史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

只見

2013年06月07日 | 福島県
(河井継之助記念館)


河井継之助記念館

 この山あいの寒村が史上脚光を浴びたのは、長岡藩の河井継之助が、この地で息を引き取ったときが唯一であろう。八十里を越えて只見に至った河井継之助は、ここで四十二年間の激動の生涯を閉じた。河井継之助がここで死んだからといって、それだけでは注目を集めることにもならなかったかもしれない。何といっても司馬遼太郎先生の小説「峠」の影響が大きいのではないか。小説のラストシーンは、河井継之助の評価がどうとかいう次元を超えて、とにかく感動的である。今回の旅において、欠かせないスポットの一つであった。
 只見にはまだ残雪があり、北欧の風景と見紛うばかりである。
 河井継之助記念館は、冬期は閉館していると聞いていたが、幸いにしてこの日は営業していた。予想以上に充実した展示であった。


再現された河井継之助終焉宅(矢沢家)

 河井継之助が、只見で最期を過ごしたのは十二日間であった。継之助が息を引き取ったのは、村医矢沢宗益の家であった。河井継之助記念館には、矢沢家が移築再現されている。


河井継之助像


ガトリング砲を操作する河井継之助

 河井継之助は、当時日本に三門しかなかったというガトリング砲を自ら操作して応戦したと伝えられる。その様子を再現したものである。


司馬遼太郎の書

 司馬遼太郎先生は、「峠」の連載後、当地を訪れ、「山水相應蒼龍窟」「壺中天」という二つの揮毫を残した。壺中天とは、俗世間とは一線を画した別天地のことを指し、只見という土地を的確に表現したものである。

以下「峠」のラストシーン
――― 「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
 松蔵はおどろき、泣きながら希みをお持ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
 松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなかった。
 松蔵は作業する足もとで、明りのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。
「松蔵、火をさかんにせよ」
と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
 夜半、風がおこった。
 八月十六日午後八時、死去。

(医王寺)


医王寺

 医王寺は寺ということになっているが、見た目はほとんど物置のようである。
 記念館の女性から「河井継之助の墓は、ここから歩いて数分ですけど、雪が残っているので近づけません」と教えてもらった。確かに墓の前には、雪がこんもりと積まれていた。


河井継之助墓

(叶津番所跡)


長谷部家住宅

 叶津番所を務めた名主長谷部家に、八十里を越えて当地に至った河井継之助一行が宿泊している。
 長谷部家住宅は、県の重要文化財に指定されている寄棟造り、茅葺住宅である。

(新福寺)


新福寺

 新福寺に金沢藩森川余所之助の墓がある。


加賀藩卒森川余所之助墓
行年二十一歳

 金沢藩森川余所之助は、明治元年(1868)九月二十三日、入小屋の戦い(現・南会津町東)にて負傷し、小林で死亡(自決)。二十一歳。

 実は布沢の龍泉寺に金沢藩大田治左衛門の墓があることも把握していたが、そこに至る道路が通行制限中(恐らく残雪のため)ということだったので断念した。只見を訪問するのであれば、季節を選んだ方が良さそうである。

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