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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

只見

2013年06月07日 | 福島県
(河井継之助記念館)


河井継之助記念館

 この山あいの寒村が史上脚光を浴びたのは、長岡藩の河井継之助が、この地で息を引き取ったときが唯一であろう。八十里を越えて只見に至った河井継之助は、ここで四十二年間の激動の生涯を閉じた。河井継之助がここで死んだからといって、それだけでは注目を集めることにもならなかったかもしれない。何といっても司馬遼太郎先生の小説「峠」の影響が大きいのではないか。小説のラストシーンは、河井継之助の評価がどうとかいう次元を超えて、とにかく感動的である。今回の旅において、欠かせないスポットの一つであった。
 只見にはまだ残雪があり、北欧の風景と見紛うばかりである。
 河井継之助記念館は、冬期は閉館していると聞いていたが、幸いにしてこの日は営業していた。予想以上に充実した展示であった。


再現された河井継之助終焉宅(矢沢家)

 河井継之助が、只見で最期を過ごしたのは十二日間であった。継之助が息を引き取ったのは、村医矢沢宗益の家であった。河井継之助記念館には、矢沢家が移築再現されている。


河井継之助像


ガトリング砲を操作する河井継之助

 河井継之助は、当時日本に三門しかなかったというガトリング砲を自ら操作して応戦したと伝えられる。その様子を再現したものである。


司馬遼太郎の書

 司馬遼太郎先生は、「峠」の連載後、当地を訪れ、「山水相應蒼龍窟」「壺中天」という二つの揮毫を残した。壺中天とは、俗世間とは一線を画した別天地のことを指し、只見という土地を的確に表現したものである。

以下「峠」のラストシーン
――― 「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
 松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
 松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなかった。
 松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
「松蔵、火をさかんにせよ」
と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
 夜半、風がおこった。
 八月十六日午後八時、死去。

(医王寺)


医王寺

 医王寺は寺ということになっているが、見た目はほとんど物置のようである。
 記念館の女性から「河井継之助の墓は、ここから歩いて数分ですけど、雪が残っているので近づけません」と教えてもらった。確かに墓の前には、雪がこんもりと積まれていた。


河井継之助墓

(叶津番所跡)


長谷部家住宅

 叶津番所を務めた名主長谷部家に、八十里を越えて当地に至った河井継之助一行が宿泊している。
 長谷部家住宅は、県の重要文化財に指定されている寄棟造り、茅葺住宅である。

(新福寺)


新福寺

 新福寺に金沢藩森川余所之助の墓がある。


加賀藩卒森川余所之助墓
行年二十一歳

 金沢藩森川余所之助は、明治元年(1868)九月二十三日、入小屋の戦い(現・南会津町東)にて負傷し、小林で死亡(自決)。二十一歳。

 実は布沢の龍泉寺に金沢藩大田治左衛門の墓があることも把握していたが、そこに至る道路が通行制限中(恐らく残雪のため)ということだったので断念した。只見を訪問するのであれば、季節を選んだ方が良さそうである。

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金山

2013年06月07日 | 福島県
(横田)


山ノ内家之墓
(山之内大学墓)

 福島県金山町。“かねやま”と読む。山形県の金山町と同じ読みである。
 金山町の横田にはJR只見線が走る。山之内家の墓がある墓所には、踏切はないが只見線の線路を越えなくてはいけない。積雪が線路を覆うように残っており、容易に墓地に近づけない。どうやら只見線はこの季節不通になっているようである。滑ったり、転んだりしながら、ようやく墓地にたどり着いた。墓石も半ば雪に埋もれていた。


