(大戸関所跡)
大戸関所は信州街道の要点を抑える重要な関所である。寛永八年(1632)に設置された。信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家・商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐほどの活況を呈していたともいわれる。江戸と信濃を結ぶ最短経路としても重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。この関所は、元和九年(1623)五月、将軍秀忠上洛の際、要害の地を守護したのが始まりといわれる。中山道の脇往還で、碓井関所の裏固めという意味も持っていた。以後、二百三十有余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年(1868)九月に廃止された。嘉永三年(1850)に大戸関所破りの罪を問われた侠客国定忠治は、この地で処刑された。
大戸関所跡
大戸関所跡碑
(国定忠治処刑場跡)
国定忠治処刑場跡
大戸関所から一キロメートルほど南に国定忠治の処刑場の跡がある。忠治を慰霊するための地蔵や慰霊碑がある。
忠治地蔵
侠客国定忠治慰霊碑
群馬県出身の有名人といえば、首相経験者である福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三を差し置いて、侠客国定忠治が一位だという説がある。真偽のほどはさておき、国定忠治の知名度は抜群である。講談や映画で幾度となく描かれた国定忠治は実在の人物である。
国定忠治の本姓は長岡といい、文化七年(1810)、国定村に生まれた。地主の子というが、博打うちとなり、縄張り争いの末に島村伊三郎を闇討ちして殺し、弟分の浅次郎に目明し勘助と二歳の子を殺させた。天保七年(1836)、子分長兵衛の敵討ちをするため、大戸の裏道を通って信州に入ったが、結局仇討ちは果たせず帰国した。天保八年(1837)の飢饉の時には、窮民救恤のための公儀御用金を強奪し、しばらく奥州に潜んでいた。その後、悪代官といわれた松井軍兵衛を斬って赤城山に籠るなど流浪数年、嘉永三年(1850)に故郷に帰ったが、中風のため動けなくなったところを逮捕された。幕府の勘定奉行池田頼方の裁定で、関所破りの罪で磔刑を申し渡され処刑された。年四十一。
(とまどいの松)
とまどいの松
処刑場からさらに南、萩生峠に「忠治とまどいの松」がある。天保七年(1836)、大戸関所を前に心を決めかねて、松の根元にたたずみ迷ったと伝えられる。誰いうことなく「忠治とまどいの松」と呼ばれることになった。現在、ここにある松は三代目である。
小栗上野介忠順が官を辞して権田村に遁世した際、馬術が得意だった上野介は、遠乗りをして領地境の松の場所まで見回りに訪れたという。
大戸関所は信州街道の要点を抑える重要な関所である。寛永八年(1632)に設置された。信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家・商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐほどの活況を呈していたともいわれる。江戸と信濃を結ぶ最短経路としても重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。この関所は、元和九年(1623)五月、将軍秀忠上洛の際、要害の地を守護したのが始まりといわれる。中山道の脇往還で、碓井関所の裏固めという意味も持っていた。以後、二百三十有余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年(1868)九月に廃止された。嘉永三年(1850)に大戸関所破りの罪を問われた侠客国定忠治は、この地で処刑された。

大戸関所跡

大戸関所跡碑
(国定忠治処刑場跡)

国定忠治処刑場跡
大戸関所から一キロメートルほど南に国定忠治の処刑場の跡がある。忠治を慰霊するための地蔵や慰霊碑がある。

忠治地蔵

侠客国定忠治慰霊碑
群馬県出身の有名人といえば、首相経験者である福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三を差し置いて、侠客国定忠治が一位だという説がある。真偽のほどはさておき、国定忠治の知名度は抜群である。講談や映画で幾度となく描かれた国定忠治は実在の人物である。
国定忠治の本姓は長岡といい、文化七年(1810)、国定村に生まれた。地主の子というが、博打うちとなり、縄張り争いの末に島村伊三郎を闇討ちして殺し、弟分の浅次郎に目明し勘助と二歳の子を殺させた。天保七年(1836)、子分長兵衛の敵討ちをするため、大戸の裏道を通って信州に入ったが、結局仇討ちは果たせず帰国した。天保八年(1837)の飢饉の時には、窮民救恤のための公儀御用金を強奪し、しばらく奥州に潜んでいた。その後、悪代官といわれた松井軍兵衛を斬って赤城山に籠るなど流浪数年、嘉永三年(1850)に故郷に帰ったが、中風のため動けなくなったところを逮捕された。幕府の勘定奉行池田頼方の裁定で、関所破りの罪で磔刑を申し渡され処刑された。年四十一。
(とまどいの松)

とまどいの松
処刑場からさらに南、萩生峠に「忠治とまどいの松」がある。天保七年(1836)、大戸関所を前に心を決めかねて、松の根元にたたずみ迷ったと伝えられる。誰いうことなく「忠治とまどいの松」と呼ばれることになった。現在、ここにある松は三代目である。
小栗上野介忠順が官を辞して権田村に遁世した際、馬術が得意だった上野介は、遠乗りをして領地境の松の場所まで見回りに訪れたという。