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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

久留米 Ⅳ

2016年07月01日 | 福岡県
(高山彦九郎終焉の地)
 遍照院から五分ほど北に歩くと、東櫛原町の一角に高山彦九郎終焉の地、即ち儒者森嘉善宅跡がある。


高山彦九郎先生終焉之地

 土饅頭があるので墓っぽいが、墓ではない。土饅頭の前にサイコロ状の石がある。これは自刃前に彦九郎が書類を焼いた手水鉢の台石である。また、両側に二柱の石碑があって、それぞれ高山彦九郎の辞世が刻まれている。
 彦九郎が何故久留米で自刃したのか、今なお不明な点が多いが、寛政元年(1789)に起きた尊号一件(光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとして、当時の老中松平定信に反対された事件)に対する落胆があったとか、痰気(咽喉のつかえ)による心身衰弱であったとも言われている。

(田中久重生家跡)


田中久重生誕地

 通町の西鉄の高架下に田中久重生誕地がある。田中久重がこの地で生まれたのは、寛政十一年(1799)。幼少の頃から機械を作ることが好きで、発明した者は数知れず。中でも萬年自鳴鐘(機械式置時計)は現代人の目から見ても驚くべきものである。田中久重は肥後藩、久留米藩に登用され、その才能と技量を発揮した。維新後、上京して工場を開き、電信灯台用品の製造を始め、のちの東芝の礎を築いた。明治十四年(1881)、八十三歳で没。

(五穀神社)


五穀神社

 五穀神社は、寛延二年(1749)時の藩主有馬頼僮(よりゆき)によって創建されたもので、藩営に近いものであった。文化三年(1806)に総郡中からの寄進で設営された石橋は市の有形文化財に指定されている。周囲は広大な公園として整備されており、久留米出身の著名人の銅像や顕彰碑が建てられている。その中に井上伝像と並んで田中久重像もある。田中久重は、井上伝と同じ通外(とおりほか)町出身で、近所のよしみで機織りや図案に対して意匠と工夫を凝らし、井上伝を助けたと伝えられる。五穀神社では久重が発明したからくり人形が演じられていたという。


田中久重像

(久留米製銕所跡)


久留米製銕所址

 五穀神社から歩いて数分の南薫町の住宅街の中に久留米製鉄所跡碑が建てられている。
 田中久重の工場は当初御井町にあったが、慶應三年(1867)、久重の生家に近い通町に移された。敷地は三千坪に及ぶ広大なものだったという。ここで久重は、西洋式の小銃を製造した。
 さらに通町の工場が手狭になったため、明治二年(1869)、南薫町へ移転した。当時は建物が東西に並び、長崎で購入した旋盤を三台据え付け、機械の動力として蒸気機関が利用された。従業員の数は百名余。明治四年(1871)の廃藩置県を迎え、事業も停止したが、久重は上京する明治六年(1873)まで工場の機械を借用して各種機械の試作製造を行った。

(正源寺南丘上隈山墓地)


故大参事水野正名墓

 市街地から少し離れた野中町の正源寺墓地に水野正名や吉田博文、有馬蔵人らの墓がある。
 水野正名は、久留米藩の重臣水野家の長男として文政六年(1823)に生まれた。真木和泉と親しく行動し、三十歳のとき謹慎処分を受けている。文久三年(1863)、謹慎を解かれ上京。八一八の政変に遭い、七卿の護衛をして長州へ下った。翌元治元年(1864)、五卿とともに大宰府に下り、その警護を務めた。慶応三年(1867)十二月、王政復古が宣言されると、五卿に従って上京した。慶応四年(1868)正月、参政不破美作が暗殺されると、京都にいた正名が参政に登用され、藩主有馬頼咸に従って久留米に帰国した。公武合体派を退け、家老有馬河内監物に永蟄居、今井栄ら十名に切腹を申し付けた。藩政改革を進めるとともに、士民からなる応変隊を組織して養弟正剛を隊長として箱館に派兵した。明治二年(1869)には大参事に任命された。しかし、明治四年(1871)、大楽源太郎の事件に連坐して、大参事を罷免され、終身禁獄の処分が下り、明治五年(1872)青森県弘前で獄死した。

