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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

添田

2016年07月18日 | 福岡県
(英彦山)


英彦山神社

 今回の五泊六日の福岡の史跡旅行、最後の訪問地が英彦山神社である。最終日は朝から御許山に昇って十分消耗していたが、最後の体力と気力を振り絞って英彦山の頂上まで往復した。といっても登り始めたのはちょうど参道の中間点辺りであったし、終点は山頂の上宮ではなくて英彦山神社までだったので、上っていたのはたかだか十分くらいのことで、大騒ぎするほどの道ではない。


広瀬淡窓詩碑

 ちょうど英彦山神社の手前に廣瀬淡窓の詩碑が建てられている。淡窓二十九歳の作である。淡窓は病気平癒祈願のため、文化七年(1810)九月、英彦山に登り、その時この詩を作った。

 彦山高き処 望み氤氳(いんうん)
 木末の楼台 晴れて始めて分かる
 日暮天壇 人去り尽くし
 香煙は散じて数峰の雲と作る


岡坊跡

 参道の途中にある岡坊(おかのぼう)跡である。幕末の英彦山では、有力な山伏たちは尊王攘夷派の長州藩を支援し行動したが、佐幕派の小倉藩ではその行動を抑えるために文久三年(1863)から明治維新まで藩兵を派遣して英彦山を制圧した。その非常事態下の山内で政祭を取り仕切った坊として記録されている。


招魂社


官祭招魂社

 幕末の英彦山座主教有の母は、関白一条忠良の息女で、三条公修(三条実美の祖父)の養女であった。さらに長州奇兵隊から英彦山への軍事教練や資金援助の申し出の噂があった。文久三年(1863)の八月十八日の政変で三条実美をはじめとする七卿が長州藩領に落ち延びると、その警備のため英彦山の山伏七人が長州に派遣された。
 このようなことがあって、同年十一月、英彦山座主教有は、小倉藩庁に呼び出され、教有の家族も小倉に連行、軟禁された。教有が英彦山への帰山が許されたのは元治元年(1864)十月のことであった。
 慶應二年(1866)には、長州藩に賛同する山伏十名が小倉に連行され、うち六名が小倉の牢で処刑された。英彦山では現在もこの事件や元治元年(1864)の禁門の変に従軍した山伏を、招魂社を設けて義僧として祀っている。

 五泊六日の旅はこれで終了。九州といえばラーメンしか思い浮かばなかった私は、毎晩豚骨ラーメンを食していたが、さすがに飽きてきて最終日の夕食は、空港でハンバーグ定食にした。純粋に美味かった。


招魂社


維新殉国志士の墓地
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中津 Ⅱ

2016年07月18日 | 大分県
(増田宋太郎生誕地)


西南戦争中津隊長 増田宋太郎先生誕生地

 増田宋太郎は、嘉永二年(1849)、中津藩士増田久行と国学者渡辺重名の娘刀自の長男としてこの地に生まれた。福沢諭吉とは再従兄弟(またいとこ)にあたり、家もすぐ近くであった。幼少のときから桜町の道生館に入り、国学を学んだ。尊王攘夷運動や自由民権運動を通じて諸国の志士と交わり、中津共憂社を結成した。一時期、福沢諭吉の慶應義塾にも学び、村上田長によって、自由民権、主権在民を掲げた「田舎新聞」が創刊されると、その編集長をつとめた。明治十年(1877)、西南の役が勃発すると、同志と中津隊を結成し、薩軍に加わった。中津隊が薩軍と合流したのは、四月五日。熊本の阿蘇郡である。その後、各地で奮戦するも同年九月、西郷とともに鹿児島の城山で没した。


西南役中津隊士

 明治十年(1877)八月十七日、西郷隆盛は全軍に対し解散命令を発した。九月一日、薩軍は鹿児島に突入し、城山に立て籠もった。この時、増田宋太郎は、残る中津隊士に故郷に帰ることを勧めた。隊長はどうするのかという隊士からの問いに答えたのが、有名な次の言葉である。
「余、城山に入りて、初めて西郷先生に接し、景慕の情禁ずべからざるものあり、一日先生に接すれば一日の愛あり。十日接すれば十日の愛あり。故に先生の側を去るに忍びず。先生とともにその生死を同うせんことを誓へり」
増田宋太郎は、進歩的な思想を身に付け、恐らく西郷とは思想的には相容れないものがあったに違いない。それでも宋太郎を魅了する西郷の魅力とは何だろうか。日本史上、このような人物がほかにいただろうか。
増田宋太郎は、九月四日、米倉への夜襲で戦死。一説には米倉への攻撃で捕えられ、九日に斬首されたともいわれる。
生誕地碑の横に中津隊の氏名を刻んだ隊士碑がある。

(中津市小幡記念図書館)


藩校進脩館跡

 中津藩校進脩館は、学館とも呼ばれ、学問や武道などの教育が行われていた。藩から維持費として年間百石が助成され、生徒数は年間二百名程度であった。進脩館の歴史は、藩の儒官であった倉成龍渚が安永九年(1780)四月、この地の屋敷を拝領し、家塾を開いたことに始まる。当時は片端学文稽古場または学文所と呼ばれていた。寛政元年(1789)、龍渚が江戸詰めとなったため、稽古場は弟子の野本雪巌に引き継がれた。当時、全国の諸藩では財政再建や藩体制の動揺などの克服に必要な人材を育成するため、藩校の創設が相継いでいた。中津藩でも寛政八年(1796)、稽古場を藩校とし、進脩館と改称。同年八月には藩主昌高も出席して開館の釈菜が開かれた。創立当初は、稽古場の施設を改修して出発したが、数度の大改修により施設も次第に整備された。学制改革も数度行われ、最終的には藩士やその子弟以外にも神官、僧侶、農民、町民の入学も認められた。教授には、龍渚、雪巌のほか野本白巌、白石照山(福沢諭吉の師)、国学の渡辺重名、渡辺重春なども勤め、中津の教育の源流となって、多くの人材を送りだした。明治四年(1871)廃藩置県により閉校した。

