史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

松代 Ⅲ

2015年12月18日 | 長野県
(山寺常山邸)


山寺常山邸

 山寺常山は文化四年(1807)の生まれ。生家は知行百六十石の中級の藩士であった。世子の傳として江戸に赴き、兵学・漢学を学び、佐藤一斎、中村敬宇、藤田東湖らと交わった。天保十二年(1841)、藩主真田幸貫が老中となると、その手足となって活躍した。同十四年、寺社奉行、郡奉行となった。能吏の評判高く、ことに弘化四年(1847)の善光寺大地震の際には領民の救恤に尽くした。明治二年(1869)、新政府に徴されたが、応じなかった。明治三年(1870)、藩領に起こった騒動後の政務にあたり、廃藩後地元に塾を開いて教育者となった。鎌原桐山、佐久間象山とともに「松代の三山」と称された。明治十一年(1878)、年七十二にて没。


常山山寺先生之碑

 現在、常山邸には幕末から明治初期に建設された表門、大正末から昭和初期に建設されたと推定される書院が残されている。邸内には、孫の塩野季彦(近衛内閣で司法大臣、平沼内閣では逓信大臣等を兼任)らによって昭和十五年(1940)に建立された頌徳碑がある。
 常山邸内は拝観可能(入場無料)だが、例によって時間が早過ぎた。

(長国寺)


長国寺

 長国寺は、天文十六年(1547)、真田幸隆が曹洞宗の禅刹上野国長源寺から、親交のあった伝為晃運禅師を招いて開山し、真田郷松尾城内に一族の菩提寺として「真田山長谷寺」を建立した。元和八年(1622)、上田藩主だった真田信之(幸隆の孫)が松代に移封となり、それにともなって寺も現在地に移転し、寺号も長国寺と改められた。江戸時代を通して信州一国の曹洞宗寺院八百ヵ寺を管理統括することになった。


玄照院鐡翁道開居士(恩田木工民親の墓)

 長国寺の墓地には、恩田木工の墓がある。
 恩田木工(1717~1762)は、六代藩主幸弘の時、宝暦五年(1755)、家老に就いて改革に着手した。納税法を年に一度から月割に変更し滞納を整理したほか、山野荒野の開拓や養蚕の奨励など殖産興業に力を注いだ。宝暦十二年(1762)、病のため四十六歳で死去した。

 長国寺は、真田家の菩提寺で、真田家歴代藩主の墓があるほか、初代信之、二代信弘の御霊屋がある。庫院の受付を訪ねて拝観料三百円を支払うと、ご住職自ら御霊屋や墓所を案内していただける。
 最初に長国寺を訪ねたのはまだ八時を回ったところであった。願行寺、大林寺、それに東条天王山の鎌原桐山碑を訪ねて、再度長国寺に戻った。ちょうど私の前に一人の女性が受付を済ませたところであった。その中の一人、ジャージ姿の初老の男性が当寺のご住職であった。ご住職の方から声をかけていただき、三人で御霊屋と真田家の墓所を歩くことになった。


初代藩主信之公霊屋

 ご住職によれば、この女性はリピーターだそうで、長国寺のことも真田家墓所のことも良く御存知らしく、もはや解説は要らないというレベルだそうで、説明は専ら私に向けて、マン・ツー・マンで行われた。
 ご住職によれば、信之公御霊屋の天井には狩野探幽筆の花鳥絵が描かれ、正面の唐破風には左甚五郎作と伝えられる雌雄の鶴が施されている。一時は荒れるに任されていたが、維新後大金を投じて解体復元工事が実施されたという。ご住職は、淀みなく解説を続けた。


松代藩主真田家墓所

 墓所には、初代から十二代までの歴代当主(ただし、十三代幸長の墓は青山墓地)と早逝した子女の墓がある。また、真田幸村、大助(幸昌)父子の供養碑なども置かれている。
 ご住職は、「歴代の藩主の墓がこれほど残っている大名墓はほかにないでしょう」と胸を張ったが、私の知るだけでも大村藩主の墓の規模はこの数倍もあるし、萩の毛利家、越前松平家や小浜酒井家の墓地も負けていない。


感應院殿至貫一誠大居士
(八代幸貫公の墓)

 私が長国寺を訪ねた最大の目的は、真田幸貫の墓である。

真田幸貫は、寛政三年(1791)の生まれ。父は松平定信。父の教えを受けて治国の要道はもとより、文雅の道にも通じた。常に質素な服装を用い、賢明の聞こえ高く、領民からも名君と仰がれた。文政六年(1823)、家督を継いで、文教を興し、藩風を刷新し、殖産興業を奨励したため、藩政は大いに振った。文政十二年(1829)、老中に抜擢されたが、弘化元年(1844)、病のために辞職した。幸貫の最大の功績は、佐久間象山を発掘し、さらに傲岸不遜という不評のあった象山を終始支援したことにあったであろう。嘉永五年(1852)、年六十二で没。


文聡院殿若一教大居士
(九代幸教公の墓)

 真田幸教(ゆきのり)は八代藩主幸貫の孫。嘉永三年1850)、幸貫の後を襲って藩主となった。文久三年(1863)、イギリス軍艦が江戸に迫ると、警衛の命を受け、藩兵を率いて江戸に赴いた。元治元年(1864)には京都御門の警衛を任じられた。次いで大阪表に転じた。孝明天皇の信任厚く、種々下賜を受けた。しかし、同年秋、病のため家督を養子幸民に譲った。明治二年(1869)、年三十六の若さで逝去。


松代藩前島民部左衛門之墓

 前島民部左衛門は家中士。戊辰戦争では八番狙撃隊に属した。慶応四年(1868)五月三日、越後片貝にて戦死。二十九歳。

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