史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

久留米 Ⅰ

2016年07月01日 | 福岡県
 今回の旅のクライマックスは久留米であった。久留米は藩政時代、一つの独立した藩であったが、水天宮の神官で過激な尊攘派である真木和泉という一人の志士を生んだ。さらに溯れば、寛政の三奇人の一人高山彦九郎がこの地を訪れ、最期を迎えた場所でもある。幕末においては、いずれの藩でも勤王派と佐幕派の抗争は見られたが、久留米藩でも激しい派閥争いがあり、遂には勤王派の内でも穏健派と過激派の争いが生じ、激しく人材を損耗した。中でも明治二年(1869)四月に佐幕派十名を処刑した事件では、吉村武兵衛や今井栄といった他藩にも名を知られた有為の人材を失うことになった。さらに明治三年(1870)には反動的尊攘派というべき、長州の大楽源太郎が久留米に逃げ込んだため、これに関与した多くの久留米藩士が処刑され、ここでも人材を失うことになった。


篠山神社(久留米城跡)

 久留米城(別名・篠山城)は石垣や周囲の堀を除けば、ほとんど建造物は残っておらず、現在本丸跡に有馬記念館と篠山神社が建てられているのみである。有馬氏二十一万石の城跡としては少々寂しい現状である。
 篠山神社は、有馬家の藩祖豊氏のほか、七代頼僮(よりゆき)、十代頼永、十一代頼咸(よりしげ)、十四代頼寧の五柱が祀られている。

 久留米城跡の一角は石碑の森となっている。維新関係の石碑も多い。


水野正名先生碑

 水野正名先生碑は全文が漢文で記述されている。建碑は昭和八年(1933)五月。篆額は伯爵有馬頼寧。まず水野正名の事歴が紹介され、後半は大楽源太郎の事件の経緯が詳細に記されている。久留米藩が大楽源太郎を匿っていることを疑った明治政府は兵を出して赤羽の久留米藩邸を包囲し、時の藩知事有馬頼咸を弾正台で取り調べさせた。これが国許に伝わると、藩内には衝撃が走り、禍が藩公に及ばないよう、大楽を謀殺した。しかし、水野正名はこの責任を問われて東京に護送され、明治四年(1871)十二月には士籍を除かれて終身刑に処された。翌年十一月、病気のため青森県弘前獄中で死去。五十歳であった。


小河真文(吉右衛門)碑

 小河真文は通称を吉右衛門といい、旧久留米藩士小河新吾の長男として嘉永元年(1848)に生まれた。十六歳のとき父を亡くし、家督を相続した。早くから勤王の志を持ち、密かに同志と相談した結果、当時の実質的藩政の指導者である参政不破美作を下城途中に要撃して斃した。これを機に藩論は討幕に決し、小河真文も藩政に参与することになった。明治四年(1871)、大楽源太郎が久留米藩に潜入したことを契機に、執政水野正名とともに小河真文も弾正台の喚問を受け、東京に送られた。真文は一切の責任を負って、同年十二月、従容として処刑された。年二十五。


戊辰役従軍記念碑

 久留米藩では慶應四年(1868)二月二十日、藩主が率兵上京し、堺、大阪、神戸付近の警衛を担当した。三月二十六日、家老有馬蔵人を総督として関東への出兵の命を受け、七月には奥州へ転戦。明治二年(1869)一月、凱旋した。他方、明治元年(1868)九月には応変隊、山筒隊約五百が関東に送られ、うち半数は箱館まで転戦した。彼らの帰国は明治二年(1869)六月であった。本碑の建立は昭和十年(1935)。かつて碑にはめこまれた銅板に三百五十三名の従軍者名が刻まれていたが、現在は消滅している。


西海忠士之碑

 西海忠士之碑は、高さ九メートル、棹石だけでも五メートルという巨大なもので、文字は有栖川熾仁親王の筆。「西海忠士」の語句は、文久二年(1862)大原重徳、島津久光が勅使賭して江戸に下向した際に賜った詔勅の中の「山陽・南海・西海之忠士既ニ蜂起」の語に拠っている。明治二十二年(1889)、憲法発布に際し、久留米藩の反政府事件(明治四年(1871)の大楽源太郎事件)の関係者に対して前罪消滅の大赦がなされたことを受けて、明治二十六年(1893)に建碑されたものである。


