史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

久留米 Ⅳ

2016年07月01日 | 福岡県
(高山彦九郎終焉の地)
 遍照院から五分ほど北に歩くと、東櫛原町の一角に高山彦九郎終焉の地、即ち儒者森嘉善宅跡がある。


高山彦九郎先生終焉之地

 土饅頭があるので墓っぽいが、墓ではない。土饅頭の前にサイコロ状の石がある。これは自刃前に彦九郎が書類を焼いた手水鉢の台石である。また、両側に二柱の石碑があって、それぞれ高山彦九郎の辞世が刻まれている。
 彦九郎が何故久留米で自刃したのか、今なお不明な点が多いが、寛政元年(1789)に起きた尊号一件(光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとして、当時の老中松平定信に反対された事件)に対する落胆があったとか、痰気(咽喉のつかえ)による心身衰弱であったとも言われている。

(田中久重生家跡)


田中久重生誕地

 通町の西鉄の高架下に田中久重生誕地がある。田中久重がこの地で生まれたのは、寛政十一年(1799)。幼少の頃から機械を作ることが好きで、発明した者は数知れず。中でも萬年自鳴鐘(機械式置時計)は現代人の目から見ても驚くべきものである。田中久重は肥後藩、久留米藩に登用され、その才能と技量を発揮した。維新後、上京して工場を開き、電信灯台用品の製造を始め、のちの東芝の礎を築いた。明治十四年(1881)、八十三歳で没。

(五穀神社)


五穀神社

 五穀神社は、寛延二年(1749)時の藩主有馬頼僮(よりゆき)によって創建されたもので、藩営に近いものであった。文化三年(1806)に総郡中からの寄進で設営された石橋は市の有形文化財に指定されている。周囲は広大な公園として整備されており、久留米出身の著名人の銅像や顕彰碑が建てられている。その中に井上伝像と並んで田中久重像もある。田中久重は、井上伝と同じ通外(とおりほか)町出身で、近所のよしみで機織りや図案に対して意匠と工夫を凝らし、井上伝を助けたと伝えられる。五穀神社では久重が発明したからくり人形が演じられていたという。


田中久重像

(久留米製銕所跡)


久留米製銕所址

 五穀神社から歩いて数分の南薫町の住宅街の中に久留米製鉄所跡碑が建てられている。
 田中久重の工場は当初御井町にあったが、慶應三年(1867)、久重の生家に近い通町に移された。敷地は三千坪に及ぶ広大なものだったという。ここで久重は、西洋式の小銃を製造した。
 さらに通町の工場が手狭になったため、明治二年(1869)、南薫町へ移転した。当時は建物が東西に並び、長崎で購入した旋盤を三台据え付け、機械の動力として蒸気機関が利用された。従業員の数は百名余。明治四年(1871)の廃藩置県を迎え、事業も停止したが、久重は上京する明治六年(1873)まで工場の機械を借用して各種機械の試作製造を行った。

(正源寺南丘上隈山墓地)


故大参事水野正名墓

 市街地から少し離れた野中町の正源寺墓地に水野正名や吉田博文、有馬蔵人らの墓がある。
 水野正名は、久留米藩の重臣水野家の長男として文政六年(1823)に生まれた。真木和泉と親しく行動し、三十歳のとき謹慎処分を受けている。文久三年(1863)、謹慎を解かれ上京。八一八の政変に遭い、七卿の護衛をして長州へ下った。翌元治元年(1864)、五卿とともに大宰府に下り、その警護を務めた。慶応三年(1867)十二月、王政復古が宣言されると、五卿に従って上京した。慶応四年(1868)正月、参政不破美作が暗殺されると、京都にいた正名が参政に登用され、藩主有馬頼咸に従って久留米に帰国した。公武合体派を退け、家老有馬河内監物に永蟄居、今井栄ら十名に切腹を申し付けた。藩政改革を進めるとともに、士民からなる応変隊を組織して養弟正剛を隊長として箱館に派兵した。明治二年(1869)には大参事に任命された。しかし、明治四年(1871)、大楽源太郎の事件に連坐して、大参事を罷免され、終身禁獄の処分が下り、明治五年(1872)青森県弘前で獄死した。

 有馬蔵人は、久留米藩重臣で家老脇。慶応四年(1868)の戊辰戦争では関東および奥州に出征した筑後隊の総督を務めた。


有馬源祐祥(蔵人)墓


有馬大助墓

 有馬大助は有馬蔵人の嫡男。参政不破美作暗殺の謀議に荷担したといわれる。


吉田博文之墓

 吉田博文は、水野正名の実弟。兄正名を助けて民兵を組織した。明治二年(1869)、久留米藩小参事。明治三年(1870)には軍務総裁兼学校総督。明治四年(1871)の藩難事件に際して終身禁獄処分を受けた。


