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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津美里 Ⅰ

2013年06月02日 | 福島県
(法用寺)
 今年のGWは、会津若松に二泊、仙台に二泊、計四泊五日で福島県、宮城県の史跡を回ることを随分以前から計画していた。ところが、直前になって嫁さんから「土曜日に息子の学校の保護者会に行ってほしい」と頼まれた。断る正当な理由もなく、私は半べそをかきながら、保護者会に参加することになった。その代り、保護者会が終了するとその足で会津若松に向かった。
 会津は四年前の夏以来である。今回は、会津坂下、柳津、西会津、金山、只見、南会津、昭和、下郷、会津美里そして喜多方を巡る計画を立てた。会津若松に二泊はしたが、市内の史跡を回っている時間は取れなかった。保護者会のおかげでかなりハードな日々となった。今年は大河ドラマ「八重の桜」のおかげで、会津若松市内は例年以上に観光客を集めていたはずだが、私は観光とは無縁の場所ばかりを巡ることになった。それでも十分満足のいく旅であった。


法用寺

会津美里町雀林三番山下の法用寺は、会津戦争の際、水戸諸生隊が一時滞陣した寺である。周囲には見渡す限り、田畑が広がる。恐らくこの風景は、百五十年前の幕末からほとんど変っていないだろう。
 法用寺には、会津地方に現存している唯一の三重塔がある。竣工は、安永九年(1780)というから、今から二百三十年以上も前になる。大変美しく、見事な木造建築である。

(招魂碑)


招魂場

 外川原の民家の前に招魂場と刻まれた石碑が建てられている。側面には「慶應四戊辰九月」という年月とこの石碑を建立した四名の世話人の名前が刻まれている。

(伊佐須美神社)


伊佐須美神社

 伊佐須美神社は、「奥州二の宮」と称する高い格式を誇る古社である。葦名氏から松平氏に至る歴代領主から厚い信仰を集めた。神社境内から道路を挟んだ西側に墓地があり、その中に武井柯亭、野田進という二人の会津藩士の墓がある。


武井柯亭翁之墓

 武井柯亭は会津藩士。文政六年(1823)生まれ。嘉永六年(1853)房州警備、安政四年(1857)から江戸勤番ののち、文久二年(1862)会津に戻った。同年、藩主松平容保が京都守護職となると、京都に赴いて桂小五郎ら長州藩士や諸藩の尊攘派と交わった。戊辰戦争では進撃隊頭として新政府軍と戦い、のち主家再興につとめた。維新後は新政府からの招きがあったが、応じなかった。星研堂に書を学び、詩にも長じたという。明治二十八年(1895)死去。


従八位野田進翁之墓

 野田進は(1843)生まれ。会津藩の京都守護職就任とともに上京した。鳥羽伏見の戦争が勃発すると、一時衝鋒隊の古屋作佐衛門と行動をともにし、梁田における戦闘にも参加した。その後、会津藩に戻って、一般徴募兵から成る会義隊の隊長を命じられた。籠城戦となっても城外で戦い奮戦を続けた。維新後は小学校の訓導や警察などに勤務した後、伊佐須美神社の主典や禰宜を務めた。没年不詳。

(安楽寺)


安楽寺

 安楽寺には、会津藩士西郷栄之進の墓がある。


西郷栄之進信光

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、西郷栄之進は会津藩士中隊。戦死した日付、場所は不詳。

(観音寺)


観音寺

 観音寺から少し離れた墓地入口付近に会津藩笹沼泰造の小さな墓石がある。


笹沼泰造墓

 笹沼泰造は、金兵衛叔父。慶應四年(1868)、八月二十三日、若松大町通りで傷。九月、佐布川にて死去。六十六歳。

(本郷墓地)


武田真墓(左) 新妻豊記墓(右)

 本郷墓地には、武田真と新妻豊記という二人の会津藩士の墓がある。新妻の墓は、表面が磨滅して全く読みとれない。武田の墓は縦に割れているが、「光含院輝譽忠善居士」という戒名が読みとれる。
 新妻豊記は、朱雀士中一番小森隊。慶應四年(1868)、五月一日、磐城白河にて戦死。
 武田真の方は、「幕末維新全殉難者名鑑」に記載無し。