(南部小学校)
 現在、南部小学校の校門として使われている生田門は、もともと中津藩家老生田家の門で、建築は寛政十二年(1700)前後と推定されている。南部小学校の敷地は、「大手屋敷」と呼ばれた家老の生田家(千八百石)と「中の屋敷」と飛ばれた奥平図書(千六百石)のあった場所の一部を含んでいる。明治四年(1871)、福沢諭吉の建議により、大手屋敷に西日本有数の英学校である中津市学校が創立された。有名な「学問のすゝめ」は、この市学校を創立した時に、中津の青少年に学問の重要性を説くために福沢諭吉により書かれたもので、翌年刊行されて大ベストセラーとなった。市学校の組織作りには福沢諭吉、小幡篤次郎などがかかわり、学校の規則はすべて慶應義塾の規則に従って定められ、教員は主に慶應義塾の中津出身者が派遣された。明治六(1873)~九年(1876)には生徒数が六百人ほどになったといわれる。ところが、明治十年(1877)の西南戦争とその後の経済情勢の変化は、生徒数の減少をもたらし、また学制の整備に伴う公立学校の充実なども加わり、市学校は徐々に衰退し、明治十六年(1883)閉校した。生田門は明治四十三年(1910)に南部小学校が開校すると、以降同小学校の校門として長く利用されている。


生田門

(安全寺)
 安全寺には、家老の生田家、山埼家、剣術家の中西藤九郎・源太、豪商の紙屋右衛門のほか、儒者野本雪巌・白巌父子、蘭学者大江春塘、医師の藤野玄洋、更生保護事業開拓者川村矯一郎の墓などがある。また、増田宋太郎は鹿児島の南洲墓地に葬られたが、ここには夫妻の墓がある。


安全寺


増田宋太郎墓


藤野玄洋の墓

 藤野玄洋は医師。幼名貞治。広瀬淡窓、青邨に漢学を学び、大阪医学校や長崎でボードウィンに医学を学んだ。下関で月波楼医院を開業し、入浴療法を行うために超然亭という薬湯場を設けた。これがのちに春帆楼となり、日清戦争の講和会議の舞台となった。


川村矯一郎顕彰碑

 川村矯一郎は、明治の民権家であり、社会事業家である。増田宋太郎とは同志であった。渡辺重石丸に国学を学んだ。土佐の立志社の政府高官暗殺計画に加担して投獄された。釈放後は、監獄の改善や出所した人の更生保護事業に尽力した。明治二十四年(1891)没。

(自性寺)


自性寺


奥平家墓所

自性寺は、中津藩主奥平家の菩提寺で、本殿の左手に奥平家の墓所がある。江戸時代を通して歴代藩主で中津で亡くなり葬式を出した藩主は、十二代藩主(中津七代)の奥平昌猷(まさみち)のみである。昌猷の墓は一番奥の五輪塔である。ほかは初代昌成、三代昌鹿、五代昌高の子供たちのものである。
自性寺には、江戸中期の画家池大雅の障壁書画などを所蔵・展示している大雅堂を隣接している。池大雅は、自性寺の住職と親交が厚かった関係から、夫妻でこの寺に逗留し、その際にここに書画を残した。

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中津 Ⅰ

2016年07月18日 | 大分県
(中津駅)


福沢諭吉像

 JR中津駅を下りると、郷土の英雄福沢諭吉像が迎えてくれる。その前に「蘭学の泉」と記された石碑が建てられており、江戸中期から明治にかけて中津藩が輩出した蘭学者の名前が刻まれている。石碑は「福沢諭吉の誕生も、この伝統と土壌があったため」と説く。

 奥平昌鹿(1744~1780) 第三代中津藩主。前野良沢を育成。
 前野良沢(1723~1803) 杉田玄白とともに「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著した。
 奥平昌高(1781~1855) 第五代中津藩主。蘭癖大名といわれるほど、蘭学を好んだ。
 村上玄水(1781~1843) 九州初の人体解剖を実施。
 大江春塘(1787~1844) 長崎に留学。蘭和辞典「中津バスタード辞書」を出版。
 田代基徳(1839~1898) 近代外科学の礎を築いた。


剣豪島田虎之助誕生の地

 中津駅を反対側(南側)に出ると、そこに剣豪島田虎之助誕生の地碑がある。
 島田虎之助は、文化十一年(1814)、豊前中津藩士島田市郎右衛門親房の四男に生まれた。名は直親、号は硯山。藩の剣術師範堀某に外他(とだ)一刀流を学び、十八歳の頃、九州各地を武者修行。のち江戸の直心影流男谷精一郎に入門した。三十歳のとき、深川霊岸島に道場を開き、直心流島田派を称した。儒者の中村栗園らと親交があり、若き日の勝海舟も虎之助に剣を学んでいる。旗本松平内記の家臣に剣術を教え、二十人扶持を受けたが、嘉永五年(1852)三十九歳で病没。墓は浅草正定寺。

(中津城)
 中津城主奥平家が歴史の表舞台への登場したのは、有名な長篠の戦いにおいて初代貞能と貞昌(のちに信昌)父子がわずか五百人で籠城し、一万五千といわれる武田勝頼軍に包囲された頃からであった。奥平は落城寸前まで追い込まれたが、織田信長、徳川家康の連合軍が到着し、激戦の末武田軍を破った。のちに奥平貞昌は家康の長女亀姫を正室に迎え、松平の姓を賜る等、徳川家に重用された。その後、奥平家は新城城(愛知県)、加納城(岐阜県)、宇都宮城(栃木県)、宮津城(京都府)を経て、享保二年(1717)、奥平家第七代昌成が中津一万石の領主として中津に入った。その後、第十五代昌遇までの百五十五年にわたり中津を治め、明治維新・廃藩置県を迎えた。