 有馬蔵人は、久留米藩重臣で家老脇。慶応四年(1868)の戊辰戦争では関東および奥州に出征した筑後隊の総督を務めた。


有馬源祐祥(蔵人)墓


有馬大助墓

 有馬大助は有馬蔵人の嫡男。参政不破美作暗殺の謀議に荷担したといわれる。


吉田博文之墓

 吉田博文は、水野正名の実弟。兄正名を助けて民兵を組織した。明治二年(1869)、久留米藩小参事。明治三年(1870)には軍務総裁兼学校総督。明治四年(1871)の藩難事件に際して終身禁獄処分を受けた。


渡辺五郎之墓

 渡辺五郎は、大正十五年(1926)筑後遺籍刊行会を起し、「筑後地誌叢書」や矢野一貞の「筑後将士軍談」などを刊行し、郷土先賢の顕彰に努力した。

 同墓地には、ほかに有馬一知(幕末維新期の家老)や岸致知(一知の嫡男。幕末、京都で朝廷工作)の墓もある。

(市民文化センター)


田中久重鋳砲所址

 信愛女子学院の向い側、市民文化センターの前に田中久重鋳砲所址碑が建てられている。
 田中久重は嘉永年間、佐賀藩に招かれ蒸気船や鉄砲などの製作を行ったが、元治元年(1864)久留米に帰り、この石碑が立つ裏山辺りに藩立の鋳造所を設けた。ここでアームストロング砲を鋳造し、ここから約三千メートル先の飛岳に向けて大砲の試射が行われた。

(山川招魂社)


山川招魂社

 山川招魂社は、明治二年(1869)、久留米藩主有馬頼咸によって、高山彦九郎はじめ維新の大業に身を投じた志士三十八の霊を祀るための招魂社が設けられた。神社の裏には、真木和泉、稲次因幡正訓の墓をはじめ、佐賀の乱、西南戦争に殉じた人々の墓石が立ち並んでいる。


高山仲縄(彦九郎)祠堂之碑

 高山彦九郎祠堂之碑は、廃藩置県後、三潴県大参事水原久雄が高山彦九郎の祠堂建設を提唱し、それを受けて明治六年(1873)八月に御楯神社が創建されたことを記念したものである。


幕末殉難者墓
半田門吉ら

 幕末殉難者の墓である。左手の半田門吉は久留米藩士で、天誅組挙兵に参加した人物。鷲家口で負傷したが、その後大阪に潜行し、長州に逃れた。元治元年(1864)の長州藩兵の状況に従い、禁門の変に戦って鷹司邸前で戦死した。
 その右は江頭種八の墓。やはり天誅組に参加して捕えられ、元治元年(1864)京都六角の獄舎で処刑された。年二十五。
 その右にあるのは荒巻羊三郎の墓である。荒巻羊三郎は、文久二年(1862)の寺田屋事件に関与し、藩地に送還されて謹慎を命じられた。やはり天誅組の挙兵に参加して敗れて捕えられ、京都六角獄舎で処刑された。年二十四。
 一番右は中垣健太郎のもの。やはり寺田屋事件に関係し、継いで天誅組挙兵に参加。捕えられて元治元年(1864)、京都六角獄舎で処刑された。年二十四。


幕末殉難者墓
酒井傅次郎(左)原通太

 同じく幕末殉難者酒井傅次郎と原通太の墓である。酒井傅次郎は、寺田屋事件に関与して久留米に藩地に護送され、文久三年(1863)の天誅組挙兵に参加。敗れて追討兵に捕えられ、翌年京都六角獄舎で処刑された。酒井は二十七歳。
 原通太も寺田屋事件に参加。禁門の変で散弾に当たり清水源吾に介錯を命じて屠腹して果てた。年二十七。


故和泉守真木保臣墓


佐々金平真武墓

 佐々(さつさ)金平は、弘化二年(1845)、久留米藩士の家に生まれた。諱は真武。武術に長じ、かねて国文、和歌を能くした。慶応三年(1867)、召されて馬廻組となった。このころ佐幕派の参政不破美作が尊攘派藩士を藩政から斥けると、金平はその専権を憎み、翌慶応四年(1868)正月、同志と美作を殺害した。国老に自訴したが、罪を免れた。慶応四年(1868)七月、応変隊参謀に挙げられ、十月東上して奥羽征討軍に加わり、翌明治二年(1869)四月、箱館戦争に参加。松前福山の榎本軍の塁を破ったが、立石野の激戦で戦死した。墓石の側面に「奥州於松前戦死」と刻まれている。年二十五。