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西郷

2013年01月13日 | 福島県
(米 戦死供養塚)


戦死供養塚

 例によって夜が明ける前に家を出て、ほぼ三時間ドライブすると白河ICを通過する。天気予報では午後から晴れるということだったが、朝のニュースでは「回復が遅れ、一日雲の多い天気になる」という。何だか騙されたような気分であった。この日のターゲットは、前回の白河行で回り切れなかった西郷(にしごう)や浅川、それに栃木市の史跡である。

 西郷(にしごう)村は白河市の西に広がる町で、やはり戊辰戦争で最大の犠牲者を出した白河攻防戦に関係する墓碑が散在している。さすがに最激戦地だけあって、私が白河ICで降りたのはこれで三回目となった。東北道白河ICに近い米(よね)杉山前には、同盟軍の戦死者を供養する供養塔が建てられている。

(七仏薬師堂)


七仏薬師堂

 西郷村長坂地区の七仏薬師堂は、明治初期にこの地に移築されたもので、堂に掲げられた額の「鬼門鎮護七仏薬師」という文字は、松平定信の揮毫したものである。


深谷政右衛門墓

 七仏薬師堂の裏手の墓地には、深谷政右衛門の墓がある。深谷政右衛門は、農民の出で、五月十六日の戦闘の巻き添えをくって死亡した。

(熊倉戦死供養塔)


戦死供養塔

 熊倉道場久保にも同盟軍戦死者を葬った供養塔がある。被葬者の氏名は不明。

(米多目的グラウンド)


戊辰桜

 米多目的グラウンドの北側に一本の山桜が立っている。戊辰桜と呼ばれる。
 桜の木の根元に由来を刻んだ石がある。それによれば、白河落城の折、この地に逃れてきた会津藩士を、この石碑を建立した仁平氏の祖父が食住の世話をした。やがて傷が癒えて会津に帰って行ったが、その際、「御世話になりましたが、何の御礼もできません」というと、この桜を植えて去っていったという。

(大龍寺)


大龍寺


戦死墓

 大龍寺の墓地には、上総飯野藩(保科氏二万石)の森要蔵らを葬った戦死墓がある。
 森要蔵は、千葉周作の門下で、江戸麻布永坂に道場を開き、門弟は千人を越えたという。会津藩兵を率いて、同盟軍の一翼を担ったが、七月一日の白河西北郊羽太村で戦死。五十九歳。次男虎尾十六歳も同じ戦闘で戦死した。同じ墓に同藩の小林虎之助、多湖宗三郎。花沢金八郎も葬られている。いずれも七月一日の戦死者である。


會藩 齊藤久太郎清盛墓

 歴代住職の墓域に、会津藩斉藤久太郎の墓がある。斉藤久太郎は、会津藩士。新練土屋隊。六月十二日、白河天神山にて戦死。二十歳。

(穴薬師)


穴薬師

 仙台藩は弱兵といわれたが、細谷十太夫の率いる鴉(からす)組は例外であった。彼らは黒装束に身を包み、ゲリラ戦を得意とした。白河城は落城したが、細谷十太夫らは穴薬師に潜居し、各所に出没して新政府軍を悩ませたという。

(班宗寺)


班宗寺


斎藤孫吉墓(左) 大河原弥太郎墓

 班宗寺本堂裏手の墓地入口に齊藤孫吉と大河原弥太郎という二人の二本松藩主の墓が並べられている。
 齊藤孫吉は、足軽。青山伊右衛門組。六月十二日、白河口追原にて戦死。
 大河原弥太郎の方は「幕末維新全殉難者名鑑」に名前を見つけられず。

(黒川村墓地)


雲昌院義勇法岸居士
(内山忠之右衛門の墓)

東北自動車道が福島県に入った地点、ちょうどその真下辺りに黒川村墓地がある。内山忠之右衛門は、黒川の庄屋。新政府軍を白河まで案内したことを同盟軍に恨まれ、五月二十日、会津藩に捕えられ、八月二十ニ日斬首された。内山が新政府軍に協力したのは、年貢を半減するという太政官布告に期待したためという。