中津城

 九代藩主奥平昌高は薩摩藩主島津重豪の次男である。シーボルトとも交流があり、中津辞書と呼ばれる「蘭語訳撰」(日蘭辞書)や「パスタールド辞書」(蘭日辞書)などを出版したほか、藩校進脩館の創設や中津祇園振興のために、堀川町に祇園車を送るなど、中津の蘭学・文化発展に寄与した際立った人物であった。またペリー来航時には、積極的な開国を主張した開明的な人であったが、安政二年(1855)に七十四歳にて死去。


独立自尊碑

 中津城には、福沢諭吉が唱えた有名な言「独立自尊」の碑が建てられている。書は日下部鳴鶴。


西南役中津隊之碑

 西南役中津隊之碑は、大正十四年(1925)の建立。題字は最後の中津藩主奥平昌遇の子息で貴族院議員の奥平昌恭(まさやす)の筆。石碑裏側の銘文は、増田宋太郎の甥で、神戸高等商業学校(現・神戸大学)の初代校長となった水島銕也。銘文は全て漢文で、増田宋太郎の顕彰と中津隊の奮戦を刻む。末尾に中津隊を讃える漢詩が添えられている。

 扇城志士 忠勇絶倫 修文振武 鼓舞士民
 舎生取義 殺身成仁 郷俗欽仰 光榮千春

(福沢諭吉旧宅)
 留守居町には、享和三年(1803)築の福沢諭吉の旧宅や土蔵が保存され、遺品や遺墨、書簡などを展示・保管する福沢記念館が併館している。


福沢諭吉先生

 福沢諭吉が生まれたのは天保五年(1835)、大阪の中津藩蔵屋敷である。父福沢百助は十三石二人扶持の下級武士であった。一歳六か月のとき父と死別し、母子六人で中津に帰郷。貧しい少年時代をここで過ごした。十四、五歳のころから勉学に目覚め、儒学者白石照山の塾で学んだ。安政元年(1854)、十九歳で蘭学を志して長崎に遊学、翌年から大阪の緒方洪庵の適塾で学んだ。安政五年(1868)には藩の命で江戸の中屋敷の蘭学塾の教師となった。これが慶應義塾の始まりとされる。万延元年(1860)、幕府の遣米使節団護衛船咸臨丸に軍艦奉行の従者として乗り込み渡米を果たし、文久二年(1862)には幕府使節団の一員としてヨーロッパ諸国を歴訪した。その後、これらの経験をもとに「西洋事情」を著し、続けて「学問のすゝめ」「文明論之概略」などのベストセラーを次々と発表して、当時の日本人を啓蒙し続けた。明治三十四年(1901)、六十六歳のとき脳出血を再発して永眠。


福沢諭吉旧宅


福沢諭吉記念館


福澤諭吉舊宅跡


照山白石先生紀念碑

 福沢諭吉記念館前の駐車場の隣の土地は、小さな公園になっている。福沢諭吉の師、白石照山の顕彰碑などが建てられている。
白石照山は、文化十二年(1815)、中津藩士久保田武右衛門の長男として生まれた。藩校進脩館にて野本白巌に学び、二十四歳のとき藩校の督学となった。その後、江戸に上り、幕府の昌平黌に六年間学んだ。天保十四年(1843)、帰藩して私塾晩香堂を開設した。四十五歳の時、臼杵藩学古館の教授に登用され、その後豊前四日市郷校の教授に就いた。明治二年(1869)、中津藩より上士として迎えられ、藩校進脩館の教授となった。しかし、明治四年(1871)、藩校が廃止されると、私塾晩香堂を再開した。明治十六年(1883)、六十九歳にて没。福沢諭吉も十四歳のころから、照山の私塾晩香館に学んでいる。福沢諭吉は、長崎で蘭学を修めた後、大阪の適塾で学んだが、学費を捻出するために父の蔵書を売ろうとしたが、買い手がつかず、これを知った照山は臼杵藩に働きかけて十五両で買い取らせた。これにより福沢諭吉は続けて適塾で勉学を続けることができた。


人事忙中有清閑碑

 「人事忙中有清閑」とは「人事忙中清閑あり」と読み、忙しい中でも心に余裕を持ち、実りある人生を送らなければならないという諭吉の言葉が刻まれた碑である。

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宇佐

2016年07月18日 | 大分県
(宇佐市勤労青少年ホーム)
 「日本のUSA」こと宇佐である。といってもUSAっぽいところは見当たらないが。
宇佐市四日市は、江戸時代黒田氏、細川氏に続いて入封した中津城主小笠原氏の領地であった。その所領が半地召し上げとなると、元禄十三年(1700)、この地に幕府代官所(四日市陣屋)が築かれた。この代官所は天草代官支配から日田代官支配へと変わり、明治まで幕府天領支配が続いた。
慶應四年(1868)一月、御許騒動(花山院党挙兵)により陣屋は焼失したが、辛うじてこの陣屋門は焼失を免れた。その後、宇佐郡役所、宇佐郡高等小学校、郡立農学校、県立四日市女学校、県立四日市高校の正門として使用されてきた。


四日市代官陣屋跡遺構

(四日市本願寺別院)
陣屋に放火されたため、代官所の役人たちは近くの四日市本願寺別院に逃げ込んだ。これを見た花山院隊は本願寺別院にも火を放った。


四日市本願寺別院

(宇佐八幡宮)
 宇佐神宮は、全国に四万社あまりという八幡宮の総本宮である。壮麗な建造物が見事である。
木子岳山荘を襲われた豊前豊後の尊攘派は、慶応二年(1866)宇佐神宮に潜伏しここで陣屋襲撃を討議していたが、それも日田代官所に察知され、離散を余儀なくされた。
 また四日市陣屋を襲撃した佐田秀一党は、慶應四年(1868)正月十五日、宇佐神宮に参拝し戦勝を祈念し、その後御許山に登った。