稲次因幡正訓墓

 稲次因幡正訓は、水野正名、吉田博文の実弟。嘉永五年(1852)、藩主頼咸に対し、藩政指導部に藩主廃立の陰謀があると申し立て、これを受けて藩主は有馬昌長らに閉門処分を下したが、陰謀の証拠が発見されず、稲次による讒言の疑いが強まった。これを機に尊攘派は失脚。真木和泉は蟄居処分、稲次は改易ののちに自刃した。


戊辰戦争殉難者墓


西南戦争殉難者墓


佐賀の乱殉難者墓

 佐賀の乱の殉難者の墓である。表面に「佐賀賊徒追討戦死之墓」とある。

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久留米 Ⅲ

2016年07月01日 | 福岡県
(西方寺)
 西方寺には今井栄の墓がある。
 今井栄は久留米藩士江戸詰御用席の今井七郎右衛門の子として江戸で生まれた。和漢の学に励み、英語を古屋佐久左衛門に学んだ。幼少より小姓として有馬頼永(よりとお)に近侍した。頼永が十代藩主に就くとその改革を補佐し、天保学連の指導的立場を担った。しかし、頼永が病気となると、穏健派である今井は、急進派の真木和泉らと対立する。頼永没後、十一代頼咸にも重用され、江戸留守居役、御納戸役に進み、江戸滞在中には勝海舟ら幕臣や諸藩の人々と広く交際した。文久三年(1863)、久留米に帰国すると、家老有馬河内(監物)や参政不破美作を説いて、藩論を攘夷から開国に転換させ、富国強兵のために開成方、開物方、成産方の三局を設置した。また、田中久重を久留米藩で東洋するため推挙した。慶応二年(1866)には洋船購入の藩命を受け、長崎に向かったが、交渉が難航したため、久重とともに密航して上海に渡り、そこで汽船を購入した。慶応四年(1868)、不破美作が暗殺されると、水野正名を首班とする尊攘派政権が成立する。今井栄は公武合体派として追放され、明治二年(1869)一月二十五日、松崎誠蔵らとともに切腹して果てた。のちに殉難十志士と呼ばれる。享年四十八。栄の死を聞いた薩摩藩の黒田清隆は「惜しい人物を殺した」と嘆いたという。


西方寺


今井義敬(栄)墓

(妙正寺)


妙正寺


久徳與十郎重之墓

 久徳(きゅうとく)与十郎は、殉難十士の一人。久徳第三郎の二男に生まれ、元治元年(1864)には公武周旋役として上京。同年七月、隊長として長州兵と戦い、功があった。慶応四年(1868)四月、水野正名を首班とする政権の樹立により入獄し、翌明治二年(1869)一月二十五日、徳雲寺にて切腹。五十歳。

(徳雲寺)


徳雲寺

徳雲寺は、殉難十士のうち、吉村を除く九名(石野・梯・喜多村・久徳・本庄・松岡・松崎・今井)が切腹した寺院である。境内に殉難十志士終焉地碑が建立されている。


殉難十志士終焉地碑


井上傳子之墓

 井上伝は、天明八年(1778)、現在の久留米市通外町の米穀商「橋口屋」こと平山源蔵の娘として生まれ、幼少の頃から布を織ることに優れ、十三歳の頃、平常着の斑紋(まだらもん)となっていることから、絣の図柄を考え得たものである。その後、二十一歳の時、市内原古賀町の井上次八に嫁ぎ、二男一女をもうけたが、二十八歳の時夫を失い、三人の子供をかかえながらこの道に励み、四十歳の頃には四百人の弟子がいて、郷土の機業の振興に務めた。明治二年(1869)四月、八十二歳で世を去った。久留米絣は国の重要無形文化財に指定されている。


久留米絣始祖 井上伝女

(遍照院)


