(満照寺)
嘉永三年(1850)七月、出府した象山は、江戸深川小松町の松代藩邸に身を置いて、そこで砲術教授に携わることになった。藩でもこれを支援し、ここに鉄砲の製造所を設けた。象山の声望は藩外にも知れ渡っており、松代藩士のみならず、他藩からも生徒が集まった。この年に入門したものの中には、勝海舟、木村軍太郎、武田斐三郎、山本覚馬、津田真道らがいる。
満照寺
嘉永三年(1850)十二月、松代に帰郷した象山は、門弟数十人を引き連れて、金児忠兵衛の鋳造した五十斤石衝天砲の試射を行った。翌年二月にはポンペン砲の試射を実行したが、火薬の量を間違ったらしく、砲弾が飛び過ぎて満照寺の中庭に飛び込むといった失態を演じている。当時、満照寺は天領とされていたため一大事となり、解決に時間を要したと伝えられる。もっとも三月に三度目の試射を行った際には、みごとな成果を挙げて面目を施している。
嘉永三年(1850)七月、出府した象山は、江戸深川小松町の松代藩邸に身を置いて、そこで砲術教授に携わることになった。藩でもこれを支援し、ここに鉄砲の製造所を設けた。象山の声望は藩外にも知れ渡っており、松代藩士のみならず、他藩からも生徒が集まった。この年に入門したものの中には、勝海舟、木村軍太郎、武田斐三郎、山本覚馬、津田真道らがいる。
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満照寺
嘉永三年(1850)十二月、松代に帰郷した象山は、門弟数十人を引き連れて、金児忠兵衛の鋳造した五十斤石衝天砲の試射を行った。翌年二月にはポンペン砲の試射を実行したが、火薬の量を間違ったらしく、砲弾が飛び過ぎて満照寺の中庭に飛び込むといった失態を演じている。当時、満照寺は天領とされていたため一大事となり、解決に時間を要したと伝えられる。もっとも三月に三度目の試射を行った際には、みごとな成果を挙げて面目を施している。
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