宇佐八幡宮

(御許山)


大元神社登山口

慶應四年(1868)一月十四日、佐田秀らは四日市陣屋(現・宇佐市)を襲い、大砲や弾薬などを奪い、火を放った。さらに陣屋の役人たちが逃げ込んだ東本願寺別院にも放火し、火炎は近隣の民家にまで及んだ。奪った武器を手に、一党は宇佐神宮の奥の院である御許山に錦の御旗を立て、たてこもった。彼らは公家の花山院家理を盟主として仰いだため、花山院隊(もしくは花山院党)と呼ばれる。
この事態を知った長州藩では、報国隊を送り、佐田を詰問した。彼らが勅許を得ていないこと、長州藩の名を騙ったこと、脱隊違反を犯したことを挙げ、反駁しようとする佐田をその場で斬殺し、その首を四日市にさらした。花山院党騒動、御許山挙兵といわれる。ただし、花山院家理は彼らに合流する前に長州藩に拘束され、のちに京都に戻されている。
この事件は、偽官軍事件といわれる赤報隊や高松隊の事件と類似している。いずれもあまり歴史の表面で語られることは少ないが、薩長が権力を固めていく過程で草莽による諸隊を弾圧したことを物語る事件であった。


首なし地蔵


石段

 安心院の佐田秀所縁の史跡を訪ねた後、花山院隊が挙兵した御許山(標高647メートル)に登った。予め調べたところ、登山口は宇佐市の西屋敷から林道を使うコースと、いわゆる「おもと古道」と呼ばれる昔ながらの登山道があるらしい。林道を使えば自動車で大元神社まで行けるようなので、まずはその登山口を探したが、結局よく分からなかったので、やむなく「おもと古道」ルートで昇ることになった。こちらもある程度は自動車で行けるが、途中で乗り捨ててそこからは歩くしかない。大元神社までどれくらいの距離があるのかがよく分からず、つまりどれくらい時間がかかるのかという見込みもないまま、登山にかかった。途中に歴史を感じさせる手水鉢や首無し地蔵などがあるが、基本的にはずっと上り坂である。まだ朝の七時ということもあって、途中で他の登山客と出会うこともなく、ただただ黙々と目的地を目指して進む。もとより体力もない私は早々に息があがってしまった。結果から言えば、登り始めて、四十分で大元神社に着いた。花山院隊が挙兵し、解隊した場所である。
 大元神社の手前には、坊とよばれる僧侶の住居があったが、御許山挙兵の際に焼失し、現在は石垣が残っているのみである。


大元神社

神社には神主さんが来ていて、祝詞をあげていた。ほんの十分ばかり大元神社にいただけで、もと来た道を下る。今度は滑るように下山して、三十分ほどで自動車を乗り捨てた場所に戻った。ただでさえ、運動不足の身には非常に堪えた。膝がガクガクしたが、最終日の旅はこれからである。

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安心院

2016年07月18日 | 大分県
(佐田秀の墓)
安心院と書いて「あじむ」と読む。知らないと読めない地名の一つであろう。二十年前の鹿児島勤務時代、安心院に関係会社があった関係で、何度かこの町を訪れたことがあった。それ以来の安心院である。最終日の早朝、第一目的地としてこの町の生んだ志士、佐田秀(ひずる)所縁の史跡を訪問した。といっても、安心院の市街地ではなく内川野という鄙びた集落である。
佐田秀は、天保十年(1839)、庄屋佐田友貞の長子に生まれた。俗名は内記兵衛といい、諱は友忠。歌を物集高世、皇典を近藤弘之に学んだ勤王歌人で、幕末多端の折は、東西の志士と交わり、勤王倒幕思想を鼓吹した。王政復古の報を受けて、慶應四年(1868)一月、御許山に挙兵したが、長州藩に捕われ斬殺された。その首級は四日市(現・宇佐市)にさらされたが、遺族によりこの地に埋葬された。年二十九。


佐田秀墓


桑原範蔵 平野四郎 柴田直二郎の墓

佐田秀の墓の横に三名の連名墓がある。御許山挙兵の同志、桑原範蔵、平野四郎、柴田直二郎の三名の墓である。

(佐田秀歌碑)


佐田秀歌碑

内川野の橋のたもとに佐田秀の歌碑が建てられている。慶應三年(1867)秋、長州より帰国した折、名残にと短冊にしたためた一首で、故郷を詠んだ辞世といえる。

 荒ハてし秋の故郷(ふるさと)来てミれハあさぢか原に月ひとりすむ

(轟の池)


佐田秀隠棲の地碑

内川野の轟の池の傍らに佐田秀隠棲の地碑が建てられている。慶應元年(1865)の木子岳挙兵に失敗した佐田秀は安心院の重松義胤邸に身を隠し、時々歌会と称して同志を集め、倒幕の密計を練っていた。佐田秀は、時にこの池に舟を浮かべ、美しい佐田の自然を詠み残した。


轟の池


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大分

2016年07月18日 | 大分県
(府内城)


府内城

 府内城は慶長二年(1597)、石田三成の妹婿である福原直高が豊後臼杵六万石から府内十二万石に封じられて築城したことに始まる。慶長の役をはさんで慶長四年(1599)に竣工した。しかし、在城わずか一か月ののち家康によって改易され、早川長敏、継いで竹中重利が入部した。竹中重利の手により、城の修増築が施され、四層の天守をもった平城が完成した。その後も日根野氏が入ったが嗣子が無かったため断絶。万治元年(1658)、豊後高松から松平忠昭が入封し、以降明治の廃藩に至るまで十一代二百十余年間続くことになった。
 明治十年(1877)の西南戦争では、増田宋太郎率いる中津隊が府内城内の大分県庁を襲撃しようとして果たせなかった。