渡辺五郎之墓

 渡辺五郎は、大正十五年(1926)筑後遺籍刊行会を起し、「筑後地誌叢書」や矢野一貞の「筑後将士軍談」などを刊行し、郷土先賢の顕彰に努力した。

 同墓地には、ほかに有馬一知(幕末維新期の家老)や岸致知(一知の嫡男。幕末、京都で朝廷工作)の墓もある。

(市民文化センター)


田中久重鋳砲所址

 信愛女子学院の向い側、市民文化センターの前に田中久重鋳砲所址碑が建てられている。
 田中久重は嘉永年間、佐賀藩に招かれ蒸気船や鉄砲などの製作を行ったが、元治元年(1864)久留米に帰り、この石碑が立つ裏山辺りに藩立の鋳造所を設けた。ここでアームストロング砲を鋳造し、ここから約三千メートル先の飛岳に向けて大砲の試射が行われた。

(山川招魂社)


山川招魂社

 山川招魂社は、明治二年(1869)、久留米藩主有馬頼咸によって、高山彦九郎はじめ維新の大業に身を投じた志士三十八の霊を祀るための招魂社が設けられた。神社の裏には、真木和泉、稲次因幡正訓の墓をはじめ、佐賀の乱、西南戦争に殉じた人々の墓石が立ち並んでいる。


高山仲縄(彦九郎)祠堂之碑

 高山彦九郎祠堂之碑は、廃藩置県後、三潴県大参事水原久雄が高山彦九郎の祠堂建設を提唱し、それを受けて明治六年(1873)八月に御楯神社が創建されたことを記念したものである。


幕末殉難者墓
半田門吉ら

 幕末殉難者の墓である。左手の半田門吉は久留米藩士で、天誅組挙兵に参加した人物。鷲家口で負傷したが、その後大阪に潜行し、長州に逃れた。元治元年(1864)の長州藩兵の状況に従い、禁門の変に戦って鷹司邸前で戦死した。
 その右は江頭種八の墓。やはり天誅組に参加して捕えられ、元治元年(1864)京都六角の獄舎で処刑された。年二十五。
 その右にあるのは荒巻羊三郎の墓である。荒巻羊三郎は、文久二年(1862)の寺田屋事件に関与し、藩地に送還されて謹慎を命じられた。やはり天誅組の挙兵に参加して敗れて捕えられ、京都六角獄舎で処刑された。年二十四。
 一番右は中垣健太郎のもの。やはり寺田屋事件に関係し、継いで天誅組挙兵に参加。捕えられて元治元年(1864)、京都六角獄舎で処刑された。年二十四。


幕末殉難者墓
酒井傅次郎(左)原通太

 同じく幕末殉難者酒井傅次郎と原通太の墓である。酒井傅次郎は、寺田屋事件に関与して久留米に藩地に護送され、文久三年(1863)の天誅組挙兵に参加。敗れて追討兵に捕えられ、翌年京都六角獄舎で処刑された。酒井は二十七歳。
 原通太も寺田屋事件に参加。禁門の変で散弾に当たり清水源吾に介錯を命じて屠腹して果てた。年二十七。


故和泉守真木保臣墓


佐々金平真武墓

 佐々(さつさ)金平は、弘化二年(1845)、久留米藩士の家に生まれた。諱は真武。武術に長じ、かねて国文、和歌を能くした。慶応三年(1867)、召されて馬廻組となった。このころ佐幕派の参政不破美作が尊攘派藩士を藩政から斥けると、金平はその専権を憎み、翌慶応四年(1868)正月、同志と美作を殺害した。国老に自訴したが、罪を免れた。慶応四年(1868)七月、応変隊参謀に挙げられ、十月東上して奥羽征討軍に加わり、翌明治二年(1869)四月、箱館戦争に参加。松前福山の榎本軍の塁を破ったが、立石野の激戦で戦死した。墓石の側面に「奥州於松前戦死」と刻まれている。年二十五。


稲次因幡正訓墓

 稲次因幡正訓は、水野正名、吉田博文の実弟。嘉永五年(1852)、藩主頼咸に対し、藩政指導部に藩主廃立の陰謀があると申し立て、これを受けて藩主は有馬昌長らに閉門処分を下したが、陰謀の証拠が発見されず、稲次による讒言の疑いが強まった。これを機に尊攘派は失脚。真木和泉は蟄居処分、稲次は改易ののちに自刃した。


戊辰戦争殉難者墓


西南戦争殉難者墓


佐賀の乱殉難者墓

 佐賀の乱の殉難者の墓である。表面に「佐賀賊徒追討戦死之墓」とある。

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