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2012年12月01日 | 福島県
(道の駅はなわ)


田中愿蔵刑場跡

 塙町まで来ると、茨城県境が近い。今回の旅の最大の目的地が、道の駅はなわの駐車場脇にある田中愿蔵刑場跡碑であった。
 田中愿蔵は、水戸近郊での戦闘に敗れ、八溝山(茨城県、福島県県境)に拠ったが、再起を図れずここで兵を解散した。下山したところを塙町真名畑で捕縛され、久慈川河原で斬首された。遺体は塙町の安楽寺に埋葬された。慶應元年(1866)、縁者によって供養碑が建てられた。右手の「田中愿蔵刑場跡」碑は、昭和四年(1929)に建てられたものである。

(安楽寺)


安楽寺

 安楽寺には、田中愿蔵と高橋幸之助、西山常蔵の墓がある。

 田中愿蔵は、弘化元年(1844)、水戸藩医猿田玄碩の次男に生まれた。藩士田中秀貞の養子となって、以来田中姓を名乗る。元治元年(1864)筑波山挙兵に参加し、中軍隊長に就任した。日光、大平と転戦するうちに、本隊と分かれ独立行動を取るようになった。軍用金を強要して拒絶されると火を放ち、強奪斬殺を恣にした。放火掠奪を繰り返す田中隊は庶民の恐怖憎悪するところとなり、天狗党の名も貶めた。幕府追討軍、藩内諸生党と交戦を繰り返したが、八溝山で解隊し、自身は棚倉近くまで逃走されたところで、逮捕斬罪に処された。行年二十一。最盛時には三百人を越えた田中愿蔵隊であったが、源蔵が捕えられたときに供はなく、たった一人であったという。


水戸天狗党 田中愿蔵、高橋幸之助、西山常蔵の墓

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棚倉

2012年12月01日 | 福島県
(棚倉城跡)


亀ヶ城跡碑

 棚倉城は、通称亀ヶ城。ニ代将軍秀忠の頃、丹羽長重に命じて築かせたものである。その後、丹羽氏は白河に転封され、続いて内藤、太田、松平、小笠原、井上、松平と短期間で藩主が入れ替わり、幕末には白河から阿部正静が移封された。棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加盟したものの、必ずしも積極的な参加ではなかった。棚倉城落城とともに降伏した。
 棚倉城は六月二十四日に落城。そのとき白河でも攻防が続いており、さらに新政府軍が平潟港に上陸したとの報を受けて、棚倉藩では両面に兵を送っていた。城にはほとんど守備兵がおらず、板垣退助率いる新政府軍八百の攻撃に、為すことなく明け渡すことになった。この時の戦火で棚倉城は全焼し、建物は一切残っていない。本丸を囲う土塁やその周囲に巡らされた内堀は、往時の雰囲気を伝えている。


棚倉城址

 追手門付近には見上げるばかりの大欅が聳えている。樹齢六百年と推定される。当然のことながら、眼下で繰り広げられた棚倉城攻防戦も見下ろしていたに違いない。


大欅

(蓮家寺)


蓮家寺


弔魂之碑

 蓮家寺の境内に建てられている弔魂之碑は、戊辰戦争で戦死した棚倉藩士四十六名と殉難者十二名を弔うもの。


官軍土藩 公文力之助義盛

公文(くもん)力之助は、土佐藩小高坂村の出身の足軽。迅衝六番隊に属し、六月二十四日、棚倉金山駅外にて戦死。二十四歳。

(天狗党の墓)


元治甲子殉難諸君之霊
三界万霊塔(右)

 元治元年(1864)、八溝山に逃れた天狗党残党二十名が棚倉藩兵に捕えられ、斬刑に処された。当時の棚倉藩主松平周防守康英が、命じて処刑地に「三界万霊塔」を建立させたものである。以来、この地は天狗平と呼ばれることになった。
 当時棚倉藩主だった松平康英は旗本の子であったが、外国奉行や神奈川奉行などの要職を歴任し、文久元年(1861)には竹内下野守を正使とする遣欧使節団に副使として派遣された。帰国後も勘定奉行や江戸南町奉行に任じられ、文久三年(1863)には棚倉藩を相続して晴れて大名に列した。慶應二年(1866)に川越藩主に転じて維新を迎えている。
 欧州で撮影された写真が残っているが、颯爽とした男前である。