(法専寺)
 勢家町三丁目の法専寺には、西南戦争の際、大分県庁を襲った中津隊と警察隊が撃った弾痕の残る金仏がある。


法専寺


金仏

 この金仏は、貞享三年(1686)の銘がみられる。高さ二・二八メートルの立派なもので、肩部から下半身にかけて、水玉模様のような弾痕を確認することができる。凄まじい密度で銃撃が交わされたことが想像される。


金仏に残る弾痕

(松栄山護国神社)
 大分市の五穀神社には、大分方面(竹田・三重・重岡・臼杵)の西南戦争で戦死した二百十四名を埋葬した官軍墓地がある。場所は小高い丘陵となっており、大分市の工業地帯を見渡すことができる。


松栄山護国神社


西南戦争戦死者
官軍墓地

(西浜墓地)


文教先生墓(脇蘭室の墓)

 脇蘭室は、明和元年(1864)、豊後国速見郡小浦村(現・別府市、日出町)の生まれ。生家は庄屋脇屋家の分家である。江戸時代後期に活躍した儒学者。名は長之。字は子善。通称は儀一郎。特に蘭と菊を愛でたため、蘭室、蘭菊、また愚山と号した。熊本の藪弧山に学び、ついで両子(現・大分県国東市)の三浦梅園、大阪の中井竹山の懐徳堂に学んだ。帰郷して小浦村に私塾を営み、学問にも励んだ。三十五歳の時、熊本藩校時習館にて教鞭を取った。一年余りで帰国し、藩の要請で鶴崎に住み、藩士の子弟を教授した。門下に毛利空桑がいる。主な著書に「鶴崎夜話」「党民流説」「菡海漁談」などがある。文化十一年(1814)、五十一歳で没。墓碑銘は門下生の一人、帆足萬里の書。

(毛利空桑旧宅)


毛利空桑先生像

 毛利空桑は、寛政九年(1797)、熊本藩領の常行村(現・大字常行)で熊本藩医であった父太玄と母阿秀の第二子として生まれた。名は倹。通称は到。号は空桑。十四歳のとき、鶴崎の脇蘭室に漢学を学び、十七歳で日出の帆足万里に儒学を学び、さらに二十三歳で、熊本藩校時習館で大城霞平に儒学を、二十六歳で福岡の亀井昭陽に古文辞学の教えを受けた。文政七年(1824)、二十八歳のとき、郷里の常行村に私塾知来館を開き、後には鶴崎詰めの熊本藩士の子弟の指導方に任じられた。空桑が説いた尊皇思想は明治維新にも影響を与え、長州藩の吉田松陰、水戸藩の齋藤監物や岡藩の小河一敏らもこの塾を訪れている。明治四年(1871)七十四歳のとき、長州の脱藩者大楽源太郎ら数十名をかくまい逃がしたとして、投獄の刑を受けた。明治十七年(1884)没。


空桑毛利到先生頌徳碑

 毛利空桑記念館は、昭和四十八年(1973)、空桑の曾孫にあたる毛利弘氏より建物、敷地、遺品が寄贈され、開館した施設である。


毛利空桑記念館


天勝堂

 天勝堂は空桑の私宅で、空桑の著述、詩作、生活用品などの遺品を展示・収蔵している。昭和六十年(1985)、庭園と合わせて整備された。


知来館

 知来館は、空桑の開いた私塾で、現在地には安政四年(1857)に熊本藩の援助を受けて建てられ、一階は清との日常生活の場、二階が講義室となっている。教育の目標は文武両道とし、禁酒、男女交際、娯楽の禁止など二十五か条にのぼる厳格な塾則の下に、遠くは山城(京都)、和泉(大阪)、美濃(岐阜)などからも生徒が集まり、勉学に励んだ。門下生は八百九十人に及ぶ。

(空桑思索の道)


勝海舟像 坂本龍馬像

 毛利空桑記念館と大分鶴崎高等学校の道路の中央分離帯は、「空桑思索の道」と名付けられ公園状に整備されており、毛利空桑の胸像のほか、勝海舟・坂本龍馬像が建てられている。大分で海舟や龍馬と出会うとは思っていなかったので、少々驚いた。
 この場所に海舟と龍馬の像が建てられたのは、平成二十七年(2015)十一月十五日というから、私が現地を訪ねるちょうど半年くらい前のことである。元治元年(1864)二月、海舟と龍馬は佐賀関に上陸して豊後路を長崎に向けて陸路を進んだ。二人の石像の下には、勝海舟日記の文久四年(1864)二月十六日の一節が記されている。
――― 豊後鶴崎の本陣に宿す。佐賀関より五里、此地街市可なり。市は白滝川に沿う。山川水清し。川口浅し。

(毛利空桑の墓)


日本國儒者毛利到墓(毛利空桑の墓)

 記念館前の掲示で常行の住宅街の中に毛利空桑の墓があるという情報を得たので、行ってみた。辺りをいくら歩いても見つからない。このままでは日没時間切れになってしまう。半泣き状態のところ、買い物帰りの一人の老婆を見付けた。追いすがるようにして老婆に尋ねたところ、親切に場所を教えてくれた。墓所は周囲を住宅に囲まれた一角にある。

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別府

2016年07月18日 | 大分県
(別府市文化会館)
元治元年(1864)九月、幕府は長州征討の軍を起した。このとき長州の藩論は二つに分かれ、井上聞多は温和な解決策を主張した。そのため御前会議の帰り道、山口城下袖解橋を過ぎ、一本松にさしかかったとき、反対派に襲われ重傷を負った。辛くも一命をとりとめた井上は、翌慶應元年(1865)、別府に逃れ、旅館「若彦」(のちの若松屋)に身を隠した。若彦の主人彦七は、事情を察し手厚く保護したため、しばらくして全快した。維新後、政界で活躍した井上は、明治四十四年(1911)五月、別府の若松屋を訪ね、謝恩の意を込めて「千苦万苦之場」と扁額を書き、若松屋(現・松尾家)に贈った。この建物は、昭和五十七年(1982)十二月、移転復元されたものである。