遍照院

 遍照院には高山彦九郎の墓など見どころが多い。寺町の中心にあり、やや広い駐車場もあるので、久留米市内の史跡巡りはここから始めるのが良いだろう。


高山彦九郎墓

 まず高山彦九郎の墓である。高山彦九郎は、寛政元年(1789)、江戸赤羽の久留米藩邸で樺島石梁と面会し、そこで同藩士数名とともに酒を酌み交わしたことがあった。そういう縁もあって、九州地方を訪れた彦九郎は、約一年半の間に、熊本から鹿児島、宮崎、大分など各地を歴訪し、その最後に久留米に至った。久留米では儒医森嘉善宅に逗留した。森嘉善の証言によれば「少し目を離した隙にすでに切腹していた」という。当初、久留米藩は埋葬を許さなかったため、嘉善は自宅の庭に仮葬をしたが、その後、官許を得て編照院に改葬した。


平野国臣寄進の灯篭

 高山彦九郎の墓前には、平野國臣が寄進した石燈籠がある。


耿介四士之(大楽源太郎主従)墓

 耿介(こうかい)四士之墓は、久留米で暗殺された大楽源太郎主従を葬った墓である。
 明治三年(1870)、久留米藩では封建・攘夷論が藩政の基調となっており、新政府に非協力的な態度をとっていた。この情勢の中で、山口藩兵解隊反対の騒動が起こり、それが鎮圧されると騒乱の指導者であった大楽源太郎らは旧知の古松簡二らを頼り、久留米藩に潜入した。これが久留米藩を中心とした全国的な反政府事件の始まりである。藩の尊攘派は、当初大楽らをかばったが、新政府の厳しい追及によって、罪が藩主頼咸に及ぶことを恐れ、明治四年(1871)三月、大楽源太郎を小森野村高野浜で、弟山縣源吾、門弟小野清太郎を豆津浜で誘殺し、従僕中村要助を津福木見神社域で自殺させた。この四名を葬ったのが耿介四士之墓である。「耿介」とは堅く志を守ることをいう。
 耿介四士之墓の横には大楽らの殺害に関与した久留米藩士、川島澄之助、松村雄之進、山瀬三郎の三名の墓が並んでいる。


西道俊墓


大楽源太郎を殺害した三士の墓

 辛未(しんび)遭難志士之墓は、明治四年(1871)事件で遭難した久留米藩関係者の墓碑である。明治二十八年(1905)建立。大楽源太郎事件にからんで小河真文は斬罪、水野正名は終身禁獄、以下五十余名の処分者を出した。この事件は全国的な反政府事件であったため、二府三十九県にわたり、二百六十名以上に処分が下された。ここでも久留米藩の多くの有為な人材が失われた。


辛未遭難志士之墓

 辛未遭難志士之墓の横に「ひょうたん墓」と呼ばれる墓がある。西道俊(みちとし)の墓である。西道俊は長崎の人で、京都で高山彦九郎と相知り、意気投合した。彦九郎が久留米で自刃したことを聞いて、自らも彦九郎の墓の前で割腹自殺をした。享和二年(1802)五月二日のことであった(偶然ながら、私がここを訪ねたのも五月二日であった)。


贈正四位高山正之先生

 遍照院には高山彦九郎の胸像もある。

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久留米 Ⅱ

2016年07月01日 | 福岡県
(法泉寺)
 「幕末維新全殉難者名鑑」には、法泉寺の殉難十士の一人、松岡伝十郎の墓があるとされているが、墓地はかなり整理されてしまったようである。


法泉寺

(水天宮)
 水天宮は二代有馬忠頼が慶安三年(1650)鷺野原から移したものである。祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と安徳天皇、建礼門院、二位の尼の四柱。九代頼徳の時、文政元年(1818)、江戸に分祀したのが日本橋蠣殻町の水天宮である。幕末、当宮の神官であった真木和泉守保臣は、尊攘活動の志士として活躍した。境内に出陣姿の銅像と真木神社がある。


水天宮


真木神社

 真木神社は、真木和泉を祭神とする神社である。ほかに国難に殉じた一門および門下生十二名(渕上郁太郎、真木菊四郎、半田門吉ら)、それに真木和泉とともに天王山で戦死した久留米藩、肥後藩や土佐藩の十六烈士(宮部春蔵、松山深蔵ら)も相殿に祀られている。


