、東三河東郷(現・新城市)周辺を領地としていた。その縁でこの場所に顕彰碑が建てられたというわけである。


勝楽寺


「純忠」岩瀬忠震顕彰碑

(洞雲寺)
 洞雲寺の境外北東にある墓地に森の石松の墓がある。森の石松の墓を探して墓地内を歩いていると、ちょうど墓参りに来ている男性から、「これが森の石松の墓だ」と教えていただいた。男性によれば、墓前に日本酒などが供えられている墓ではなく、その左手にある小石を積み上げたような小さな墓石が森の石松のものらしい。


洞雲寺


森の石松の墓


森の石松の墓

 森の石松が生まれたのは、天保二年(1831)頃といわれるが定かではない。石松が生まれた山本家は、元信州諏訪の藩士だったが、後に主家を浪人し、堀切(現・新城市富岡)で百姓となり、代々山本荘次郎を名乗った。庄屋を務める家柄で、父助治は作手大和田の郷士稲吉庄右衛門応貞の妹かなを妻に迎え、二人の間に次男として生まれたのが石松である。
 助治は屋敷内にあった諏訪神社の分神を、請われて伊勢の人に譲って以来、不運に見舞われることになった。石松三歳のとき、火災で家が焼け、この時母かなと飼っていた馬を失った。助治は土地を人に預け、石松を連れて遠州森町在の山へ炭焼きの出稼ぎに出た。石松七歳のとき、森の天宮神社祭礼で迷子となり泣いているところを森の五郎親分に拾われて、その弟の新寅に引き取られて育てられた。石松十四歳のとき、五郎親分のところに立ち寄った清水の次郎長の目にとまり、見込まれて引き取られ、以来清水一家の人となった。次郎長の片腕として、一家の誰よりも強く、義理と人情に厚い人物として今に伝わる。万延元年(1860)没。

(森の石松生家跡)


森の石松生家跡

 洞雲寺から一キロメートルほど西へ行った富岡堀切に森の石松の生家跡がある。遺構らしきものは何一つ残っておらず、八名郷土史会の建てた案内板があるのみである。

今夏の史跡の旅はここまで。新城を出たとき午後三時前であったが、渋滞が予想されたので、早めに切り上げた。午後七時半にはレンタカーを返却しなければならない。ちょっと早過ぎるかと思ったが、渋滞は予想を上回った。第二東名高速を東上したが、沼津辺りから混み始め、御殿場で動かなくなった。その後も厚木まで断続的に渋滞が続き、八王子に帰ったのは予定時間を一時間も超過してしまった。お盆休みの渋滞は「夏の風物詩」とも呼ばれるが、それほど生易しいものでもない。渋滞は翌日の方が深刻だといわれていたので、一日早く帰ることにしたのだが、結局渋滞に巻き込まれてしまった。疲労が倍加した。

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御嵩

2017年10月06日 | 岐阜県
(伏見公民館)


伏見宿本陣之跡

 伏見宿は中山道五十番目の宿場。文久元年(1861)十月二十七日の昼、関東下向中の和宮は、伏見宿で小休をとった。

(みたけ館)
 御嶽宿は中山道の四十九番目の宿場である。現在、街の中心部、本陣跡には中山道みたけ館が設けられている。この施設は一階が図書館、二階が資料館となっている。文久元年(1861)十月二十七日、和宮は御嶽宿で昼食をとった。


中山道みたけ館

 現在、御嶽宿には商家竹屋(竹屋資料館)を始めとして古い建物が多く残されている。


御嶽宿

(耳神社)


耳神社

 耳神社は、中山道上にある神社で、全国的に見ても珍しい、耳の病気にご利益があるといわれる。平癒の願をかけて、お供えしてある錐を一本借りて耳に当て、病気が全快するとその人の年の数だけ錐をお供えした。小さな祠には奉納された錐がいくつも下げられており、厚く信仰されていたことが伺われる。
 元治元年(1864)、水戸天狗党が中山道を通過した際、耳神社の幟を敵の布陣と勘違いし、刀を抜いてここを通ったと伝えられる。