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浅川

2012年12月01日 | 福島県
(永昌寺)


永昌寺


戦死霊魂供養塔

 浅川町の永昌寺の墓地の片隅に、七月十六日の浅川における戦闘の犠牲者の供養塔がある。

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古殿

2012年12月01日 | 福島県
(集落センター)


松陰先生遊跡處碑

 古殿町は、人口六千人という山間の小さな町である。
 嘉永五年(1852)、吉田松陰が宮部鼎蔵らとの東北旅行の途中、竹貫(古殿町)に立ち寄った。そのことを記念して、集落センターの敷地内に記念碑が建てられた。

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矢吹

2012年12月01日 | 福島県
(幸福寺)


幸福寺


小針重雄君瘞髪之碑

 幸福寺本堂前には、明治十七年(1884)、加波山事件で死刑になった小針重雄の遺髪墓がある。


本内幸三郎墓

 幸福寺の本堂から少し離れた墓地に仙台藩本内幸三郎の墓がある。本内幸三郎は、六月十二日、白河にて戦死。

(大福寺)


大福寺


仙台藩星内蔵太墓(左)仙藩竹村哲治墓(右)
仙台藩水沢隊士墓(中奥)

 大福寺には、仙台藩士らの墓がある。大福寺には広い墓地があるが、先年の東日本大震災の傷跡が生々しく残る。崩落倒壊したままになっている墓石が随所に見られる。

 星内蔵太は、一番座召出、小隊長。六月十二日、白河石切山にて戦死。三十六歳。
 その横にある仙台藩士の墓は、同じく仙台藩士竹村哲治のもの。中島兵衛之助大隊所属銃士。やはり六月十二日の白河新城口での戦闘で戦死。


松前福山 小原文平克定

 松前福山の小原克定という名前は、幕末維新全殉難者名鑑で調べると、小原猪藤治克定という人物が存在しているが、この人物は慶應四年(1868)十一月十五日、北海道の館村本営で戦死しており(享年十九)、どうもこの墓の主とは違うように思われる。

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白河 東

2012年12月01日 | 福島県
長伝寺)


長伝寺


高田藩忠干碑(左) 戦死集霊供養塔

 現在の白河市釜子字本町(旧・東村)付近に釜子(かまのこ)陣屋があった。釜子は越後高田藩の三万石の飛び領地であり、高田藩はここに二十名の藩士を置いていた。越後高田藩は早々に新政府に恭順したが、遠く離れたこの地にそのことが伝わらず、釜子陣屋詰め藩士は同盟軍につくことを決めたのである。釜子陣屋軍は最後まで同盟軍とともに戦い、最後は九月二十ニ日の会津落城まで戦い抜いた。
 釜子陣屋のあった本町の長伝寺には、高田藩忠干碑と戦死集霊供養塔が建立されている。いずれも釜子陣屋の戦死者を慰霊するものである。高田藩忠干碑は、明治二十三年(1890)の建立。篆額は榎本武揚、山川浩の撰文。右側の戦死集霊供養塔には戦死者十八名の名前が刻まれている。

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白河 表郷

2012年12月01日 | 福島県
(正金寺)


正金寺

 表郷金山竹ノ内の正金寺には、江幡雄四郎という天狗党の一員の墓と戊辰戦争で戦死した仙台藩士の墓がある。天狗党の乱と戊辰戦争の戦場とは基本的には重ならないが、唯一棚倉周辺は二つの騒乱がオーバーラップしている場所である。


水戸浪士 江幡雄四郎
天應良然信士

 江幡雄四郎は水戸藩士で、元治元年(1864)の天狗党の挙兵に参加し、常野を転戦した。破れて奥州に逃れようとする途中、捕吏に囲まれて闘死した。十九歳であった。


仙藩西田林平墓

 江幡雄四郎の墓の横に、背の低い墓がある。こちらは仙台藩西田林平の墓である。
 西田林平は、佐藤宮内大隊所属銃士。慶應四年(1868)六月十二日、白河新城口にて戦死。