真木和泉像

 真木和泉は、水天宮の神官の家に生まれ、幼くして父を失い、よく母につかえ、学問に励み、武道、音楽にも通じ、藩校明善堂から表彰を受けた。藩政改革を志して果たせず、一時水田(現・筑後市)に蟄居したが、脱出して国事に奔走した。諸国の士から「今楠公」と仰がれ、その中心的指導者となった。蘭方医工藤謙同と親しく、海外の事情にも通じ、久留米の医学刷新にも尽くし、藩医学館の生みの親とも言われる。早くから薩長の連携を唱えたが時至らず、禁門の変に敗れて同士十六人とともに天王山で自刃した。辞世

 大山の峰の岩根に埋(うめ)にけり
 我が年月の大和魂


山梔窩

 真木神社の前に、真木和泉が謹慎生活を送った山梔窩が復元再建されている。実物は筑後市にある。


工藤謙同先生碑

 工藤謙同は、久留米で初めて蘭方医学を開いた医師である。豊後の国杵築の医家に生まれ、蘭医シーボルトや宇田川榛斎に医学を学び、切に請われて久留米で医業を開いた。謙同は、淡白、寡欲、磊落で、しかも信ずることに篤く、漢方医の圧迫に屈せず、また国老の藩医への推薦も固く辞して受けなかった。特に真木和泉と親交を結び、ともに国事を論じ、また海外の情勢、西洋学術の進歩について真木和泉に新知識を授けた。真木和泉の藩医学の刷新、医学館開設の上申に結び付き、ひいては国防開国論を唱えた佐久間象山を朝廷に推挙することにも繋がった。謙同は真木和泉に先立つこと三年、文久元年(1861)、この地で没したが、その男児三名はいずれも医業を継いで名を成した。

(妙泉寺)


松崎誠蔵源發之墓

 妙泉寺に殉難十士の一人松崎誠蔵の墓がある。松崎誠蔵は今井栄の協力者。慶応二年(1866)秋、上海に密航した。「雄飛丸」「千歳丸」初代艦長。徳雲寺で切腹したとき、四十歳であった。
 実は久留米市内の史跡を一巡し終わったところで、妙泉寺をスキップしていたことに気づき、中央町に引き返すことになった。既に日没が過ぎ、薄暗い中で撮影したのが、右の写真である。なお、本堂は修復工事中で撮影できず。

(荘島交差点)


樺島石梁先生宅跡

 荘島交差点の南東の角、「とんかつの浜勝」の植え込みの中に樺島石梁先生宅跡の石碑が建つ。
 樺島石梁は、久留米藩校明善堂の創設者の一人。号の石梁は、荘島小路石橋丁(現・久留米市荘島町)に生まれたことに因んだもの。

(本泰寺)
 久留米市の寺町には現在十七ヵ寺が集中している。かつては二十六の寺院があったという。本泰寺の朱色の唐門を入ると、左手に不破美作の墓がある。墓の前の紫色の花はシラン(紫蘭)というらしい。


本泰寺

 不破美作(諱は正寛または眞寛)は、安政二年(1855)奏者番となり、のち藩校明善堂の責任者として学制を改革した。文久三年(1863)、参政となり、執政の有馬監物と藩政の実権を握った。初め佐幕攘夷を主張していたが、のちには監物の佐幕開国の支持者となった。大政奉還後、参政の職にあったが、なお幕府援助の意があるとして、同藩尊王派に暗殺された。四十七歳。


不破眞寛(美作)墓

 悲劇的な最期を遂げた不破美作であったが、若い頃から世界情勢や西洋の文物にも通じ、容貌も才智にも優れたという。文久三年(1863)藩参政に就いてからは開成方、開物方、成産方の新設、洋船の購入など富国強兵政策を積極的に進めた。相当力のある為政者だったのだろうと思う。

(真教寺)
 真教寺には、藩校明善堂創健者樺島石梁、多くの門人を育てた剣術家加藤田平八郎、高山彦九郎と交遊のあった森嘉善らの墓がある。


真教寺


樺島石梁墓


加藤田家墓

 加藤田平八郎は文化五年(1808)、久留米藩士加藤十助の長男として荘島小路に生まれた。文政元年(1818)、神陰流師範で、久留米藩指南役の加藤田新八に入門し、文化六年(1823)、その養子となった。文政十二年(1829)、門下の奥村七助、太田友八を伴って武者修行に出た。豊前・豊後から中国、近畿、四国まで渡って計十九ヵ国を巡って帰国した。弘化三年(1846)、養父が没すると、加藤田神陰流十代の師範役となり、その晩年までに門人二千八百人余りを指導したという。明治八年(1875)、一月十五日に没。六十八歳。真教寺の本堂の裏手の墓地に加藤田家の墓域があるが、いずれも大正年間の建之で、平八郎がどこに葬られているのか判然としない。