(一呑の清水)
 一呑清水(ひとのみのしみず)は、中山道を旅する人々にとって、咽喉の渇きを潤し、旅の疲れを癒す憩いの場所であった。文久元年(1861)十月、降嫁のために江戸に向かっていた和宮は、道中この清水を賞味したところ、大層気に入り、のちの上洛の際にも永保寺(現・多治見市)からわざわざここから清水を取り寄せ、点茶を楽しんだと伝えられる。
 往時はともかく今は継続的に水が湧き出ている様子ではなく、とてもここの水を飲める状態ではない。


一呑の清水

(御殿場)


鬼岩公園


中山道

 一呑の清水から砂利道の中山道が伸びており、昔の街道の風情を味わうことができる。その道沿いに御殿場と呼ばれる場所がある。文久元年(1861)、和宮一行が休憩するために、この場所に御殿が急造され、以来ここを御殿場と呼ぶようになった。
 和宮はその前日、太田宿(現・美濃加茂市)に宿泊し、御嶽宿、御殿場で休息をとって、その夜は大湫宿(現・瑞浪市)で宿泊した。
 御殿場跡は、中山道から少し昇った丘の上にあった。現在、その場所には東屋に設けられている。

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美濃

2017年10月06日 | 岐阜県
(円通寺)
 美濃市の円通寺は市街地にあって、門前は狭いが、境内に入ると裏山に広い墓地を有する。墓地には村瀬藤城、同姓太乙、秋水の墓がある。


円通寺


村瀬藤城墓

 村瀬藤城は、寛政四年(1792)、上有知に生まれた。父は村瀬重為。幼時は村の善応寺禅智和尚に経学詩文を学んだ。文化八年(1811)春、大阪に遊び、高岡静古、篠崎小竹、頼山陽に会い、山陽の弟子となった。のち山陽は京に、藤城は郷里に帰り、お互いに文通した。文化十年(1813)晩秋、山陽は美濃に来遊し、上有知に藤城を訪ねしばらく藤城邸に寓し、郡上にも遊んだ。山陽の門下俊才中、藤城は最も山陽に敬愛され、史学・文章をもって塾中に有名であった。山陽の「日本外史」を首として諸史を編述するに当たっては、常に藤城が参与していた。山陽は藤城を尋常の弟子として扱わず、山陽の経済窮乏の際には藤城がよくこれを救った。文政八年(1825)、郷里の上有知の藤城山に私塾を開き、藤城山居と称し、また梅花三〇〇〇を植え、茅舎を梅花村舎とも呼んで人を集めて教授した。天保末年、郡上藩に招かれ藩校潜竜館で経史を講じ、天保十一年(1828)には犬山城主成瀬正住が敬堂館を新設すると、ここでも藤城は経史を講じ、門人は美濃各地から集まった。また政治的手腕も発揮し、旧尾州領内五十三ヵ村の総庄屋として村治にも業績があった。嘉永三年(1850)八月、牧谷地方の洪水の折、農民八百余人が蜂起したが、藤城が諭し、また官に請うて倉粟を発して窮民を賑恤した。嘉永六年(1853)、但馬の城崎温泉に遊び、そこで病を得て死去した。年六十二。郷里に送る櫃には頼三樹三郎が従った。


村瀬太乙墓

 村瀬太乙(たいつ)は村瀬藤城と同族。文化元年(1804)に生まれた。長じて笈(おい)を背負って京都に出て頼山陽に学んだ。塾にいること三年。山陽の没に遭い帰郷。名古屋に出て長島町で子弟を教導。天保末年、犬山城主成瀬正住が藤城を招こうとしたが固辞し、代わりに太乙を薦めたため、招かた。弘化元年(1845)、犬山版名古屋藩邸の学舎にて教授。明治三年(1870)、犬山に移り、前の如く学を督した。太乙は経史、詩文を説くにあたって字句に拘泥せず、大義を通じ、活眼を開くことを常とし、しばしば俚言諧謔を交えて、文墨を弄び、後進を誘導した。その書は頗る特徴があり、巧みであった。明治十四年(1881)、年七十八で没。


村瀬秋水墓

 村瀬秋水は、幕末維新期に活躍した書画家。村瀬藤城の弟。張月樵、野呂介石にまなび、郷里で書画に専心した。明治九年(1876)、死去。八十三歳。

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2017年10月06日 | 岐阜県
(円泰寺)
 関市本郷町の円泰寺に竹腰正旧(たけのこしまさもと)の墓がある。