千苦万苦の場


井上馨潜伏の碑

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日出

2016年07月18日 | 大分県
(日出城跡)
 日出といえば、サンリオ・ハーモニーランドである。まだ鹿児島に勤務していた頃、娘がキティちゃんの熱烈なフアンだったため(だいたいこの頃の女の子は、キティちゃんが大好きである)、家族でサンリオ・ハーモニーランドに遊んだことがある。もう今から十七~八年も前のことである。花粉症がひどくて大分までのドライブの間、ずっと鼻をかんでいた記憶しか残っていない。
ステージではショーが開かれており、ステージ上から「今日が誕生日の人は集まって」と呼びかけられた。偶然、その日が誕生日だった私は、家族に促されるまま、ステージに上がった。同じようにステージに上がったのが数人いたが、いずれも小さな子供で大人は一人だけであった。じゃんけんで負けたから良かったものの、勝ち残ったら危うくキティちゃんのパレードに参加するところであった。


日出城址

 日出城は別名を暘谷城という。城址は現在日出小学校となっている。明治四年(1871)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治八年(1875)には本丸内の天守や櫓が競売に付され、次々と取り壊されてしまった。隅櫓(鬼門櫓)のみが残されている。


日出城隅櫓


帆足萬里記念館
日出町歴史資料館


帆足萬里像

 帆足萬里は、江戸時代後期の儒学者・家老。安永七年(1778)日出藩の家老帆足通文の三男として生まれた。十四歳で豊岡の儒学者脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。天保三年(1832)、十三代藩主木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。嘉永五年(1852)六月、多くの弟子に見守られて七十五歳の生涯を閉じた。帆足萬里の代表的著書に「窮理通」「東潜夫論」などがある、三浦梅園(安芸)、廣瀬淡窓(日田)とともに、「豊後の三賢」と称される。

(致道館)


致道館

 日出藩校致道館は、安政五年(1858)、日出藩十五代藩主木下俊程が命じて日出城内二ノ丸に創立された。八歳以上の子弟は必ず入学し、修了の期を設けず広く教育を施した。十六代藩主俊愿(としまさ)もその普及に努めた。およそ二百五十名の子弟が学んだといわれる。明治四年(1871)の廃藩置県により、日出藩の廃止とともに致道館は閉校となり、僅か十三年の歴史に幕を下ろした。致道館の建物は、その後、暘谷女学校、杵築区裁判所日出出張所、日出町役場、財団法人帆足萬里記念図書館等に転用され、昭和二十六年(1951)、現在地に移築された。


致道館室内

(松屋寺)
 松屋寺(しょうおくじ)に入場しようとすると、入口で呼び止められた。拝観料三百円が要るというので、慌てて車に戻って財布をとってきた。ゴールデンウィークといえ、激しい雨が降り続いており、訪問客はまばらである。ようやく出現した客を相手に、男性(入口で拝観料を徴収した彼のことである)は、熱心かつ丁寧に境内を案内してくれた。
 本堂前の蘇鉄は高さ六・一メートル、株元の周囲六・四メートル、南北幅九・七メートル、東西幅八・五メートルという巨樹で、樹齢六百年以上と推定されている。先ほどの男性に促されるまま、蘇鉄の回りを一周すると、男性は待ち構えていて、今度は宝物殿を案内してくれる。宝物も一つひとつ説明してもらった。拝観料三百円は安い!


松屋寺


雪舟作庭園「万竜の庭」


日出藩木下家墓所

 日出藩木下家は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の兄弟木下家定の三男木下延俊の家系である。因みに次男利房は足守藩を興した。五男秀秋は小早川家を継いだ。
 木下家が日出に入ったのは慶長六年(1601)のことで、以来十六代、約二百七十年間続いた。松屋寺に木下家の墓所が創設されたのは、寛永年間(1630年頃)と言われ、当時は初代藩主木下延俊の祖母朝日(北政所の実母)、延俊の正室加賀(細川忠興の妹)および延俊の父母の四基の墓を祀る墓所として出発し、以後歴代藩主や木下家に関係のある人物の墓が建てられている。歴代藩主のうち十三代と十六代の藩主の墓碑のみが欠けている。


木下飛騨守豊臣俊程墓(木下俊程の墓)

 十五代藩主木下俊程(としのり)の墓である。父は十三代藩主俊敦。安政元年(1854)、兄俊方の早逝により跡を継いだ。在任中に藩校稽古堂を拡張して致道館を創設した。慶応三年(1867)、江戸で死去。三十五歳。


文簡帆足先生墓(帆足万里の墓)

 梅林寺の木下家墓所から二百メートルほど行くと、帆足萬里の墓がある。この墓は藩主木下俊方の命により建立され、暘谷城(日出城)に向けて建てられている。碑の正面は門弟で杵築藩主松平親良の弟親直の筆。他の面は高弟米良東嶠の撰による碑文が刻まれている。墓石を削って持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったため、墓碑の一部が欠け、現在はそれを防止するため鉄柵に囲まれている。

(西崦精舎跡)