小沼安士之墓
横田善通之墓
中丸俊成之墓

 山之内家家来である小沼源蔵安士、横田大佐善通、中丸三郎右衛門俊成という三人の連名墓である。

 小沼源蔵は、慶應四年(1868)九月一日、会津一ノ堰にて傷。十月三日、蔵入玉梨にて死。二十六歳。
 横田大佐は、山内大学の弟。十石三人扶持。明治元年(1868)九月十五日、一ノ堰にて傷。玉梨にて自害。三十五歳。
 中丸三郎右衛門は、四石二人扶持、長柄者。明治元年(1868)九月二十二日、会津南山で傷。十月二日玉梨にて死。三十七歳。


山内家屋敷跡

 横田小学校の敷地辺りが、四百年にわたって横田を治めていた山ノ内家の屋敷跡に相当する。三方の土塁と後方の深田堀で囲まれていたといい、今もその名残を見ることができる。幕末の当主、山ノ内大学知通は、家臣を集めて山ノ内隊を結成して各地を転戦した。維新後は会津藩執政、斗南藩少参事を務めた。

(小沼家墓地)


小沼雄八墓

 小沼雄八は山ノ内大学家来。慶應四年(1868)閏四月十八日、越後小出島にて傷。五月十四日、宮下で死。二十七歳。

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柳津

2013年06月07日 | 福島県
(円蔵寺)


円蔵寺

 円蔵寺は、茨城県東海村の村松虚空地蔵尊、宮城県登米市の柳津虚空地蔵尊とともに日本三大虚空地蔵尊と称され、別名福満虚空地蔵とも呼ばれる(別に三重県伊勢市の金剛證寺とする説もある)。
 只見川に臨む断崖に堂宇が建てられている。本堂の川に面した壁面には、戊辰戦争時と推定される弾痕が残る。


弾痕


頼三樹三郎詩碑

弘化三年(1846)、越後に向かう途中、当地を訪れた頼三樹三郎は風景の美しさに感銘を受け漢詩を残した。

宿柳津 鴨厓頼醇 北州名勝是禅関
寺在巉巌萬畳湾 夜枕夢清連岸水
暮鐘聲落半空山

只見川側を見下ろす場所は、舞台状になっている。そこに立つと眼前に絶景が広がる。


只見川

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西会津

2013年06月07日 | 福島県
(常楽寺)


常楽寺

 常楽寺には、会津藩士山本栄三郎、長岡藩士岡村半四郎、中田良平、薩摩藩士吉田与藤次の墓がある。


山本栄三郎墓

 山本栄三郎は、田中大海家来。朱雀寄合二番西郷隊附属。慶應四年(1868)、七月二十九日、新潟にて戦死。


岡村半四郎・中田良平墓

 岡村半四郎、中田良平とも長岡藩士で中間杖突。岡村半四郎は、明治元年行方不明。中田良平は、慶應四年(1868)、八月下旬(墓碑によれば八月二十八日)、会津領大山祇辺りで戦死?


薩藩 官軍先鋒 吉田譽藤二清次墓

 吉田与藤次は、加世田郷士。外城第二隊。慶應四年(1868)九月一日、下野御蔵入村で戦死。二十五歳。新潟常盤岡に墓。

(龍泉寺)


龍泉寺


安藤元四郎墓

 天気予報によれば、GWは好天だということであったが、この辺りを走っているうちに雲行きが怪しくなってきて、龍泉寺に着いたときには本降りとなった。
 いつもは傘を携行しているのだが、今回に限って持っていなかった。こういうときに限って雨に祟られる。「降らないって言ってたじゃないの」と気象庁に文句をいいたくなった。
 龍泉寺では、雨に濡れながら墓地を歩くことになった。
 墓地の一番奥に安藤元四郎の墓がある。安藤元四郎は、朱雀士中四番町野隊。慶應四年(1868)九月二日、会津真ヶ沢にて戦死。二十七歳。墓の表面はほとんど剥離しており、辛うじて「安」と「墓」という文字が読みとれるのみである。

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会津坂下 Ⅱ

2013年06月02日 | 福島県
(光照寺)