井上先生之記念碑

 久留米藩の槍術師範井上昭算(通称彌左衛門)の顕彰碑である。井上家は代々槍術師範を職とし、昭算も馬廻組に列せられ、ついには徒士頭まで昇進した。藩主頼咸に従って上京し、第二次長州征伐にも小倉藩の危急を救うため、徒士隊長として出兵した。戊辰戦争でも京都周辺の警衛を担当した。門下から多くの人物を輩出したほか、その名を慕って遠く四国、中国からも入門が絶えなかったといわれる。明治十四年(1881)、七十一歳で没。この石碑も明治二十六年(1893)の建立。

(明善高校)


明善高校

 県立明善高校は、天明三年(1783)に開校された久留米藩校明善堂の流れを汲む学校で、久留米城本丸の南、三の丸からかつて上級武士が住んでいた外郭(そとぐるわ)に位置している。とにかく広い敷地を有している。

(ランドゥール城南の杜)


不破美作旧宅跡

 明善高校の少し東側、今ではマンションが建設されてその面影は失われているが、この辺りに参政不破美作の屋敷があったとされる。マンション建設の工事の際に、遺物が発掘されたというニュースをどこかで読んだ気がしたのだが…。
 マンションの向い側には旧三島家長屋門(天保十一年建築)が移設復元されているが、不破美作とは無関係。


旧三島家長屋門

(久留米駅)


からくり時計

 JR久留米駅前に田中久重の生誕二百年を祝い、その業績を顕彰するために平成十一年(2000)にからくり時計が設置された。このからくり時計は、朝八時から午後七時までの間、概ね三十分ごとにからくり人形の実演がある。私がここを訪れたとき、午後五時半を少し過ぎたところで、残念ながら実演が終わった直後であった。

(坂本繁二郎生家)


坂本繁二郎生家

 JR久留米駅から徒歩数分という場所に、「放牧三馬」などで知られる画家坂本繁二郎の生家がある。坂本家は代々久留米藩に仕える武家であった。京隈小町と呼ばれる界隈にあった木造の生家は、茅葺と瓦葺が結合した一部二階建てで、居間などの居住空間と座敷などの接客空間とに分れ、武家屋敷の特徴をよく伝えている。現在、久留米に残る唯一の武家屋敷遺構となっている。建築年代は、江戸後期から明治七年(1874)にまたがると推定されている。

(梅林寺)


梅林寺

 梅林寺は、有馬氏の菩提寺で、有馬家の旧領地の瑞巌寺を移し、藩祖豊氏の父、則頼の法号梅林院の名をとって梅林寺と改めた。九州の臨済宗の修行道場としても知られ、一歩境内に入ると凛とした空気が心地よい。


有馬家墓地


旧久留米藩十志士碑

 筑後川沿いの梅林寺外苑は自然林の公園となっており、その薄暗い空間に旧久留米藩十志士碑がある。
 十志士とは、王政復古後、尊王派が藩政を握ると、明治二年(1869)一月二十五日、徳雲寺にて屠腹を命じられた以下の十名である(吉村のみ大阪天満の瑞光寺にて自刃)。

 今井栄(敬義)
 喜多村弥六(吉尚)
 吉村武兵衛(輝方)
 久徳与十郎(重之)
 北川正介(亘)
 石野道衛(氏恒)
 松岡伝十郎(良実)
 本荘忠太(一損)
 梯譲平(譲)
 松崎誠蔵(発)