森嘉善之墓

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久留米 Ⅰ

2016年07月01日 | 福岡県
 今回の旅のクライマックスは久留米であった。久留米は藩政時代、一つの独立した藩であったが、水天宮の神官で過激な尊攘派である真木和泉という一人の志士を生んだ。さらに溯れば、寛政の三奇人の一人高山彦九郎がこの地を訪れ、最期を迎えた場所でもある。幕末においては、いずれの藩でも勤王派と佐幕派の抗争は見られたが、久留米藩でも激しい派閥争いがあり、遂には勤王派の内でも穏健派と過激派の争いが生じ、激しく人材を損耗した。中でも明治二年(1869)四月に佐幕派十名を処刑した事件では、吉村武兵衛や今井栄といった他藩にも名を知られた有為の人材を失うことになった。さらに明治三年(1870)には反動的尊攘派というべき、長州の大楽源太郎が久留米に逃げ込んだため、これに関与した多くの久留米藩士が処刑され、ここでも人材を失うことになった。


篠山神社(久留米城跡)

 久留米城(別名・篠山城)は石垣や周囲の堀を除けば、ほとんど建造物は残っておらず、現在本丸跡に有馬記念館と篠山神社が建てられているのみである。有馬氏二十一万石の城跡としては少々寂しい現状である。
 篠山神社は、有馬家の藩祖豊氏のほか、七代頼僮(よりゆき)、十代頼永、十一代頼咸(よりしげ)、十四代頼寧の五柱が祀られている。

 久留米城跡の一角は石碑の森となっている。維新関係の石碑も多い。


水野正名先生碑

 水野正名先生碑は全文が漢文で記述されている。建碑は昭和八年(1933)五月。篆額は伯爵有馬頼寧。まず水野正名の事歴が紹介され、後半は大楽源太郎の事件の経緯が詳細に記されている。久留米藩が大楽源太郎を匿っていることを疑った明治政府は兵を出して赤羽の久留米藩邸を包囲し、時の藩知事有馬頼咸を弾正台で取り調べさせた。これが国許に伝わると、藩内には衝撃が走り、禍が藩公に及ばないよう、大楽を謀殺した。しかし、水野正名はこの責任を問われて東京に護送され、明治四年(1871)十二月には士籍を除かれて終身刑に処された。翌年十一月、病気のため青森県弘前獄中で死去。五十歳であった。


小河真文(吉右衛門)碑

 小河真文は通称を吉右衛門といい、旧久留米藩士小河新吾の長男として嘉永元年(1848)に生まれた。十六歳のとき父を亡くし、家督を相続した。早くから勤王の志を持ち、密かに同志と相談した結果、当時の実質的藩政の指導者である参政不破美作を下城途中に要撃して斃した。これを機に藩論は討幕に決し、小河真文も藩政に参与することになった。明治四年(1871)、大楽源太郎が久留米藩に潜入したことを契機に、執政水野正名とともに小河真文も弾正台の喚問を受け、東京に送られた。真文は一切の責任を負って、同年十二月、従容として処刑された。年二十五。


戊辰役従軍記念碑

 久留米藩では慶應四年(1868)二月二十日、藩主が率兵上京し、堺、大阪、神戸付近の警衛を担当した。三月二十六日、家老有馬蔵人を総督として関東への出兵の命を受け、七月には奥州へ転戦。明治二年(1869)一月、凱旋した。他方、明治元年(1868)九月には応変隊、山筒隊約五百が関東に送られ、うち半数は箱館まで転戦した。彼らの帰国は明治二年(1869)六月であった。本碑の建立は昭和十年(1935)。かつて碑にはめこまれた銅板に三百五十三名の従軍者名が刻まれていたが、現在は消滅している。