光照寺


戦死六人之墓

 光照寺本堂前の戦死六人之墓には、会津周辺で戦死した高田藩士および福井藩士六人(新村美代吉、松井勝之助、高橋源四郎、大西孝左衛門、増永磯之助、渡辺源四郎)が合葬されている。

(光明寺)


光明寺


小倉藩二名墓

 生田孫八郎、岩竹国太郎という二人の小倉藩士の墓である。
 生田孫八郎は、明治元年(1868)九月、若松にて戦死。陣没とも。二十歳。
岩竹国太郎も明治元年(1868)九月、会津で戦死。陣没か。十六歳。


茂原岩之助墓

 茂原岩之助は、玄武士中伊与田隊。明治元年(1868)九月十七日、会津一ノ堰にて戦死。五十八歳。

(束原墓地)


市川権次墓

 三名の名前が列記される墓である。うち左に刻まれるのが市川権次の戒名(水心本無信士)で、「戊辰戦死 二十三歳」とある。


城取家(やい)之墓

 城取やいは、明治元年(1868)九月十三日(十四日とも)、若松城内にて戦死。四十三歳。

(勝方寺)


勝方寺

 勝方寺門前には、「町野家・南摩家 家族殉難(自刃)の地」という目立つ看板が掲げられている。


町野家・南摩家殉難の地碑

 南摩弥三右衛門の母カツと嫁のフサは、幼い子供二人を連れて城西へ逃れ、古寺や空家を転々とするうちにカツの姉町野キトと遭遇した。勝方村に至ってようやく寺院に泊まることができたが、慶應四年(1868)九月六日、落城との報に接し一同は自害を決意し、カツは嫁のフサを城内にある弥三右衛門のもとへ向かわせた末、山中に入って全員自刃した。当地で命を絶ったのは九人。中には三歳から八歳の幼児四名が含まれる。凄惨というほかない。

(徳正寺)


徳正寺

 徳正寺に佐瀬嘉左衛門の墓がある。


光林院諦譽明散浄清居士
(佐瀬嘉左衛門墓)

 佐瀬嘉左衛門は、二十二石四人扶持。玄武寄合組。慶應四年(1868)九月五日、会津福原にて戦死。五十六歳。「幕末維新全殉難者名鑑」には「八月自宅とも」と記載されているが、墓碑側面には「慶應四戊辰年 九月五日」と刻まれている。

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会津坂下 Ⅰ

2013年06月02日 | 福島県
(束松事件の地)


束松事件の地

 束松事件とは、元越前藩士久保村文四郎が、会津藩士高津仲三郎、伴百悦らによって殺害された事件である。久保村は若松藩の役人となり、会津藩を誹謗中傷したことから恨みを買っていた。任を終えて帰郷する途中、この地で殺害された。首謀者の一人である伴百悦は会津戦争後、野晒しとなっていた戦死者の遺体の埋葬に尽力したことで知られる。束松事件の後、越後方面に逃亡した。大安寺慶雲庵に潜伏しているところを捕吏に囲まれ、自刃して果てた。高津仲三郎は、思案橋事件に連座して刑死した。伴百悦も高津仲三郎も会津藩きっての剣客であり、高潔の士であったという。

(気多宮墓地)


松坂平左衛門墓

 気多宮墓地に会津藩士松坂平左衛門の墓がある。松坂平左衛門は、百五十石。玄武士中伊予田隊。慶應四年(1868)、九月五日、若松気多宮にて戦死。六十六歳。


弾痕ののこる道標

 越後街道の道標(「是より右越後路」「是より左柳津路」と刻まれている)に戊辰戦争時のものと推定される弾痕が残る。

(定林寺)


定林寺


真島儀右衛門墓

 定林寺に真島儀右衛門の墓がある。墓には「歓喜院仁譽道義清居士」という戒名が刻まれる。真島儀右衛門は、戊辰戦争で傷を負い、治療していたが、明治元年(1868)十二月二日、死去。没年、所属隊、負傷地等は不詳。「幕末維新全殉難者名鑑」にも記載無し。

