(法用寺)
今年のGWは、会津若松に二泊、仙台に二泊、計四泊五日で福島県、宮城県の史跡を回ることを随分以前から計画していた。ところが、直前になって嫁さんから「土曜日に息子の学校の保護者会に行ってほしい」と頼まれた。断る正当な理由もなく、私は半べそをかきながら、保護者会に参加することになった。その代り、保護者会が終了するとその足で会津若松に向かった。
会津は四年前の夏以来である。今回は、会津坂下、柳津、西会津、金山、只見、南会津、昭和、下郷、会津美里そして喜多方を巡る計画を立てた。会津若松に二泊はしたが、市内の史跡を回っている時間は取れなかった。保護者会のおかげでかなりハードな日々となった。今年は大河ドラマ「八重の桜」のおかげで、会津若松市内は例年以上に観光客を集めていたはずだが、私は観光とは無縁の場所ばかりを巡ることになった。それでも十分満足のいく旅であった。
法用寺
会津美里町雀林三番山下の法用寺は、会津戦争の際、水戸諸生隊が一時滞陣した寺である。周囲には見渡す限り、田畑が広がる。恐らくこの風景は、百五十年前の幕末からほとんど変っていないだろう。
法用寺には、会津地方に現存している唯一の三重塔がある。竣工は、安永九年(1780)というから、今から二百三十年以上も前になる。大変美しく、見事な木造建築である。
(招魂碑)
招魂場
外川原の民家の前に招魂場と刻まれた石碑が建てられている。側面には「慶應四戊辰九月」という年月とこの石碑を建立した四名の世話人の名前が刻まれている。
(伊佐須美神社)
伊佐須美神社
伊佐須美神社は、「奥州二の宮」と称する高い格式を誇る古社である。葦名氏から松平氏に至る歴代領主から厚い信仰を集めた。神社境内から道路を挟んだ西側に墓地があり、その中に武井柯亭、野田進という二人の会津藩士の墓がある。
武井柯亭翁之墓
武井柯亭は会津藩士。文政六年(1823)生まれ。嘉永六年(1853)房州警備、安政四年(1857)から江戸勤番ののち、文久二年(1862)会津に戻った。同年、藩主松平容保が京都守護職となると、京都に赴いて桂小五郎ら長州藩士や諸藩の尊攘派と交わった。戊辰戦争では進撃隊頭として新政府軍と戦い、のち主家再興につとめた。維新後は新政府からの招きがあったが、応じなかった。星研堂に書を学び、詩にも長じたという。明治二十八年(1895)死去。
従八位野田進翁之墓
野田進は(1843)生まれ。会津藩の京都守護職就任とともに上京した。鳥羽伏見の戦争が勃発すると、一時衝鋒隊の古屋作佐衛門と行動をともにし、梁田における戦闘にも参加した。その後、会津藩に戻って、一般徴募兵から成る会義隊の隊長を命じられた。籠城戦となっても城外で戦い奮戦を続けた。維新後は小学校の訓導や警察などに勤務した後、伊佐須美神社の主典や禰宜を務めた。没年不詳。
(安楽寺)
安楽寺
安楽寺には、会津藩士西郷栄之進の墓がある。
西郷栄之進信光
「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、西郷栄之進は会津藩士中隊。戦死した日付、場所は不詳。
(観音寺)
観音寺
観音寺から少し離れた墓地入口付近に会津藩笹沼泰造の小さな墓石がある。
笹沼泰造墓
笹沼泰造は、金兵衛叔父。慶應四年(1868)、八月二十三日、若松大町通りで傷。九月、佐布川にて死去。六十六歳。
(本郷墓地)
武田真墓(左) 新妻豊記墓(右)
本郷墓地には、武田真と新妻豊記という二人の会津藩士の墓がある。新妻の墓は、表面が磨滅して全く読みとれない。武田の墓は縦に割れているが、「光含院輝譽忠善居士」という戒名が読みとれる。
新妻豊記は、朱雀士中一番小森隊。慶應四年(1868)、五月一日、磐城白河にて戦死。
武田真の方は、「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。
今年のGWは、会津若松に二泊、仙台に二泊、計四泊五日で福島県、宮城県の史跡を回ることを随分以前から計画していた。ところが、直前になって嫁さんから「土曜日に息子の学校の保護者会に行ってほしい」と頼まれた。断る正当な理由もなく、私は半べそをかきながら、保護者会に参加することになった。その代り、保護者会が終了するとその足で会津若松に向かった。
会津は四年前の夏以来である。今回は、会津坂下、柳津、西会津、金山、只見、南会津、昭和、下郷、会津美里そして喜多方を巡る計画を立てた。会津若松に二泊はしたが、市内の史跡を回っている時間は取れなかった。保護者会のおかげでかなりハードな日々となった。今年は大河ドラマ「八重の桜」のおかげで、会津若松市内は例年以上に観光客を集めていたはずだが、私は観光とは無縁の場所ばかりを巡ることになった。それでも十分満足のいく旅であった。