西海忠士之碑

 西海忠士之碑は、高さ九メートル、棹石だけでも五メートルという巨大なもので、文字は有栖川熾仁親王の筆。「西海忠士」の語句は、文久二年(1862)大原重徳、島津久光が勅使賭して江戸に下向した際に賜った詔勅の中の「山陽・南海・西海之忠士既ニ蜂起」の語に拠っている。明治二十二年(1889)、憲法発布に際し、久留米藩の反政府事件(明治四年(1871)の大楽源太郎事件)の関係者に対して前罪消滅の大赦がなされたことを受けて、明治二十六年(1893)に建碑されたものである。


井上先生之記念碑

 久留米藩の槍術師範井上昭算(通称彌左衛門)の顕彰碑である。井上家は代々槍術師範を職とし、昭算も馬廻組に列せられ、ついには徒士頭まで昇進した。藩主頼咸に従って上京し、第二次長州征伐にも小倉藩の危急を救うため、徒士隊長として出兵した。戊辰戦争でも京都周辺の警衛を担当した。門下から多くの人物を輩出したほか、その名を慕って遠く四国、中国からも入門が絶えなかったといわれる。明治十四年(1881)、七十一歳で没。この石碑も明治二十六年(1893)の建立。

(明善高校)


明善高校

 県立明善高校は、天明三年(1783)に開校された久留米藩校明善堂の流れを汲む学校で、久留米城本丸の南、三の丸からかつて上級武士が住んでいた外郭(そとぐるわ)に位置している。とにかく広い敷地を有している。

(ランドゥール城南の杜)


不破美作旧宅跡

 明善高校の少し東側、今ではマンションが建設されてその面影は失われているが、この辺りに参政不破美作の屋敷があったとされる。マンション建設の工事の際に、遺物が発掘されたというニュースをどこかで読んだ気がしたのだが…。
 マンションの向い側には旧三島家長屋門(天保十一年建築)が移設復元されているが、不破美作とは無関係。


旧三島家長屋門

(久留米駅)


からくり時計

 JR久留米駅前に田中久重の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するために平成十一年(2000)にからくり時計が設置された。このからくり時計は、朝八時から午後七時までの間、概ね三十分ごとにからくり人形の実演がある。私がここを訪れたとき、午後五時半を少し過ぎたところで、残念ながら実演が終わった直後であった。

(坂本繁二郎生家)


坂本繁二郎生家

 JR久留米駅から徒歩数分という場所に、「放牧三馬」などで知られる画家坂本繁二郎の生家がある。坂本家は代々久留米藩に仕える武家であった。京隈小町と呼ばれる界隈にあった木造の生家は、茅葺と瓦葺が結合した一部二階建てで、居間などの居住空間と座敷などの接客空間とに分れ、武家屋敷の特徴をよく伝えている。現在、久留米に残る唯一の武家屋敷遺構となっている。建築年代は、江戸後期から明治七年(1874)にまたがると推定されている。

(梅林寺)


梅林寺

 梅林寺は、有馬氏の菩提寺で、有馬家の旧領地の瑞巌寺を移し、藩祖豊氏の父、則頼の法号梅林院の名をとって梅林寺と改めた。九州の臨済宗の修行道場としても知られ、一歩境内に入ると凛とした空気が心地よい。


有馬家墓地


旧久留米藩十志士碑

 筑後川沿いの梅林寺外苑は自然林の公園となっており、その薄暗い空間に旧久留米藩十志士碑がある。
 十志士とは、王政復古後、尊王派が藩政を握ると、明治二年(1869)一月二十五日、徳雲寺にて屠腹を命じられた以下の十名である(吉村のみ大阪天満の瑞光寺にて自刃)。

 今井栄(敬義)
 喜多村弥六(吉尚)
 吉村武兵衛(輝方)
 久徳与十郎(重之)
 北川正介(亘)
 石野道衛(氏恒)
 松岡伝十郎(良実)
 本荘忠太(一損)
 梯譲平(譲)
 松崎誠蔵(発)