(法界寺)


法界寺

 法界寺には、中野竹子の墓がある。寺には中野竹子の数点の遺墨や薙刀も伝わるが、私が法界寺を訪ねたのは午前七時であり、さすがにこの時間に寺の人を呼ぶのは気が引けた。


慰霊 戊辰役殉難碑


中野竹子(小竹女史之)墓

 中央の小さな石が、中野竹子の墓。小竹女史之墓と刻まれている。左手の三角形の石碑は中野竹子辞世碑である。右手の石碑は、「嗚呼壮烈」と題した顕彰碑である。さらにその足もとには、中野竹子の父、中野平内の歌碑がある。ただし、流麗な草書で書かれており、読みとれず。

 中野竹子辞世
 武士の猛き心に比ぶれば
 数にも入らぬ我が身ながらも


烈婦中野竹子女史之英霊碑

(貴徳寺)


貴徳寺


江川銀平墓

 貴徳寺は、赤穂浪士で勇名な堀部安兵衛の生誕地である。門前に「堀部安兵衛誕生之地」碑が建てられている。
 墓地には江川銀平の墓がある。江川銀平は、慶應四年(1868)八月二十三日、滝沢峠にて戦死。


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喜多方 Ⅲ

2013年06月02日 | 福島県
(中里墓地)


官軍松代藩戦死五人墓

 明治元年(1868)九月十一日、熊倉にて戦死した松代藩士五名の合葬墓である。被葬者は不詳。

(光明寺)


光明寺


官軍松代藩士之墓

 光明寺には戦死した松代藩士十一人の墓がある。浅井徳三郎、五明栄次郎、藤井芳郎、松田栄太郎、丸山清蔵、村松栄次郎、山本庫之助、伊藤又三郎、三輪六十郎、牧野功一郎、奥村良之助、大半が熊倉周辺での戦死者である。

(杉の下墓地)


杉の下墓地


義士中根米七墓

 今回、どうしても訪ねたかったのが、この杉の下墓地であった。ここに立ったとき、ちょうど墓地中央にある桜が満開であった。墓には桜がよく似合う。桜の樹の根本に中根米七と佐藤銀十郎の墓がある。

 中根米七の墓には「義士」と刻まれている。中根米七の最期については、綱淵謙錠の小説『苔』に詳しい。中根米七は、明治九年(1876)の思案橋事件の実行犯の一人。辛うじて事件現場から逃走し、同志飯川小膳、金田百助を頼って会津まで行き着いた。中根米七は、明治十一年(1878)八月二十三日、ここ杉の下墓地で自刃した。中根米七の最期は定かではないが、綱渕謙錠氏は諸説を紹介しながら、小説家としての自説を述べている。
 墓の裏には辞世の歌が刻まれている。

 身をくだき骨を野山に曝すとも
 日本(やまと)心の色変わらめや


佐藤銀十郎墓

 小栗上野介従者佐藤銀十郎の墓である。佐藤銀十郎は、倉渕村権田出身の農民。若くして小栗家江戸屋敷に召され、フランス式の陸軍歩兵調練を受けた。小栗上野介が斬首されると、道子夫人を護衛して、信州、越後を経て会津若松城にたどり着いた。その後、会津藩朱雀四番士隊に属して各地を転戦した。明治元年(1868)、九月十一日、熊倉において戦死。

(中眼寺)


中眼寺


浅井信次郎先生之碑

 慶應四年(1868)八月二十三日、西郷頼母邸で自刃した二十一人の中に浅井信次郎の妻子がいた。
 浅井信次郎は戦後中眼寺で寺子屋を開いたといい、境内に記念碑が建てられることになった。明治三十九年(1906)七十一歳にて世を去った。

(阿弥陀寺)