 この地域も東日本大震災の揺れの大きかった場所である。古い墓石の多くは、倒壊しており、江幡雄四郎や西田林平の墓石が佇立しているのは、奇跡に近いものを感じた。

(表郷下羽原 鹿島神社)


鹿島神社


内儀茂助墓

 表郷下羽原の鹿島神社には棚倉藩の内儀茂助のはかがある。内儀茂助は、棚倉藩弾薬方。六月二十四日、棚倉にて戦死。

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白河 Ⅱ

2012年12月01日 | 福島県
(白河の関)


史跡 白河関跡

 東北地方は、「白河以北一山百文」と蔑まれたが、白河が古来よりみちのくの関門とされたのは、この地に白河の関があったためである。関が置かれたのは、大化の改新以後の七~八世紀と言われているが、実は関の位置は長らく不明であった。江戸時代後期、時の白河藩主松平定信(楽翁)の考証により、この地が白河関であると断定された。


古關蹟の碑

 寛政十二年(1800)、「古關蹟の碑」が建立された。


空堀と土塁

 昭和三十四年(1959)から三十八年(1963)にかけて発掘調査が行われ、空堀や土塁、柵列などの遺構が発見されている。

(観音寺)
 前日の天気予報で北関東から東北地方が晴れることを確認すると、翌日に備えて早く床に就いた。起床は四時前。顔を洗って、家を出ると外はまだ暗かった。この日の目的地は白河である。三年前に出張のついでに白河市街を三時間だけ探索したが、それ以来である。戊辰戦争でも最激戦地となった場所だけあって、各所にその戦跡が残っている。効率よく回りたい。


観音寺


大垣藩三名墓(酒井元之丞)

 最初の目的地は観音寺である。本殿の裏手に広い墓地が広がるが、戊辰戦争関係者の墓は、比較的古い墓域に点在している。大垣藩の合葬墓を探し当てるのに、広い墓地を一時間も歩き回ることになった。
 大垣藩の酒井元之丞は築造兵一番組銃隊長。第一次の白河攻撃のあった五月二十六日、白坂で戦死した。墓には、酒井のほか、部下である二名(瀬古與作と松岡惣兵衛)の藩士も合葬されている。


岡勝熊墓

 大垣藩の合葬墓の前に、岡勝熊と浅野外祐という二人の長州藩士の墓がある。
 岡勝熊は、装条銃足軽。第一大隊所属。五月一日、白河小田倉で戦死。二十一歳。


浅野外祐墓

 同じく長州藩の浅野外祐も装条銃足軽。第一大隊嚮導見習。八月二十九日、会津若松城下にて戦死。二十一歳。


大平八郎墓

 大平八郎は、地元白河白坂の人。当時は農民と伝えられる。白河攻防戦に際して、大平の案内で新政府軍は夜のうちに敵陣に近づき、奇襲に成功することができた。五月一日の戦闘で新政府軍が勝利を収めた要因の一つに大平の道案内があったのは間違いない。維新後、大平は新政府から感状を受け、人馬継立取締役に任じられるなど、非常に羽振りが良かった。しかも、自分の戦功を盛んに吹聴したので、そのことが斗南の地で極貧生活を送っていた会津人の耳に入った。明治三年(1870)七月、会津藩士田辺軍次は大平を殺害するために斗南を出て白河に至り、大平を呼び出して斬殺した。大平を殺した田辺軍次も、その場で自害した。

(白坂)


戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡

 大垣藩酒井元之丞の戦死地に石碑が残されている。酒井は先頭に立って指揮していたが、手に持っていた軍旗が銃撃目標となり、胸部に銃弾を受け陣没した。二十五歳の若さであった。

 石碑には、酒井の妹のかつが詠んだ歌が刻まれている。

 進み出て績を尽くしたこの神の
 いまは偲びてたつる石ふみ

(南湖公園)


