(常楽寺)
常楽寺
常楽寺には、会津藩士山本栄三郎、長岡藩士岡村半四郎、中田良平、薩摩藩士吉田与藤次の墓がある。
山本栄三郎墓
山本栄三郎は、田中大海家来。朱雀寄合二番西郷隊附属。慶應四年(1868)、七月二十九日、新潟にて戦死。
岡村半四郎・中田良平墓
岡村半四郎、中田良平とも長岡藩士で中間杖突。岡村半四郎は、明治元年行方不明。中田良平は、慶應四年(1868)、八月下旬(墓碑によれば八月二十八日)、会津領大山祇辺りで戦死?
薩藩 官軍先鋒 吉田譽藤二清次墓
吉田与藤次は、加世田郷士。外城第二隊。慶應四年(1868)九月一日、下野御蔵入村で戦死。二十五歳。新潟常盤岡に墓。
(龍泉寺)
龍泉寺
安藤元四郎墓
天気予報によれば、GWは好天だということであったが、この辺りを走っているうちに雲行きが怪しくなってきて、龍泉寺に着いたときには本降りとなった。
いつもは傘を携行しているのだが、今回に限って持っていなかった。こういうときに限って雨に祟られる。「降らないって言ってたじゃないの」と気象庁に文句をいいたくなった。
龍泉寺では、雨に濡れながら墓地を歩くことになった。
墓地の一番奥に安藤元四郎の墓がある。安藤元四郎は、朱雀士中四番町野隊。慶應四年(1868)九月二日、会津真ヶ沢にて戦死。二十七歳。墓の表面はほとんど剥離しており、辛うじて「安」と「墓」という文字が読みとれるのみである。

常楽寺
常楽寺には、会津藩士山本栄三郎、長岡藩士岡村半四郎、中田良平、薩摩藩士吉田与藤次の墓がある。

山本栄三郎墓
山本栄三郎は、田中大海家来。朱雀寄合二番西郷隊附属。慶應四年(1868)、七月二十九日、新潟にて戦死。

岡村半四郎・中田良平墓
岡村半四郎、中田良平とも長岡藩士で中間杖突。岡村半四郎は、明治元年行方不明。中田良平は、慶應四年(1868)、八月下旬(墓碑によれば八月二十八日)、会津領大山祇辺りで戦死?

薩藩 官軍先鋒 吉田譽藤二清次墓
吉田与藤次は、加世田郷士。外城第二隊。慶應四年(1868)九月一日、下野御蔵入村で戦死。二十五歳。新潟常盤岡に墓。
(龍泉寺)

龍泉寺

安藤元四郎墓
天気予報によれば、GWは好天だということであったが、この辺りを走っているうちに雲行きが怪しくなってきて、龍泉寺に着いたときには本降りとなった。
いつもは傘を携行しているのだが、今回に限って持っていなかった。こういうときに限って雨に祟られる。「降らないって言ってたじゃないの」と気象庁に文句をいいたくなった。
龍泉寺では、雨に濡れながら墓地を歩くことになった。
墓地の一番奥に安藤元四郎の墓がある。安藤元四郎は、朱雀士中四番町野隊。慶應四年(1868)九月二日、会津真ヶ沢にて戦死。二十七歳。墓の表面はほとんど剥離しており、辛うじて「安」と「墓」という文字が読みとれるのみである。
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