阿弥陀寺


明治戊辰戦死供養塔

 明治二十六年(1893)、阿弥陀寺(塩泉山)三十五世説誉法詮代および塩川町中町赤城源右衛門為忠によって建立された供養塔である。長岡藩四名、桑名藩一名、水戸藩一名、兵庫藩一名、会津藩十名、計十七名が合祀されている。


研堂星孚之墓

 星研堂は、会津藩の書家。寛政五年(1793)の生まれ。藩の右筆と藩校日新館教授を兼ねた。明治二年(1869)七十七歳で死去。


廣安院濟譽民山寶生居士(三本住庵墓)

 三本住庵は塩川町の町医者である。飯盛山で自刃して瀕死の重傷を負った飯沼貞吉を介抱したことで知られる。明治二十四年(1891)没。

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喜多方 Ⅱ

2013年06月02日 | 福島県
(長福寺)


長福寺

 戊辰戦争後、会津藩士は東京と越後高田に謹慎させられた。その家族の多くは、城下の混乱を避けて地方で避難生活を送った。佐川官兵衛の家族も長福寺に移り住んだ。


佐川官兵衛之墓(右) 佐川官兵衛妻墓

 戊辰戦争で勇名を馳せた佐川官兵衛は、斗南藩廃藩後、妻勝の没した長福寺に閑居したが、明治十年(1877)、西南戦争が起ると旧会津藩士を率いて九州阿蘇山麓に出撃し、そこで壮烈な戦死を遂げた。佐川官兵衛の本墓は、阿蘇長陽村にあるが、平成十二年(2000)そこから土を移して妻の墓の傍らに新たな墓が建てられ、百三十数年の時を経て、夫婦共に眠ることになった。


瓜生岩子刀自裁縫教授所跡碑

 瓜生岩子は、小田村の幼学校跡が手狭になったため、明治十二年(1879)、長福寺を借り受け、明治二十年(1887)、福島を出るまでの八年間、貧困者を住まわせ仕事を世話するとともに、裁縫教授所を開いて近隣の農家の娘に裁縫や礼儀を教育した。

(金刀比羅神社)


金刀比羅神社


官軍松代藩五人墓

 金刀比羅神社の裏手に小さな墓地がある。つがいの雉が住みついている。この墓地に明治元年(1868)九月十一日、戦死した松代藩五名の墓がある。

(満福寺)


満福寺

 満福寺の日向家代々の墓に日向内記が葬られているという。
 日向内記は、白虎士中二番隊頭。慶應四年(1868)八月二十二日、白虎士中二番隊を率いて戸ノ口原に出陣したが、食糧調達のため隊を離れた。直後、局面が急変し、飯盛山における白虎隊自刃の悲劇が起きた。日向内記は会津若松城開城までその事実を知らなかったという。戦後、斗南に移住したが、明治四年(1871)会津に戻った。明治十八年(1885)没。


日向家代々之墓

(北町公園)


北町公園

 喜多方市北町公園は、瓜生岩子生誕の地である。公園から道路を隔てた東南の交差点の角に「瓜生岩子刀自生誕之地碑」が建てられている。


瓜生岩子刀自生誕之地碑


佐牟乃神社


瓜生岩子像

 公園に隣接する佐牟乃神社には瓜生岩子の銅像がある。

 喜多方市街を通過したのがちょうど昼食時であった。さすがに本場だけあって、喜多方ラーメンの看板が目につく。せっかくだからラーメンでも食べていこうかと心が揺らいだが、いやいやそんな時間はない、旅の目的はシンプルであるべきであり、美味しいものを楽しむという目的は今回の旅にはなかったはずである、と思い直し、この日も昼食抜きであった。結果的にはゆっくり食事をしている余裕はなく、喜多方ラーメンを見送ったのは正解であった。

(安勝寺)


安勝寺

 安勝寺は、土蔵を改装して本堂にしたというちょっと珍しい寺である。明治十三年(1880)の大火で本堂を焼失した後、外火から守るために、焼け残った土蔵を本堂として再建したものである。