円泰寺


清涼院殿正堂宗舊大居士(竹腰正旧)墓

 竹腰正旧は嘉永三年(1850)、尾張藩付庸兵部少輔竹腰正美の孫養子の家系に生まれ、文久三年(1863)祖父正美の後を継いで三万石を領した。明治元年(1868)、尾張藩付属犬山城主成瀬正肥とともに藩屛に列し、従五位下伊予守に任じられた。成瀬が勤王派を代表するのに反して、佐幕の故をもって謹慎を命じられた。同年、尾張藩主徳川義直から加増された一万石を徳川家へ還付した、明治三年(1870)、財政の窮乏甚だしく、雇卒の整理を主とする藩政改革を行った。また旧支配地一万石の復旧を請願し、太政官達をもって許された。明治四十三年(1910)、年六十一で没。

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各務ヶ原 Ⅱ

2017年10月06日 | 岐阜県
(新加納宿)


中山道 間の宿 新加納

 新加納宿は、中山道の加納宿と鵜沼宿の間にあって、「間の宿」(休憩場)と呼ばれた。小規模ながら宿場町を形成していた。今も周囲に高札場跡や一里塚跡など見ることができる。それ以前から、関ヶ原で戦功のあった大身旗本の坪内氏がこの地に陣屋を築いていた。陣屋のあった辺りは現在更地になっており、公園化する計画になっているようである。
 文久元年(1861)十月二十六日、和宮降嫁の際には、新加納宿で小休をとったとされる。


新加納陣屋跡

(少林寺)
 少林寺は坪内氏の菩提寺である。墓地に坪内氏の墓所がある。


少林寺


旗本坪内家墓所

(旗本徳山陣屋公園)


旗本徳山陣屋公園


更木陣屋跡

 江戸時代、各務原市北西部の那加から蘇原西部一帯は、美濃国大野郡徳山出身の旗本徳山氏の所領であった。初代旗本となった徳山五兵衛則秀は、織田信長、柴田勝家、前田利家に仕えた後、関ヶ原の戦いでは東軍について戦功を挙げた。徳川家康からの信頼も厚く、旧領徳山郷のほかに各務郡内で西市場、山後、桐野、岩地、大島、島崎、野口など約五千石の知行地を得て、明治維新まで十二代にわたって各務原の地を治めた。
 那加西市場の徳山氏の陣屋は更木陣屋と呼ばれた。更木陣屋の様子は「更木陣屋絵図」によって当時の敷地内の配置を知ることができる。現在、絵図に基づいて復元が進み、陣屋公園として整備されている。

(加納城門)
 蘇原伊吹町の民家の前に加納城の門が移築されている。


加納城門

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北方

2017年10月06日 | 岐阜県
(北方陣屋跡)
 北方の中心部に、かつて北方城という天守閣のない土居城があった。築城したのは伊賀太郎左衛門光就で、織田信長に仕え、姉川の合戦や長島一向一揆討伐に参戦して戦功があった。本能寺の変で織田信長が殺害されると、稲葉一鉄、貞道父子に攻められて落城した。


戸田孫七郎陣屋跡


史蹟北方城阯

 寛文八年(1668)以降、北方戸田氏がこの地に陣屋を置き、この地を治めた。役所を中心に米庫、撃剣道場、化成庠(学問所)などが置かれた。常誓寺の東側の小路の北端に陣屋の北〆切門跡地に当り、同じ道を南下すると、同じく南〆切門跡地がある。


北方陣屋代官屋敷跡

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瑞穂

2017年10月06日 | 岐阜県
(小簾紅園)


小簾紅園

 文久元年(1861)十月二十日京都を出発した和宮は、同年十月二十六日、瑞穂市呂久の呂久川(現・揖斐川)を御座船で渡った。この渡船を記念して、昭和四年(1929)、この地に小簾紅園が完成した。その後、毎年春と秋の二回、和宮の遺徳をしのび例祭が開かれている。


和宮御遺跡碑


和宮歌碑

 和宮は馬淵孫右衛門宅で紅葉しているもみじを一枝所望し、これを舷に立てて、玉簾から眺めて歌を残した。

 おちてゆく身と知りながらもみじ葉の
 人なつかしくこがれこそすれ

(馬淵家)


馬淵家

 和宮が紅葉したもみじに目をとめた馬淵家の長屋門が今も残されている。


明治天皇小休所趾

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