石野氏清墓

 墓石には「石野理右衛門尉氏清墓」とあり、石野道衛の先祖の墓と推定される。


小河真文(池田八束)墓

 小河真文(まさぶみ)は、弘化四年(1847)の生まれ。墓石に刻まれている池田八束は変名。通称は吉右衛門。文久三年(1863)八月、長州藩の攘夷応接として久留米藩借地の豊前大里に出張した。慶応四年(1868)正月、佐々金平らと同志二十余人と、当時久留米藩佐幕派の首領とみなされていた参政不破美作を暗殺した。同年四月、上京して藩主の近侍となり、十月には納戸役となったが、十一月病を得て帰藩した。慶応三年(1867)正月、久留米藩応変隊参謀、十二月常備隊四番大隊参謀兼務を命じられた。慶応四年(1868)十二月、大楽源太郎事件に際して斬首された。年二十五。真文の墓は、東京の当光寺にあったが、久しく墓参する者も絶え、草むらの中に荒れ果てていたため、大正三年(1914)梅林寺に改葬された。


小川徳先生墓

 小川徳は、天保十年(1839)、武蔵国足立宮ヶ塔村(現・埼玉県さいたま市)に生まれた。養蚕と木綿織物の盛んな土地であった。幼くして両親を亡くし、結婚して一男を産んだが、やがて江戸に出て武家に奉公した。江戸詰めの久留米藩士戸田覚左衛門の帰国に当たり、娘の乳母となり、慶応四年(1868)に久留米に同行した。折り返し藩主頼咸の正室精姫(あきひめ)の女中として江戸に帰る約束であったが、既に精姫は江戸に発ち、徳はそのまま久留米に留まることになった。当時、久留米では絣の生産が盛んであったが、下機(しもばた)という原始的な綿織りを使用していた。徳は綿織りの改良を思い立ち、田中久重に依頼して機織りを効率的に行うための揚枢機(あげわくき)を製作してもらい、また寺町の工匠亀吉の協力を得て、長機(ながはた)の製作に成功した。明治九年(1876)、縞(しま)織りを始め、製品に「久留米縞」と名付けて売り出した。久留米絣よりはるかに安価なこともあり、好評を博した。日吉町の山手社裏手にある仕事場には機織りの見物人が殺到したという。また、徳のもとに弟子入りする者も多く、育成した技術者は六、七百人に達した。久留米の特産品としてその地位を確立した久留米縞であったが、一方で粗悪品が目立つようになる。明治十九年(1886)、久留米絣同業組合が結成されると、縞関係者もそれに加わり、製品管理を図った。明治二十六年(1893)には、絣組合から分離して久留米縞組合が組織された。明治四十三年(1901)、郷里に戻って晩年を過ごした。大正二年(1913)、七十五歳にて没。
 梅林寺の墓は、明治二十年(1887)、徳の功績を讃えて、門弟により建てられた生前墓である。


贈従五位 山田䄿養墓

 小川徳の墓の横に、無縁墓が多数積み置かれている。その中の一つに山田䄿養(やす)の墓がある。イネは禾偏に「曳」で、手元の漢和辞典にも載っていない難字である。
 山田䄿養は、嘉永三年(1850)に、久留米藩士二百石馬廻役山田忠兵衛政仲の長男に生まれた。元治元年(1864)、十五歳のとき小倉戦争に参加、慶応三年(1867)、藩命により坂本金三郎(画家坂本繁二郎の父)とともに幕府海軍操練所に入所して、勝海舟の教えを受け、翌年帰藩した。戊辰戦争北越征討には、久留米藩海軍の千歳丸の乗組員として参加した。のち海外留学を志し、明治元年(1868)一月三日付けで我が国最初の海外渡航券(パスポート)第一号を取得し、同年十二月、米国に向けて旅立った。翌年ウースターのハエランド軍学校に入学したが、明治四年(1871)九月、退学。継いでハーバード大学法学部に転じ明治七年(1874)まで在学した。山田はハーバード大学に留学した東洋人第一号となった。明治十八年(1885)帰国し、横浜税関の御雇外国人に対し、英語と法律知識をもって助力した。明治二十五年(1892)横浜で美術品商店を開いて、美術品、骨董品や化化粧品、食器などを商った。日本貿易協会長などを務め、海外貿易に心血を注いだ。明治四十年(1907)三月、没。五十八歳。
 東京芝増上寺の末寺花嶽院にも墓があるという。会社の近くなので、昼休みに調査に出かけてみたが、山田家の墓が二基見つかっただけで䄿養のものは特定できなかった。

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