明治戊辰戦死標

 戊辰戦争戦死者と磐梯山噴火犠牲者の慰霊碑。磐梯山は有史以来、幾度か噴火しているが、直近では明治二十一年(1888)に噴火し、四百七十七名もの犠牲者を出したと記録されている。


長岡藩戦死墓

 長岡藩の戦死者合葬墓である。


上遠野(かどの)六郎墓

 墓地を歩いていて上遠野六郎の墓を偶然発見した。上遠野六郎は、朱雀士中四番町野隊。明治元年(1868)九月十一日、会津小荒井濁川にて戦死。四十一歳。

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喜多方 Ⅰ

2013年06月02日 | 福島県
(大谷古墳公園)


大谷古墳公園

 大谷古墳公園と名付けられているが、果たして古墳かどうかは判然としない。よく見ると古墳の前に小さく「伝」という文字があとから貼られた形跡がある。しかし大谷の歴史は古く、弥生時代後期にはかなり栄えていたことが、周辺から出土した土器等から伺われるらしい。墓地には、戊辰戦争時、会津藩に味方して陣ヶ峯で戦死した長岡藩士四名が葬られた小さな墓石がある。


長岡藩四人墓

(泉福寺)


泉福寺

 泉福寺には、西郷勇左衛門と戊辰戦争で自刃した一族の墓がある。


西郷近潔(勇左衛門)夫妻之墓

 西郷勇左衛門は、西郷頼母の支族。会津藩若年寄。戊辰戦争では一族が自決した。明治二十九年(1896)、八十五歳にて死去。
 勇左衛門の墓は、門弟によって建立されたが、長年の風雪により損傷が激しかったため、明治百十年目の昭和五十三年(1978)、孫の高畑ステによって改めて建てられたのがこの墓である。


西郷刑部一家之墓

 西郷刑部は、西郷勇左衛門近潔の長男。朱雀二番寄合隊中隊頭として越後方面にて勇戦。明治元年(1868)九月十五日、一ノ堰にて戦死。三十歳。


芥川斗機時中之墓

 芥川斗機は勇左衛門の二男。明治十九年(1886)、四十歳にて死去。

(西海枝墓地)


舘林藩戦死之墓

 当地で戦死した舘林藩士の墓。被葬者は不明である。

(一竿墓地)


塚越富五郎(小栗上野介従者)終焉の地


塚越富五郎慰霊碑

 小栗上野介は、殺害される直前、夫人と娘、母を倉渕権田村から脱出させ、会津に避難させた。夫人らは権田村の村人に護られて、無事会津若松に入ることができた。村人はそのまま会津における戦争に加わり、うち塚越富五郎と佐藤銀十郎の二人の若者は戦死している。
 一竿は塚越富太郎の終焉の地であり、慰霊碑が置かれている。富太郎は朱雀四番士隊町野隊附属誠志隊に所属して各地を転戦した。慶應四年(1868)九月一日、高郷にて戦死。二十三歳であった。

(示現寺)


示現寺総門

 示現寺の総門は、江戸時代の初期に建立されたと推定される四脚門である。総門をくぐると、まだ雪の残る境内に至る。


瓜生岩子之墓

 示現寺には瓜生岩子の墓や坐像、加波山事件殉難者の顕彰墓碑などがある。


瓜生岩子之像

 瓜生岩子は、文政十二年(1829)に会津小田付村の油商の家に生まれた。比較的恵まれた家庭環境だったと言われるが、九歳にて父と死別し、さらに家も焼失したため母の実家に戻って、母方の瓜生姓を名乗るようになった。結婚して四人の子供をもうけたが、三十四歳のとき夫が他界した。岩子は裁縫や幼学校を起こし、特に戊辰戦争では敵味方なく戦傷者を介抱した。維新後、上京して博愛慈善の施策を広めた。この功をもって、女性では初めて藍綬褒章を賜った。明治三十年(1897)永眠。