石野氏清墓

 墓石には「石野理右衛門尉氏清墓」とあり、石野道衛の先祖の墓と推定される。


小河真文(池田八束)墓

 小河真文(まさぶみ)は、弘化四年(1847)の生まれ。墓石に刻まれている池田八束は変名。通称は吉右衛門。文久三年(1863)八月、長州藩の攘夷応接として久留米藩借地の豊前大里に出張した。慶応四年(1868)正月、佐々金平らと同志二十余人と、当時久留米藩佐幕派の首領とみなされていた参政不破美作を暗殺した。同年四月、上京して藩主の近侍となり、十月には納戸役となったが、十一月病を得て帰藩した。慶応三年(1867)正月、久留米藩応変隊参謀、十二月常備隊四番大隊参謀兼務を命じられた。慶応四年(1868)十二月、大楽源太郎事件に際して斬首された。年二十五。真文の墓は、東京の当光寺にあったが、久しく墓参する者も絶え、草むらの中に荒れ果てていたため、大正三年(1914)梅林寺に改葬された。


小川徳先生墓

 小川徳は、天保十年(1839)、武蔵国足立宮ヶ塔村(現・埼玉県さいたま市)に生まれた。養蚕と木綿織物の盛んな土地であった。幼くして両親を亡くし、結婚して一男を産んだが、やがて江戸に出て武家に奉公した。江戸詰めの久留米藩士戸田覚左衛門の帰国に当たり、娘の乳母となり、慶応四年(1868)に久留米に同行した。折り返し藩主頼咸の正室精姫(あきひめ)の女中として江戸に帰る約束であったが、既に精姫は江戸に発ち、徳はそのまま久留米に留まることになった。当時、久留米では絣の生産が盛んであったが、下機(しもばた)という原始的な綿織りを使用していた。徳は綿織りの改良を思い立ち、田中久重に依頼して機織りを効率的に行うための揚枢機(あげわくき)を製作してもらい、また寺町の工匠亀吉の協力を得て、長機(ながはた)の製作に成功した。明治九年(1876)、縞(しま)織りを始め、製品に「久留米縞」と名付けて売り出した。久留米絣よりはるかに安価なこともあり、好評を博した。日吉町の山手社裏手にある仕事場には機織りの見物人が殺到したという。また、徳のもとに弟子入りする者も多く、育成した技術者は六、七百人に達した。久留米の特産品としてその地位を確立した久留米縞であったが、一方で粗悪品が目立つようになる。明治十九年(1886)、久留米絣同業組合が結成されると、縞関係者もそれに加わり、製品管理を図った。明治二十六年(1893)には、絣組合から分離して久留米縞組合が組織された。明治四十三年(1901)、郷里に戻って晩年を過ごした。大正二年(1913)、七十五歳にて没。
 梅林寺の墓は、明治二十年(1887)、徳の功績を讃えて、門弟により建てられた生前墓である。


贈従五位 山田䄿養墓

 小川徳の墓の横に、無縁墓が多数積み置かれている。その中の一つに山田䄿養(やす)の墓がある。イネは禾偏に「曳」で、手元の漢和辞典にも載っていない難字である。
 山田䄿養は、嘉永三年(1850)に、久留米藩士二百石馬廻役山田忠兵衛政仲の長男に生まれた。元治元年(1864)、十五歳のとき小倉戦争に参加、慶応三年(1867)、藩命により坂本金三郎(画家坂本繁二郎の父)とともに幕府海軍操練所に入所して、勝海舟の教えを受け、翌年帰藩した。戊辰戦争北越征討には、久留米藩海軍の千歳丸の乗組員として参加した。のち海外留学を志し、明治元年(1868)一月三日付けで我が国最初の海外渡航券(パスポート)第一号を取得し、同年十二月、米国に向けて旅立った。翌年ウースターのハエランド軍学校に入学したが、明治四年(1871)九月、退学。継いでハーバード大学法学部に転じ明治七年(1874)まで在学した。山田はハーバード大学に留学した東洋人第一号となった。明治十八年(1885)帰国し、横浜税関の御雇外国人に対し、英語と法律知識をもって助力した。明治二十五年(1892)横浜で美術品商店を開いて、美術品、骨董品や化化粧品、食器などを商った。日本貿易協会長などを務め、海外貿易に心血を注いだ。明治四十年(1907)三月、没。五十八歳。
 東京芝増上寺の末寺花嶽院にも墓があるという。会社の近くなので、昼休みに調査に出かけてみたが、山田家の墓が二基見つかっただけで䄿養のものは特定できなかった。

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