南湖

 白河市南郊の南湖は、当時の白河藩主松平定信によって享和元年(1801)公園として整備された。通常の大名庭園とは異なり、四民に開放されたため、我が国最初の公園と言われる。


松平定信像

 松平定信は、老中として寛政の改革を推進したことで有名である。御三家の田安宗武の七男に生まれ、天明三年(1783)に白河藩主松平定邦の養子となって襲封した。天明の飢饉のときの藩政が評価されて、老中に抜擢されることになった。藩政では「白河風土記」を編纂させた。多くの著述を残し、全国の学者との交流も多かった。


南湖神社

 南湖神社は、大正十一年(1922)、松平定信を祀るために開かれたもので、境内には定信ゆかりの茶室羅月庵も移設されている。


棚倉藩鎮英碑

 南湖神社に隣接して翠楽園という日本庭園が作られているが(入場料310円)、そこから更に西に行くと、湖畔に面して棚倉藩鎮英碑が建てられている。この石碑は、戊辰戦争による棚倉藩の戦死者の霊を祀るもので、明治十七年(1884)に平田文左衛門という人物が敬義会を結成して、建立したものである。

(大竹家墓地)


官軍大竹繁三郎之墓

 夏梨の集落にある大竹家墓地に、大竹繁三郎の墓がある。大竹繁三郎は、夏梨出身の農夫であるが、馬を連れて戻る途中、新政府軍に密偵と間違えられて惨殺された。新政府軍では、このことを深く詫びて、墓を設けて官軍として葬ったと言われる。墓の側面を見ると、「官軍 大竹繁三郎之墓」と彫られている。

(八竜神)


戊辰役 戦死之碑

 藤沢山と呼ばれるこの場所には、大きな斎場があって、私が自動車を停めるとさっそく葬儀場の係の方が、「お葬式ですか」と近寄ってきた。「いえ、戊辰戦争の…」と来訪目的を説明しようとすると、「あ、どうぞ」と放っておかれた。
 そこから直ぐの場所に戊辰役戊辰戦死碑が建立されている。この石碑は、藤沢地区のほか、土武塚、八竜神に散葬されていた同盟軍の戦死者四十二人を合葬し、その霊を慰めるために地元有志の手によって大正元年(1912)十月に建立されたものである。

(関辺油久保)


戦死墓

 関辺油久保集落の一角に、戊辰戦争の戦死者を葬った「戦死墓」が置かれている。誰が葬られているのか不明。朱色の彼岸花が印象的であった。

(宝積院)


宝積院

 小田川の宝積院には、古山孫四良、丹羽新吾、佐々木廣之助という三人の墓がある。


古山孫四良(奥) 丹羽新吾宗方(中) 佐々木廣之助(手前) 墓

古山孫四良は、仙台藩士。墓碑によれば享年四十九。幕末維新全殉難者名鑑では古山幸之進とあるのが、同人か。
丹羽新吾は会津藩士らしいが、こちらも幕末維新全殉難者名鑑に名前を見つけられず。墓碑によれば、七月十五日に戦死。
佐々木廣之助は、仙台藩士。浜田郡治隊に属した足軽で、六月十二日、白河で戦死。

(観音堂)


観音堂


戊辰戦死供養塔

 宝積院から数百メートルにある観音堂の前に同盟軍の戦死者を祀る供養塔が建てられている。

(大桜岡)


戦死供養塔

 大桜岡にも同盟軍戦死者の供養塔がある。

(白井掛無縁塚)


無縁塚

 戊辰戦争で亡くなった無縁の両軍戦死者や白河領民を合葬したものである。左側面に「慶應戊辰年五月戦死墓」とあるが、何名、どこに所属した者かは不明。

(清光寺)


清光寺


増淵勝蔵墓

 清光寺の本堂裏山に宇都宮藩兵糧方増淵勝蔵の墓がある。増淵勝蔵は十七歳で軍夫として従軍し、慶應四年(1868)五月二十日、釜子から小峰城(白河城)に向かう途中、細倉にて同盟軍の攻撃を受けて戦死した。死亡日は、ほかに七月二十六日、八月七日説もある。享年二十歳とも。

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