(清流寺不動堂)
 今回の史跡旅行では、竹様のHP戊辰掃苔録を参考にさせていただいた。いつもながら竹様の取材力には感心する。清流寺不動堂も、当方のカーナビでは道が表示されないような奥地に所在しており、とてもでないが竹様のHPの助け無しに行き着くことは困難であった。


清流寺不動堂


飯沼貞吉ゆかりの地

 清流寺不動堂には「飯沼貞吉ゆかりの地」という石碑が建てられている。蘇生した飯沼貞吉は、この地に匿われ療養した。

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会津美里 Ⅱ

2013年06月02日 | 福島県
(新町西墓地)


戦死八人墓

 佐藤政治、小池弥久、小川勇之助、山田重三、湯田忠吾、吉田善七、目黒常次郎、深谷作三郎という八人の戒名を刻む合葬墓である。いずれもこの地域出身である。


田母神金吾墓

 田母神金吾は、百五十石。朱雀士中四番隊小隊頭。慶應四年(1868)九月十一日、会津熊倉にて戦死。四十七歳。


明治元戊辰年九月二日
吉田善七義忠墓

 吉田善七は、六石二人扶持、上荒井同心。工兵渡部貞之助隊。慶應四年(1868)、九月一日、会津大内峠にて戦死。三十七歳。


高橋家之墓

 高橋家の墓標に「高橋富太郎 白虎隊士行年十七才 明治元年九月二十九日鶴ヶ城内にて戦死 飯盛山に祀られる」と記載されている。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、高橋富太郎は慶應四年(1868)八月二十三日若松城不明門にて傷を負い、九月二十九日に城内で死亡したという。

(会津薬師寺)


会津薬師寺

 会津薬師寺には本田勇の墓がある。


本田勇墓

 本田勇は、青竜足軽一番杉田隊付。慶應四年(1868)、白河稲荷前で戦死。四十三歳。

(白鳳山公園)


白鳳山公園からの眺望

 白鳳山は、別名向羽黒山と呼ばれ、中世葦名氏によって山城が築かれた。今も本丸跡や二ノ丸跡が散在している。山頂からは遠く会津若松市街や飯豊山を望むことができる。


明治戊辰役萱野隊記念碑

 白鳳山公園山頂には、萱野隊に関する石碑が三基建てられている。
 萱野隊は、一瀬要人の傘下、萱野右兵衛率いる一隊で、主に越後戦線で戦った。旧本郷町は、三百年以上の歴史を持つ本郷焼の町として知られている。戊辰戦争では本郷の陶工からも志願者を募った。彼らは萱野隊の寄合組に編入された。戊辰戦争を通じて六名の戦死者を出した。


萱野隊長之碑

 萱野右兵衛は、戦後斗南に移住したが、かつての部下の招きで本郷に移り住んだ。明治五年(1873)三十三歳で死去。


死節碑

 死節碑は、戦死した六名と生還した三十名の名前を刻んだものである。題字は松平容大、撰文は南摩鋼紀。

(関山)


戦死四十人墓

 関山は、日光・田島の交通の要衝にある宿場であった。慶應四年(1868)九月二日から三日にかけて激しい戦闘となり、東軍では野村悌之助、渥美守太郎以下四十名が戦死した。また関山の民家は、敵の進撃を阻止するために全戸兵火にかけられた。

(栃沢)


会津戦役七士之墓

 大内峠、栃沢で戦死した土佐藩士七名を葬ったもの。被葬者不明。


源右衛門墓

 会津戦役七士の墓から少し関山方面に進んだ墓地の中に宇都宮藩立伏村(現・宇都宮市)の軍夫源右衛門の墓がある。源右衛門は慶應四年(1868)、九月二日、関山にて戦死。四十五歳。

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