西崦精舎跡

 西崦精舎とは「西方の日の沈む山の学舎」という意味である。その通り、周囲は深い緑に囲まれた山の中である。帆足萬里が、天保十三年(1842)十一月、この地に私塾西崦精舎を開いた。最盛期には百三十名余の塾生がいたという。その時の喜びを「山の井の濁るばかりに汲み分けてなお住む人のあるぞ嬉しき」と萬里は詠っている。嘉永五年(1852)、豊岡の法華寺に塾を移したが、萬里は法華寺に移る前に、二の丸で亡くなった。
今回の福岡~大分の旅では、二週間前に発生した熊本地震の影響を実感することはほとんどなかったが、唯一の例外が湯布院から日出にかけての一帯であった。西崦精舎の頭上を九州自動車道が走るが、もちろんここも通行止めである。西崦精舎跡の石碑は根元から折れて見る影もない。
大分県北部を震源とする地震で、斜面が崩れ落ち高速道路がふさがれた。湯布院と日出の間は通行止めになってしまい、一般道を迂回することになった。折からの大雨と相俟って、過酷なドライブとなった。
旅行から帰ってからの話になるが、地震から一か月が経ち、ようやく対面通行が可能になった。それでも全面復旧にはまだ時間がかかりそうである。

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杵築

2016年07月18日 | 大分県
(杵築城跡)


杵築城跡

 杵築城は能見松平氏三万二千石の居城である。天守は慶長十三年(1608)の落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在天守台跡に模擬天守が建てられ、資料館として利用されている。コンクリート製の模擬天守は、近くで見ると無粋にしか見えないが、この城の鑑賞方法は遠くから眺めることだろう。城は八坂川の河口の台山の上に築かれ、三方を海と河に囲まれた天然の要害に立地している。
幕末の藩主、松平親良は幕府の寺社奉行に登用されるなど、幕末の幕府を支えた。藩主が佐幕派であったことから、藩内では長く佐幕派と尊王派の対立が続いたが、慶應四年(1868)三月、藩主が明治天皇に拝謁し、家督を長男の親貴に譲ることでようやく決着を見た。


小串二子碑

 小串二子碑は、大正十一年(1922)建立。杵築藩士小串邦太と小串為八郎の兄弟を顕彰したもの。二人は脱藩して幕末国事に奔走した。兄邦太は文久三年(1863)、開国論を口にしたため広島で暗殺されたという。

(北台武家屋敷)


藩校学習館正門

 杵築市の北台地区は、江戸時代の街並みを良く保存再現しており、まるで映画のセットのようである。その中に藩校学習館がある。学習館は、天明八年(1788)、第七代杵築藩主松平親賢によって創立された。学習館では、明治四年(1871)の閉校まで藩士の子弟を中心に漢学、国学、洋学、算学などを教えた。現在、藩校の門は杵築小学校の裏門として使用されている。

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日田

2016年07月18日 | 大分県
(永山城跡)
 今回の五泊六日の九州の旅、基本的には天気に恵まれたが、ただ一日、五日目だけが雨となった。それも強風を伴う、季節外れの台風のような豪雨であった。この日も早朝五時過ぎに久留米を出て、秋月、朝倉、みやまを経由して日田に入った。大分県に入って、日田、杵築、日出、別府、大分と回ったが、日田から日出を訪問している間がもっとも雨足が激しく、場合によっては写真撮影もままならない有様であった。


永山城跡

 日田は廣瀬淡窓の咸宜園のあった土地で、加えて江戸時代の街並みが残る街であるが、この雨ではさすがにゆっくりと楽しんでいる場合ではない。機会があれば、天気の良い日にもう一度歩いてみたいと思わせる街であった。
 永山城は、慶長六年(1601)に小川光氏が月隈山に築いたものである。元和二年(1616)に石川忠総(ただふさ)が入部すると、永山城を改称した。日田は寛永十六年(1639)から天領となり代官所が設置され、永山布政所と称された。布政所は貞享年間(1684~88)に山麓に移された。


永山布政所跡


廣瀬淡窓詩碑

 永山城跡に淡窓の詩碑が建てられている。

 明窓浄几ヲ兼ヌ 膝を抱イテ悠ナル哉
 人間ノ事ヲ話ス莫レ 青山座ニ入リテ来タル

(天領日田資料館)


天領日田資料館

 天領日田資料館は、天領日田に関する資料や書画、珍器の類を展示している。日田は筑前・筑後、肥後、豊前中津、豊後竹田や府内に通じる交通の要衝であった。ここに注目した豊臣秀吉が文禄三年(1594)に直轄支配地としたのが天領の始まりである。江戸時代に入ると寛永十六年(1639)に日田陣屋(代官所)が設置され、以来幕末まで代官が派遣された。日田代官は直轄地の支配だけでなく、九州各地を治める大小三十二の諸大名の監察という任務も帯びていた。また九州内に日田代官所の出張陣屋が三カ所(四日市、富岡、富高)に置かれていた。
 文久三年(1863)窪田治右衛門が着任。一方、豊後南海郡下堅田出身の尊攘志士青木猛彦が宇佐で同志を糾合し、日田陣屋を襲撃する計画を立てていた。これに長州藩の長三洲らも加わり、慶應元年(1865)十二月、同志の一人高橋清臣の木子岳山荘に集合して日田代官所襲撃を討議した。ここには安心院の佐田秀(内記兵衛)、柳田清雄、太田包宗、桑原範蔵、木付義路、安東信哉、下村次郎太なども参加していた。しかし、同志の裏切り密告により窪田代官支配の農兵が押し寄せ、彼らは木子岳山荘を追われた。彼らは安心院で再起を期したが、またしても農兵が乗り込んで来たため、離散を余儀なくされた。その後、宇佐神宮で潜伏したが、窪田代官の追捕の手は厳しく、宇佐八幡の床下に隠していた兵器類はすべて押収され、三度計画は頓挫した。長三洲は長州に逃れ、ほかの同志も多くは長州を頼った。残党は引き続き九州での挙兵を画策し、慶應二年(1866)十二月頃には花山院家理擁立が議論され始めている。

(廣瀬資料館)


