(横田)
山ノ内家之墓
(山之内大学墓)
福島県金山町。“かねやま”と読む。山形県の金山町と同じ読みである。
金山町の横田にはJR只見線が走る。山之内家の墓がある墓所には、踏切はないが只見線の線路を越えなくてはいけない。積雪が線路を覆うように残っており、容易に墓地に近づけない。どうやら只見線はこの季節不通になっているようである。滑ったり、転んだりしながら、ようやく墓地にたどり着いた。墓石も半ば雪に埋もれていた。
小沼安士之墓
横田善通之墓
中丸俊成之墓
山之内家家来である小沼源蔵安士、横田大佐善通、中丸三郎右衛門俊成という三人の連名墓である。
小沼源蔵は、慶應四年(1868)九月一日、会津一ノ堰にて傷。十月三日、蔵入玉梨にて死。二十六歳。
横田大佐は、山内大学の弟。十石三人扶持。明治元年(1868)九月十五日、一ノ堰にて傷。玉梨にて自害。三十五歳。
中丸三郎右衛門は、四石二人扶持、長柄者。明治元年(1868)九月二十二日、会津南山で傷。十月二日玉梨にて死。三十七歳。
山内家屋敷跡
横田小学校の敷地辺りが、四百年にわたって横田を治めていた山ノ内家の屋敷跡に相当する。三方の土塁と後方の深田堀で囲まれていたといい、今もその名残を見ることができる。幕末の当主、山ノ内大学知通は、家臣を集めて山ノ内隊を結成して各地を転戦した。維新後は会津藩執政、斗南藩少参事を務めた。
(小沼家墓地)
小沼雄八墓
小沼雄八は山ノ内大学家来。慶應四年(1868)閏四月十八日、越後小出島にて傷。五月十四日、宮下で死。二十七歳。
山ノ内家之墓
(山之内大学墓)
福島県金山町。“かねやま”と読む。山形県の金山町と同じ読みである。
金山町の横田にはJR只見線が走る。山之内家の墓がある墓所には、踏切はないが只見線の線路を越えなくてはいけない。積雪が線路を覆うように残っており、容易に墓地に近づけない。どうやら只見線はこの季節不通になっているようである。滑ったり、転んだりしながら、ようやく墓地にたどり着いた。墓石も半ば雪に埋もれていた。
小沼安士之墓
横田善通之墓
中丸俊成之墓
山之内家家来である小沼源蔵安士、横田大佐善通、中丸三郎右衛門俊成という三人の連名墓である。
小沼源蔵は、慶應四年(1868)九月一日、会津一ノ堰にて傷。十月三日、蔵入玉梨にて死。二十六歳。
横田大佐は、山内大学の弟。十石三人扶持。明治元年(1868)九月十五日、一ノ堰にて傷。玉梨にて自害。三十五歳。
中丸三郎右衛門は、四石二人扶持、長柄者。明治元年(1868)九月二十二日、会津南山で傷。十月二日玉梨にて死。三十七歳。
山内家屋敷跡
横田小学校の敷地辺りが、四百年にわたって横田を治めていた山ノ内家の屋敷跡に相当する。三方の土塁と後方の深田堀で囲まれていたといい、今もその名残を見ることができる。幕末の当主、山ノ内大学知通は、家臣を集めて山ノ内隊を結成して各地を転戦した。維新後は会津藩執政、斗南藩少参事を務めた。
(小沼家墓地)
小沼雄八墓
小沼雄八は山ノ内大学家来。慶應四年(1868)閏四月十八日、越後小出島にて傷。五月十四日、宮下で死。二十七歳。