法用寺
会津美里町雀林三番山下の法用寺は、会津戦争の際、水戸諸生隊が一時滞陣した寺である。周囲には見渡す限り、田畑が広がる。恐らくこの風景は、百五十年前の幕末からほとんど変っていないだろう。
法用寺には、会津地方に現存している唯一の三重塔がある。竣工は、安永九年(1780)というから、今から二百三十年以上も前になる。大変美しく、見事な木造建築である。
(招魂碑)

招魂場
外川原の民家の前に招魂場と刻まれた石碑が建てられている。側面には「慶應四戊辰九月」という年月とこの石碑を建立した四名の世話人の名前が刻まれている。
(伊佐須美神社)

伊佐須美神社
伊佐須美神社は、「奥州二の宮」と称する高い格式を誇る古社である。葦名氏から松平氏に至る歴代領主から厚い信仰を集めた。神社境内から道路を挟んだ西側に墓地があり、その中に武井柯亭、野田進という二人の会津藩士の墓がある。

武井柯亭翁之墓
武井柯亭は会津藩士。文政六年(1823)生まれ。嘉永六年(1853)房州警備、安政四年(1857)から江戸勤番ののち、文久二年(1862)会津に戻った。同年、藩主松平容保が京都守護職となると、京都に赴いて桂小五郎ら長州藩士や諸藩の尊攘派と交わった。戊辰戦争では進撃隊頭として新政府軍と戦い、のち主家再興につとめた。維新後は新政府からの招きがあったが、応じなかった。星研堂に書を学び、詩にも長じたという。明治二十八年(1895)死去。

従八位野田進翁之墓
野田進は(1843)生まれ。会津藩の京都守護職就任とともに上京した。鳥羽伏見の戦争が勃発すると、一時衝鋒隊の古屋作佐衛門と行動をともにし、梁田における戦闘にも参加した。その後、会津藩に戻って、一般徴募兵から成る会義隊の隊長を命じられた。籠城戦となっても城外で戦い奮戦を続けた。維新後は小学校の訓導や警察などに勤務した後、伊佐須美神社の主典や禰宜を務めた。没年不詳。
(安楽寺)

安楽寺
安楽寺には、会津藩士西郷栄之進の墓がある。

西郷栄之進信光
「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、西郷栄之進は会津藩士中隊。戦死した日付、場所は不詳。
(観音寺)

観音寺
観音寺から少し離れた墓地入口付近に会津藩笹沼泰造の小さな墓石がある。

笹沼泰造墓
笹沼泰造は、金兵衛叔父。慶應四年(1868)、八月二十三日、若松大町通りで傷。九月、佐布川にて死去。六十六歳。
(本郷墓地)

武田真墓(左) 新妻豊記墓(右)
本郷墓地には、武田真と新妻豊記という二人の会津藩士の墓がある。新妻の墓は、表面が磨滅して全く読みとれない。武田の墓は縦に割れているが、「光含院輝譽忠善居士」という戒名が読みとれる。
新妻豊記は、朱雀士中一番小森隊。慶應四年(1868)、五月一日、磐城白河にて戦死。
武田真の方は、「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。