廣瀬資料館
廣瀬淡窓旧宅

 廣瀬淡窓の実家は掛屋を営む商家であった。掛屋とは幕府・各藩の公金の出納、管理を担当し、要請に応じてこれを送金することを業務としていた。日田商人は九州各地から物産を集めこれを転売する商いを盛んに行っていた。そのうち最も有力な商人が掛屋に選ばれたという。


廣瀬淡窓旧宅の庭園

 廣瀬淡窓は、天明二年(1782)、掛屋の廣瀬三郎右衛門の長男に生まれた。本来、家業を継ぐ立場にあったが、小さい頃から学問を好み病身のため、二十六歳のとき宗家第六代を弟久兵衛に譲り、桂林園に私塾を開き、生涯学問をもって身を立てることを決心した。私塾はのちに咸宜園に発展したが、淡窓が考案した独自の教育方法は引き継がれた。安政三年(1856)七十五歳で没したが、その時点で門人は三千人を越えた。塾の運営は、旭荘(淡窓の弟)、青邨、林外(淡窓の子)へと引き継がれ、明治三十年(1897)まで続けられた。

(長生園)


文玄廣瀬先生之墓(広瀬淡窓の墓)

 広瀬淡窓ほか一門が眠る墓所である。淡窓は生前この地を墓所に選んでおり、長生園と名付けた。
中央に淡窓の墓があり、「文玄広瀬先生の墓」と書かれている。その右側の「文靖先生」は広瀬林外、「文敏」が旭荘、「文通」が青邨、「文圓」が濠田の墓で、そのほかは各夫人と夭折した子供たちの墓である。
咸宜園は、淡窓から旭荘、青邨、林外、濠田と受け継がれ、約九十年間で全国六十六ヵ国より門弟が集まり、その数は四千八百人を数える。


文通廣瀬先生之墓(青邨の墓)
文圓廣瀬先生之墓(濠田の墓)


文靖廣瀬先生之墓(林外の墓)


文玄先生之碑(淡窓遺言碑)

 北西隅に建てられている「文玄先生之碑」は、淡窓の没した翌年に建てられた墓碑である。碑文には、淡窓が生前自ら作った文を、没後旭荘が謹書して碑石に刻ませたものである。末尾に「我が志を知らんと欲すれば、我が遺書を視よ」と記されている。

(咸宜園)


咸宜園

 日田の咸宜園は、文化二年(1805)、広瀬淡窓が、長福寺の学寮で開塾したのが起源で、その後、成章舎、桂林園(もしくは桂林荘)と場所や名前を変え、文化十四年(1817)、現在地に移されたものである。「咸宜」とは中国最古の詩集「詩経」にある「殷、命を受く咸宜(ことごとくよろし)、百禄是れ何(にな)う」に由来する。「すべてがよろしい」という意味で、その名のとおり、淡窓は門下生一人ひとりの意志や個性を尊重した。身分制度の厳しい時代にあって、入門時に学歴・年齢・身分を問わない「三奪法」によって、全ての門下生を平等に扱った。咸宜園では月の初めに門下生の学力を客観的に評価する「月旦評」と呼ばれる制度により、全ての門下生の成績を公表することで、学習意欲を起こさせた。ほかにも規則正しい生活を実践させるための「規約」や、門下生に塾や寮を運営させるための「職任」など、門下生の学力を引き上げるとともに、社会性を身に付させる教育が実践された。咸宜園は、淡窓の没後も広瀬旭荘、青邨といった門下生に引き継がれ、明治三十年(1897)に閉塾するまでおよそ五千人もが学んだ、全国でも最大規模の私塾となった。門下生には、高野長英、大村益次郎、岡研介、上野彦馬、平野五岳、恒遠醒窓、大隈言道、長三洲、長梅外、谷口藍田、松田道之、清浦圭吾、赤松蓮城、西秋谷らがいる。
 司馬遼太郎先生は、明治期の帝国大学を配電盤にたとえた(「この国のかたち 三」)。帝国大学ほどの影響力ではないかもしれないが、私塾というのも配電盤と呼ぶに相応しい存在であったと思う。咸宜園で学んだ恒遠醒窓や大村益次郎らがそれぞれ故郷に戻ってそこで塾を開いて子弟を育成した。まさに咸宜園は電流の供給源といった存在であった。


咸宜園室内

 咸宜園跡には、江戸時代に建設された居宅「秋風庵(しゅうふうあん)」や書斎「遠思楼(えんしろう)」が保存公開されているほか、書蔵庫や井戸なども見学することができる。


遠思楼

(専念寺)


専念寺


五岳上人像

 平野五岳は、文化六年(1809)、日田郡渡里村正念寺に生れ、八歳の時専念寺の養子となった。文政二年(1819)、咸宜園に入門。詩を広瀬淡窓に、書を貫名海屋に、画を田能村竹田に学び、のちに「三絶僧」と称された。明治に入り、初代日田県知事松方正義の信望を得て、その交わりは終生続いた。以後、大久保利通や木戸孝允とも交わりがあり、その画は明治天皇にも献上された。明治十年(1877)、東本願寺大法主巌如上人の西南の役戦跡慰問の旅に随行し、「丁丑夏日熊本城下作」の詩を詠じ、全国初の作詩賞を受賞した。この詩は熊本城の谷干城像の台座に刻まれているものである。五岳を慕って、明治十六年(1883)には谷干城熊本鎮台指令長官、次いで明治二十年(1887)には書家日下部鳴鶴が専念寺を訪れ、教えを受けた。明治二十六年(1893)、三月、「いざ西へ向かいて先に出かけ候 そろそろござれ後の連中」と辞世歌を残し、大往生を遂げた。享年八十五。

 
熊本城防戦詩碑

 「四面皆賊簇似雲 城在雲中級々」から始まる熊本城攻防戦詩碑は長文なのでここで全文を紹介しない。漢語の素養のない現代人には正確に意味をつかめないところもあるが、激烈な戦況を活写した詩である。
 ここで雨がさらに強くなった。

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